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愛甲猛
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{{Infobox baseball player |選手名 = 愛甲 猛 |英語表記 = |所属球団 = |背番号 = |選手写真ファイル名 = |写真サイズ = |写真のコメント = |国籍 = {{JPN}} |出身地 = [[神奈川県]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|1962|8|15}} |没年月日 = |身長 = 181 |体重 = 87 |利き腕 = 左 |打席 = 左 |守備位置 = [[一塁手]]、[[外野手]]、[[投手]] |プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1980}} |ドラフト順位 = ドラフト1位 |初出場 = 1981年4月6日 |最終出場 = 2000年5月20日 |経歴 = <nowiki></nowiki> * [[横浜中学校・高等学校|横浜高等学校]] * [[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ<br />千葉ロッテマリーンズ]] (1981 - 1995) * [[中日ドラゴンズ]] (1996 - 2000) |選出国 = |選出年 = |得票率 = |選出方法 = }} '''愛甲 猛'''(あいこう たけし、[[1962年]][[8月15日]] - )は、[[神奈川県]]出身の元[[プロ野球選手]]([[内野手]]、[[外野手]]、[[投手]])・[[俳優]]・[[実業家]]・[[野球評論家]]。 選手時代は[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]]、[[中日ドラゴンズ|中日]]に在籍。ロッテでは勝負強さを武器に[[クリーンナップ|主軸]]を打ち、中日では[[代打]]の切り札として活躍した。 == 来歴 == [[横浜中学校・高等学校|横浜高校]]では1年生から左腕エースとなり、{{by|1978年}}の[[第60回全国高等学校野球選手権大会]]に出場。エースで3番打者を務めた3年時の{{by|1980年}}の[[第62回全国高等学校野球選手権大会]]では決勝で[[早稲田大学系属早稲田実業学校初等部・中等部・高等部|早稲田実業]]の[[荒木大輔]]に投げ勝ち優勝。 本人は地元である[[横浜DeNAベイスターズ|横浜大洋ホエールズ]]か[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]への入団を希望していたが、[[1980年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|同年のドラフト会議]]で[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテオリオンズ]]に1位指名される。もし大洋から指名されなかった場合は社会人の[[プリンスホテル硬式野球部]]を経由して西武に入団するというという密約を西武と結んでいたため、ドラフト後の記者会見で「ロッテにはいきたくありません」と発言してしまい、露骨に嫌な表情を浮かべた写真や映像が知られることなった。しかし、他の指名選手に遅れて入団。入団発表での記者会見で「野球をやめたら[[既製服|吊るしの洋服屋]]がやりたい」というコメントを残す。入団後は[[高橋博士]]のものだった背番号'''1'''を与えられた。また愛甲を目当てに多くのファン、とりわけ女性が(後述)キャンプや試合に訪れた。 プロでは[[投手]]としてスタートするが、1勝もできず伸び悩む。4年目の{{by|1984年}}からは野手に転向。チームの先輩[[落合博満]]に弟子入りして打撃技術向上に取り組む。落合に受けた[[フィジカルトレーニング|自主トレ]]は[[スパルタ教育|スパルタ]]そのもので、余りの厳しさに愛甲がつい「これでも甲子園優勝投手ですよ」とこぼすと、落合は「そんなに甲子園がいいなら甲子園に帰ればいい」と一喝。愛甲はこれでプライドを捨てる事ができたという。落合はそうした厳しい指導の反面、愛甲に対して面倒見がよく、打者転向に一番大きな役割を果たしてくれたと愛甲は自著『球界の野良犬』で語っている。またこの自著によると当時のロッテは落合派と[[有藤道世|有藤]]派に分かれているとみなされ、打者として頭角をあらわして以降の愛甲は落合派の代表とみなされたが、「お互い一匹狼の落合さんと自分が派閥なんてつくるはずはなかった」と反論している。 野手転向3年目の{{by|1986年}}から[[一塁手]]としてレギュラーに定着。強肩を買われ[[外野手]]を務める事もあった。{{by|1988年}}にはチームの主軸として初の二桁本塁打を記録。[[10.19]]のダブルヘッダー第1試合では初回に[[小野和義]]から先制2ランを放った。{{by|1989年}}には打率3割を記録し、[[ゴールデングラブ賞]]も獲得。 1988年6月25日から{{by|1992年}}7月11日にかけて535試合連続フルイニング出場を続け、[[パシフィック・リーグ|パ・リーグ]]記録(セ・リーグも含めると歴代5位)となっている。