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'''応仁記'''(おうにんき)は、[[室町時代]]の[[歴史書]]である。[[足利将軍家]]や[[畠山氏]]、[[斯波氏]]の家督争いなどから発展した「[[応仁の乱]]」を描いた[[軍記物語]]。全3巻で、各種の諸系統本がある。「[[太平記]]」の影響を受け、漢字カタカナ交じり文。作者未詳。成立年は[[15世紀]]末から[[16世紀]]中ごろと諸説ある<ref>現存する写本の注記に[[大永]]3年([[1523年]])の記載があり、成立は大永3年ともされる。石田、P4。</ref>。 ==内容== [[室町時代]]の末期の[[応仁]]元年([[1467年]])から始まった応仁の乱を、梁の宝誌和尚作と伝えられている『[[野馬台詩]]』末六句に予言された「[[修羅闘諍]]」の世界に当てはめて描いたもので、西軍の大将山名持豊([[山名宗全]])が「猿」(申年生まれであるため)、東軍の大将[[細川勝元]]が「犬」(戌年生まれであるため)と「猿犬称英雄」(猿犬、英雄と称す)の句になぞらえることができる。 その上で、乱の原因と洛中の合戦の様子が作者の自らの解釈を交えながら描写される。乱による荒廃した都、その哀惜や悲嘆、乱の原因から戦闘場面に移る克明な描写、最後は「都鄙遠境共ニ修羅道トゾ成ニケル」で終わる。このようなことから、この応仁の乱を熟知し何らかの関与をしていた人物で武家の戦乱の無意味さを嘆いた出家した僧か公家が作者ではないかとも思われる。[[儒教]]的色彩も濃い。 しかし、[[文明 (日本)|文明]]9年([[1477年]])まで10年余りに続いた乱の全てを記しているわけでなく、勃発から6年後の文明5年([[1473年]])の「猿犬」両将の勝元と宗全の死までである(両者の死の前後から細川・山名両氏で和睦交渉が進んでおり、両者の死の翌年には和睦が成立している)。また、『一巻本応仁記』で「創作」された8代[[征夷大将軍|将軍]][[足利義政]]の正室[[日野富子]]が息子の[[足利義尚]]の庇護を宗全に依頼した書状は、富子が乱の元凶であったとする説を現在にまで流布させる要因となった<ref>歴史家の[[家永遵嗣]]は作者を[[細川高国]]周辺の人物ではないかと唱え、当時の政治情勢から富子を乱の元凶とするでっちあげを書いたのではないかと仮定している。また、富子の依頼書状については応仁記に載せられておらず、他の史料にも記録されていない上、宗全は義尚誕生前の[[寛正]]6年([[1465年]])に[[斯波義廉]]・[[畠山義就]]など他の諸大名と共に義尚の叔父で将軍候補者の[[足利義視]]と結びついていたため、富子の依頼は応仁記の創作とされている。石田、P2 - P8、P185 - P190。</ref>。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *[[石田晴男]]『戦争の日本史9 応仁・文明の乱』[[吉川弘文館]]、2008年。 == 関連項目 == *[[歴史書一覧]] *[[室町時代資料の一覧]] ==外部リンク== *[http://homepage1.nifty.com/sira/ 芝蘭堂] - 応仁記現代語訳 {{DEFAULTSORT:おうにんき}} [[Category:軍記物語]] [[Category:応仁の乱]]
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