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徳川秀忠
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 徳川秀忠 | 画像 = Hidetada2.jpg | 画像サイズ = 250px | 画像説明 = 徳川秀忠像 | 時代 = [[安土桃山時代]] - [[江戸時代]]前期 | 生誕 = [[天正]]7年[[4月7日 (旧暦)|4月7日]]([[1579年]][[5月2日]]) | 死没 = [[寛永]]9年[[1月24日 (旧暦)|1月24日]]([[1632年]][[3月14日]]) | 改名 = 長松(長丸)、竹千代成(幼名)→秀忠 | 別名 = 江戸中納言、江戸右大将 | 諡号 = | 戒名 = 台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士 | 墓所 = [[増上寺]] | 官位 = [[従五位]]下・[[侍従]]、[[蔵人]]頭、[[正五位]]下<br>[[武蔵国|武蔵]]守、[[従四位]]下、[[正四位]]下<br>[[近衛府|右近衛権少将]]、[[参議]]、右近衛権中将、<br>[[従三位]]・権[[中納言]]、権[[大納言]]、[[従二位]]<br>右[[近衛大将]]、[[正二位]]・[[内大臣]]、<br>[[征夷大将軍]]、[[従一位]]・[[右大臣]]、[[太政大臣]]、[[贈位|贈]][[正一位]] | 幕府 = [[江戸幕府]]:第2代征夷大将軍<br>(在任[[1605年]] - [[1623年]]) | 氏族 = [[徳川氏]] | 父母 = 父:[[徳川家康]]、母:[[西郷局]] | 兄弟 = [[松平信康|信康]]、[[亀姫 (徳川家康長女)|亀姫]]、[[督姫]]、[[結城秀康]]、<br>'''秀忠'''、[[松平忠吉]]、[[正清院|振姫]]、[[武田信吉]]、<br>[[松平忠輝]]、[[松平松千代|松千代]]、[[松平仙千代|仙千代]]、[[松姫 (徳川家)|松姫]]、<br>[[徳川義直|義直]]、[[徳川頼宣|頼宣]]、[[徳川頼房|頼房]]、[[市姫]] | 妻 = 正室:'''[[崇源院|江]]'''([[浅井長政]]女・豊臣秀吉養女)<br /> | 子 = [[千姫]]、[[珠姫]]、[[天崇院|勝姫]]、[[徳川長丸|長丸]]、[[初姫]]、'''[[徳川家光|家光]]'''、<br />[[徳川忠長|忠長]]、[[徳川和子|和姫]]、[[保科正之]]<br/>[[#秀忠の室と子女|ほか養女多数]] | 特記事項 = }} '''徳川 秀忠'''(とくがわ ひでただ)は、[[安土桃山時代]]から[[江戸時代]]にかけての[[武将]]。[[江戸幕府]]の第2代[[征夷大将軍]]。 == 生涯 == === 出生から後継者争い === [[File:Hidetada-ido.JPG|thumb|right|220px|秀忠が産湯を使ったと伝わる井戸]] [[徳川家康]]の三男として[[遠江国]][[浜松市|浜松]]に誕生する。母は[[側室]]の[[西郷局]]。母の実家・[[西郷氏]]は、{{要出典範囲|date=2012年4月|九州の[[菊池氏]]一族で、[[室町時代|室町初期]]には[[三河国|三河]][[守護代]]を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な[[国人]]であった}}。乳母・[[大姥局]]によって養育される。 同母弟に[[関ヶ原の戦い]]で活躍した[[松平忠吉]]がいる。長兄・[[松平信康|信康]]は秀忠の生まれた年に切腹している。次兄・[[結城秀康|秀康]]は[[豊臣秀吉]]に養子として出され、のちに[[結城氏]]を継いだので、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。 [[天正]]18年([[1590年]])、[[小田原征伐]]に際して実質的な[[人質]]として上洛して[[元服]]、秀吉の[[偏諱]]を受けて'''秀忠'''と名乗る(次兄と同名になるため、[[諱]]の二文字目は祖父の[[松平広忠]]より1字取った)。[[織田信雄]]の娘で秀吉の養女・[[小姫]](春昌院)と祝言を挙げたが、秀吉と信雄が仲違いして信雄が除封されたことにより、離縁となる。秀吉から、[[豊臣氏|豊臣姓]]を与えられる<ref>賜姓は1597年説もあり。</ref><ref name="murakawa">村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。</ref>。 その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。[[文禄]]4年([[1595年]])には秀吉の養女・[[崇源院|江]]と再婚する<ref>江は[[近江国]]の戦国大名[[浅井長政]]の三女で、母は織田信長の妹[[お市の方|市]]。江は天正14年から文禄元年頃に秀吉の養子・[[豊臣秀勝]]に嫁いでいたが、文禄元年に秀勝は死去していた。</ref>。 秀吉から、[[羽柴氏|羽柴]]の[[名字]]を与えられる<ref name="murakawa"/>。 [[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では、[[東海道]]を進む家康本隊に対して、[[中山道]]を進む別働隊を率いる役割を与えられた。[[信濃国]][[上田合戦|上田城攻め]]を行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、[[9月15日 (旧暦)|9月15日]](新暦[[10月21日]])の関ヶ原本戦に間に合わなかった。 9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分がすぐれない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。 これには[[榊原康政]]ら家臣の仲介があったとされている。 === 将軍後継者 === 慶長8年([[1603年]])2月12日に征夷大将軍に就いて[[江戸幕府|幕府]]を開いた家康は、[[徳川氏]]による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を'''[[近衛大将|右近衛大将]]'''(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、慶長8年([[1603年]])4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定した。