なお、連続フルイニング出場が途切れたのは、1992年7月11日に5打席5三振(1試合の三振日本タイ記録)で翌日はスタメン落ちしたためである。それでも、1987年10月20日から続けている連続試合出場は継続し、1993年6月6日まで694試合連続出場(当時パ・リーグ歴代5位)を記録した。なお、愛甲の自著によると、連続試合出場が途切れたのは当時の八木沢監督が起用を忘れていたためであるといい、その振る舞いに失望した旨が記されている。 {{by|1995年}}、不調に陥りチーム構想を外れ、シーズンオフに[[中日ドラゴンズ]]へ[[無償トレード]]される。中日では主に代打の切り札として活躍。 {{by|1999年}}には代打起用ながら打率.387と勝負強さを見せ、リーグ優勝に貢献。9月30日、マジック1で迎えた神宮球場の対ヤクルト戦で、彼が代打で打席に立っている時に2位巨人が敗れて優勝が決まり、スタンドが大きくどよめいた。直後には見事一二塁間を抜くヒットを放った。翌{{by|2000年}}限りで現役引退。 その後、飲食店経営やサラリーマンなど職を転々とする。[[タレント]]時代には映画([[Vシネマ]])に端役として出演。一時期は[[プロ野球マスターズリーグ]]にも参加した。 [[2002年]]には失踪騒動が起こり世間を騒がせる。様々な憶測を呼んだが、愛甲本人は「3日ほど温泉に行っていただけ」と語っており、タレントとして契約していた芸能プロダクションとのトラブルにより、失踪という報道が出てしまったのが原因と主張した。 [[2006年]]からは独立して[[東京都]]の[[錦糸町]]で[[化粧品]]・[[サプリメント]]の企画会社を経営、現在に至る。 [[2008年]]からは雑誌[[スコラ]]で、野球コラムを連載している。 == 人物 == 端正な顔立ちと野球の実力を兼ね備えたことから、特に女性の間で絶大な人気と知名度を誇った「甲子園のアイドル」だった一方、[[非行少年|悪童]]としても知られた。中学3年生ですでに[[タバコ]]、[[麻雀]]、[[シンナー#.E3.82.B7.E3.83.B3.E3.83.8A.E3.83.BC.E9.81.8A.E3.81.B3|シンナー]]、女性との初体験などを経験していたと自著で述べている。高校時代のあだ名は「あんぱん」であったという<ref>『昭和56年度版プロ野球大百科』p200(1981年4月、[[勁文社]])。「あんぱん」にはシンナー遊びの俗称としての意味もあるがそれについては引用文献では触れられていない。</ref>。高校卒業間際には暴行事件が発覚。愛甲はチームメイトや関係者らに謝罪したが、横浜高校はこの一件が原因で対外試合禁止処分を受け、春の大会に出場できなかった。甲子園優勝投手の暴行事件として反響を呼んだ。 高校時代には[[下宿]]先の[[渡辺元智|渡辺元]]監督宅の電話を毎晩夜遅くまで使い、そのために渡辺家の電話代は通常の何倍にもなってしまったが、当の渡辺監督は「それで愛甲が立ち直ってくれるなら」と、黙認していた。 指名された瞬間とは違い、入団後は特に不満を漏らすことはなかった。名実とも「ロッテの顔」となった打者転向後はファンサービスにも熱心であった。1990年のドラフトで[[小池秀郎]]がロッテの1位指名を拒否し、「ロッテにだけは行きたくない」と発言した話を聞くと'''「あんな風に公に批判をするもんじゃない。もし、僕が彼の先輩だったらぶん殴ってやりますよ」'''と憤った。 1989年は一時期、打率.330を超え首位打者争いをするなど絶好調だったが、シーズン終盤に調子が急落。3割すら切りそうなほどの[[スランプ]]にあえいだが、ある試合で[[松永浩美]]に「サードに転がせばヒットにしてやるよ」と言われたことをきっかけに内野安打で出塁。調子を取り戻し、3割を達成した。 ロッテが[[川崎球場]]から[[千葉マリンスタジアム]]に本拠地を移した1992年、2試合だけ川崎球場での公式戦が組まれた。愛甲はこのうち[[7月4日]]の近鉄戦で[[高村祐]]から本塁打を放ったが、その本塁打が、川崎球場の一軍公式戦での最後の本塁打になった。 ロッテ時代の応援歌に[[ソルティー・シュガー]]の「[[走れコウタロー]]」が使われていた。 まだ球団名がロッテオリオンズだった川崎球場時代と、千葉移転初期のピンクのユニフォームだった頃に、一人だけ背番号の'''1'''が「下部に横棒の付いた1」であった。 夫人とはロッテ時代にJR[[横須賀線]]の車内で出会った。[[酔っ払い]]に絡まれ、偶然愛甲の隣の座席に逃げてきた現夫人に電話番号を書いた紙を渡したことをきっかけに、後日きた彼女からの返事で交際が始まった。 2009年[[8月]]、娘が千葉マリンスタジアムで売り子の[[アルバイト]]をしていることが報じられた。 長男は、2012年に日本野球連盟に新規加入したTOKYO METSに所属している。 == プレースタイル == 打撃では勝負強いバッティングを武器に主軸を打っており、[[1988年]]から3年連続で2ケタ本塁打を放つなどしたが、21本を放った[[1990年]]は低打率だったため、それ以降は安打性のバッターに変わった。 守備は一塁手を中心に外野手もこなした。[[1989年]]には[[ゴールデングラブ賞]]を獲っている。股関節が柔らかく180度開脚して送球を受けることができた。 