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'''恒良親王'''(つねよししんのう/つねながしんのう、[[正中 (元号)|正中]]元年([[1324年]]) - [[延元]]3年/[[建武 (日本)|建武]]5年[[4月13日 (旧暦)|4月13日]]([[1338年]][[5月3日]]))は、[[後醍醐天皇]]の皇子。母は後醍醐の寵姫[[阿野廉子]]。[[成良親王]]、[[後村上天皇|義良親王]]の同母兄。後醍醐天皇と足利尊氏との内戦の中で、一時的に天皇となる。 名前の読みが二種類あることについては、[[後醍醐天皇#皇子の読み|後醍醐天皇の皇子の読み]]を参照。 == 経歴 == [[元弘]]元年([[1331年]])、後醍醐天皇の2度目の挙兵計画が失敗して([[元弘の変]])[[鎌倉幕府]]に捕らえられ、[[但馬国]]に配流される。元弘3年([[1333年]])に太田守延に奉じられ、[[千種忠顕]]らとともに[[足利尊氏]]の[[六波羅探題]]攻撃に参加する。幕府が滅亡し[[建武の新政]]が始まると、阿野廉子が産んだ皇子の中で最年長だった恒良は建武元年([[1334年]])に[[皇太子#日本の皇太子|皇太子]]に指名される。 足利尊氏が新政から離反し、建武3年([[1336年]])の[[湊川の戦い]]に勝利して京都へ迫ると、[[比叡山]]に逃れていた恒良は後醍醐天皇から皇位と[[三種の神器]]を譲られ、異母兄の[[尊良親王]]とともに[[新田義貞]]・[[新田義顕|義顕]]父子に奉じられて[[北陸地方|北陸]]統治を名目に[[越前国]][[金ヶ崎城]]([[福井県]][[敦賀市]])に下向する。北陸での恒良は各地の武将に[[綸旨]](天皇の命令書)を発給しており、自らを天皇と認識していたことが知られる。しかし、後に京を脱出した後醍醐が[[吉野]]で[[南朝 (日本)|南朝]]を開いた事により、恒良の皇位は無意味となり、恒良は歴代天皇には数えられていない。譲られた神器は偽器だったともいわれているが、真偽のほどは不明である。 翌年、足利方の[[高師泰]]・[[斯波高経]]率いる軍勢により落城する([[金ヶ崎の戦い (南北朝時代)|金ヶ崎の戦い]])と、義貞は脱出するが、尊良・義顕は自害し、恒良は捕らえられ[[京都]]へ護送される。『[[太平記]]』では弟の成良親王らとともに花山院第に幽閉され共に毒殺されたと伝えられる。ただし成良親王については、『[[師守記]]』にて康永3年1月6日(1344年1月21日)に「後醍醐院皇子先坊」が死去したとの記録があり、これが成良親王を指すとも考えられるため、詳細は不明である。 == 関連項目 == *[[天皇家]] {{DEFAULTSORT:つねなかしんのう}} [[Category:日本の皇太子]] [[Category:日本の親王]] [[Category:室町・安土桃山時代の男性皇族]] [[Category:日本の神 (人物神 建武中興)]] [[Category:1324年生]] [[Category:1338年没]]
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