かつては頑丈な選手としても知られ、535試合連続フルイニング出場のパ・リーグ記録を持っている。 == 薬物使用 == 週刊誌などで自らの薬物使用を何度も告白している([[週刊現代]]2001年4月発売号、[[SPA!]]2008年発売号、[[週刊新潮]]2009年7月23日号)。それらによると、中日時代の1990年代末に体力の衰えをカバーするため、ホルモン剤の「[[アンドロステンジオン]]」を服用したという。薬を使ったトレーニングの効果として、すべての力、体力、持久力、精力が異常に強くなった。副作用に関しては「引退(2000年)の2年前から、激しい動悸が起きるようになったため量を減らした」「引退から3カ月ほど経ったころ、足が異様にむくんだりして、病院で『静脈血栓』と診断され、即入院を言い渡された」など、薬物の危険性を語っている。結果的に薬物の使用による副作用で故障がちとなり、選手寿命を縮めることになったが、著書では「後悔はしていない」とも述べている。 なお、自身が「[[プロテイン]]を使用したトレーニングなど様々な肉体改造を模索した末、医師と相談した上で[[マーク・マグワイア]]と同じアンドロステンジオンを服用した」と語るように、当時はドーピングに対する禁止規定や批判は少なく(アンドロステンジオンは当時サプリメントとしてアメリカ国内で合法的に販売されていた)、自身も[[アナボリックステロイド]]の副作用や[[フローレンス・グリフィス=ジョイナー]]の急死事件を考慮するなど、当時の時代背景で認められる範囲の使用であったことも語っている。後に[[バルコ・スキャンダル]]などを発端としてドーピングに対する目が厳しくなる中、「昔は認められたが現在は認められない行為」として自身の体験を引き合いにドーピングの危険性について警鐘を鳴らす機会も増えている。 == 詳細情報 == === 年度別投手成績 === {| {{投手成績|リーグ=日本プロ野球}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|1981}} |rowspan="3" style="text-align:center;"|[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]] |8||2||0||0||0||0||2||0||--||.000||83||17.0||21||2||12||0||4||7||1||0||19||19||10.06||1.94 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1982}} |5||0||0||0||0||0||0||0||--||----||22||5.1||9||3||2||0||0||0||0||0||4||4||6.75||2.06 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1983}} |48||0||0||0||0||0||0||0||--||----||126||24.2||23||4||28||2||2||16||1||0||16||12||4.38||2.07 |- !colspan="2"|通算:3年 |61||2||0||0||0||0||2||0||--||.000||231||47.0||53||9||42||2||6||23||2||0||39||35||6.70||2.02 |} === 年度別打撃成績 === {| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|1981}} |rowspan="15" style="text-align:center;"|[[千葉ロッテマリーンズ|ロッテ]] |13||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||----||----||----||---- |- |style="text-align:center;"|{{by2|1982}} |5||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||----||----||----||---- |- |style="text-align:center;"|{{by2|1983}} |48||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||----||----||----||---- |- |style="text-align:center;"|{{by2|1984}} |2||6||6||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||0||1||0||.000||.000||.000||.000 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1985}} |40||63||59||10||18||6||0||2||30||8||0||2||0||1||3||0||0||9||1||.305||.333||.508||.842 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1986}} |108||294||268||35||71||9||2||7||105||26||4||5||8||4||12||0||2||55||3||.265||.297||.392||.689 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1987}} |105||316||292||39||76||20||2||8||124||31||2||5||3||2||18||1||1||44||8||.260||.304||.425||.728 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1988}} |'''130'''||538||493||61||141||'''30'''||0||17||222||63||7||2||2||3||34||3||6||72||11||.286||.338||.450||.788 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1989}} |'''130'''||576||'''528'''||66||160||'''34'''||2||13||237||65||8||3||0||0||46||1||2||111||15||.303||.361||.449||.810 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1990}} |'''130'''||580||'''523'''||75||127||27||0||21||217||72||15||4||6||3||48||1||0||112||5||.243||.305||.415||.720 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1991}} |'''130'''||565||495||46||134||30||2||8||192||59||7||3||11||4||55||4||0||92||8||.271||.341||.388||.729 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1992}} |'''130'''||534||464||42||127||26||2||8||181||53||4||5||15||'''6'''||42||1||7||83||8||.274||.339||.390||.729 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1993}} |125||456||398||42||100||27||2||8||155||33||3||2||10||5||41||3||2||58||9||.251||.321||.389||.710 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1994}} |111||363||327||41||95||20||2||5||134||41||1||2||3||0||31||0||2||49||1||.291||.356||.410||.765 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1995}} |46||121||105||6||19||4||0||2||29||7||1||0||3||0||12||3||1||27||4||.181||.271||.276||.547 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1996}} |rowspan="5" style="text-align:center"|[[中日ドラゴンズ|中日]] |56||91||82||7||17||3||0||4||32||17||0||0||0||3||5||0||1||22||3||.207||.253||.390||.643 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1997}} |93||121||99||8||28||5||1||2||41||20||0||0||2||4||16||0||0||18||3||.283||.370||.414||.784 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1998}} |78||78||62||9||14||2||0||2||22||13||0||0||1||1||13||1||1||13||1||.226||.364||.355||.718 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1999}} |38||34||31||3||12||1||0||0||13||3||0||0||0||0||3||0||0||6||0||.387||.441||.419||.861 |- |style="text-align:center;"|{{by2|2000}} |14||13||12||1||3||1||0||1||7||2||0||0||0||0||1||0||0||2||2||.250||.308||.583||.891 |- !colspan="2"|通算:20年 |1532||4749||4244||491||1142||245||15||108||1741||513||52||33||64||36||380||18||25||774||82||.269||.330||.410||.740 |} * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 === 表彰 === * [[ゴールデングラブ賞]]:1回 (1989年) === 記録 === ; 初記録(投手記録) * 初登板:1981年4月6日、対[[埼玉西武ライオンズ|西武ライオンズ]]前期3回戦([[川崎球場]])、8回表に3番手で救援登板・完了、2回4失点 * 初奪三振:同上、8回表に[[大石友好]]から * 初先発:1981年6月25日、対西武ライオンズ前期13回戦(川崎球場)、1回1/3を6失点で敗戦投手 ; 初記録(打撃記録) * 初打席:1984年9月25日、対[[北海道日本ハムファイターズ|日本ハムファイターズ]]26回戦(川崎球場)、6回裏に[[木村広]]の前に左飛 * 野手での初先発出場:1984年9月28日、対[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]26回戦(川崎球場)、7番・[[一塁手]]として先発出場 * 初安打:1985年5月26日、対[[オリックス・バファローズ|阪急ブレーブス]]7回戦([[阪急西宮スタジアム|阪急西宮球場]])、4回表に[[山田久志]]から左前安打 * 初打点:1985年9月30日、対日本ハムファイターズ18回戦([[後楽園球場]])、4回表に[[柴田保光]]から2点適時打 * 初本塁打:1985年10月3日、対日本ハムファイターズ21回戦(後楽園球場)、8回表に柴田保光から右越決勝ソロ ;節目の記録 * 1000試合出場:1993年5月19日、対オリックス・ブルーウェーブ5回戦([[千葉マリンスタジアム]])、7番・一塁手として先発出場 ※史上309人目 *1000本安打:1994年6月18日、対[[福岡ソフトバンクホークス|福岡ダイエーホークス]]12回戦(千葉マリンスタジアム)、4回裏に[[加藤伸一]]から右前安打 ※史上177人目 *100本塁打:1996年4月7日、対[[広島東洋カープ]]3回戦([[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]])、6回表に[[紀藤真琴]]から右越決勝ソロ ※史上186人目 * 1500試合出場:1999年8月20日、対広島東洋カープ20回戦([[ナゴヤドーム]])、7回裏に[[中村武志]]の代打として出場 ※史上127人目 ; その他の記録 * 535試合連続全イニング出場:1988年6月25日、対西武ライオンズ13回戦([[石川県立野球場]])~1992年7月11日、対日本ハムファイターズ15回戦(千葉マリンスタジアム) ※パ・リーグ記録 * 1試合三振:5 ※日本タイ記録(史上4人目) * 6試合連続二塁打:1994年5月28日、対[[大阪近鉄バファローズ|近鉄バファローズ]]6回戦([[藤井寺球場]])~6月7日、対近鉄バファローズ8回戦(千葉マリンスタジアム) * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:2回 (1989年、1991年) === 背番号 === * '''1''' (1981年 - 1995年) * '''9''' (1996年 - 2000年) == 関連情報 == === 著書 === * 『球界の野良犬』([[宝島社]]:2009年8月) ISBN 9784796671903 * 『愛甲猛のプロ野球ガチンコ観戦ノート』([[オークラ出版]]:2010年9月) ISBN 9784775515921 * 『球界のぶっちゃけ話』(宝島社:2012年1月) ISBN 9784796686709 * 『球界への爆弾提言』(宝島社:2013年4月) ISBN 9784800207340 ===DVD=== *バッティング指導法DVD「[http://www.batting123.com/ 少年野球バッティング 愛甲猛の上達指導法]」を発売。 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == * [[神奈川県出身の人物一覧]] * [[千葉ロッテマリーンズの選手一覧]] * [[中日ドラゴンズの選手一覧]] {{パシフィック・リーグ ゴールデングラブ (一塁手)}} {{ロッテオリオンズ1980年ドラフト指名選手}} {{DEFAULTSORT:あいこう たけし}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:千葉ロッテマリーンズ及びその前身球団の選手]] [[Category:中日ドラゴンズ及びその前身球団の選手]] [[Category:日本の俳優]] [[Category:日本の実業家]] [[Category:神奈川県出身の人物]] [[Category:1962年生]] [[Category:存命人物]] [[Category:横浜高校出身の野球選手]]
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