この時期の秀忠は'''江戸右大将'''と呼ばれ、以後代々の[[徳川将軍家]]において'''右大将'''といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。 関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。ここに頼朝(右大将家)を崇拝する家康の願いが現実のものとなる。 そしてわずか2年後の慶長10年([[1605年]])、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。 === 征夷大将軍 === 慶長10年([[1605年]])正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ入る。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達した。 3月21日、秀忠も伏見城へ入る。4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり[[大御所 (江戸時代)|大御所]]と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。このとき、家康の参内に随行した板倉重昌も叙任された。<ref>村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」『駒沢史学』80号、2013年、120頁。</ref> '''徳川秀忠 征夷大将軍の辞令(宣旨)'''「壬生家四巻之日記」 權大納言源朝臣秀忠 左中辨藤原朝臣總光傳宣 權中納言藤原朝臣光豐宣 奉 勅件人宜爲征夷大將軍者 慶長十年四月十六日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉 (訓読文) 権大納言源朝臣秀忠(徳川秀忠) 左中弁藤原朝臣総光([[広橋総光]]、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り 権中納言藤原朝臣光豊([[勧修寺光豊]]、従三位・武家伝奏)宣(の)る 勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり) 慶長10年(1605年)4月16日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮([[壬生孝亮]]、従五位下)奉(うけたまは)る 将軍・秀忠は[[江戸城]]に居住し、[[駿府城]]に住む大御所・家康との間の[[二元政治]]体制になるが、[[本多正信]]らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との接渉を担当した。 [[大坂の役]]にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年([[1615年]])のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・[[大野治房]]によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに[[武家諸法度]]・[[禁中並公家諸法度]]などの制定につとめた。 なお、将軍襲職の際に[[源氏長者]]、[[奨学院別当]]は譲られなかったとする説がある([[岡野友彦]]『源氏と日本国王』)。『[[徳川実紀]]』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。 [[元和 (日本)|元和]]2年([[1616年]])に家康が死去した後は将軍親政を開始し、[[酒井忠世]]・[[土井利勝]]らを[[老中]]として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。[[大名]]統制を強化して[[福島正則]]ら多くの[[外様大名]]を改易し、3人の弟を[[尾張藩|尾張]]・[[紀伊藩|紀伊]]・[[水戸藩|水戸]]に配置し、自身の子・[[徳川忠長|忠長]]に[[駿河国|駿河]]・[[遠江国|遠江]]・[[甲斐国|甲斐]]を与えた。一方、弟・[[松平忠輝]]、甥で娘婿でもある[[松平忠直]]や家康の謀臣・[[本多正純]]を[[改易]]・[[配流]]にしている。また[[朝廷]]に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人[[徳川和子|和子]]を[[後水尾天皇]]に入内させた。また[[鎖国]]政策の布石として、外国船寄港を[[平戸港|平戸]]・[[長崎港|長崎]]に限定させている。 === 隠居 === 元和9年([[1623年]])に将軍職を嫡男・[[徳川家光|家光]]に譲る。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、[[大御所 (江戸時代)|大御所]]として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は[[小田原城]]で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の[[皇居]])に移った。 寛永6年([[1629年]])の[[紫衣事件]]では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し([[明正天皇]])、秀忠は天皇家の[[外戚]]となった。 寛永8年([[1631年]])には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年([[1632年]])年1月に薨去。 家光に対して「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」(『徳川実紀』)との遺言を残している。 == 官歴 == ※日付=旧暦 * 天正15年([[1587年]])[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]、豊臣秀忠として従五位下に叙し、侍従に任官。蔵人頭を兼帯。 * 天正16年([[1588年]])[[1月5日 (旧暦)|1月5日]]、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。侍従如元。蔵人頭を去る。 * 天正18年([[1590年]]) ** 1月15日、元服し秀忠と名乗る。 ** [[12月29日 (旧暦)|12月29日]]、従四位下に昇叙し、侍従如元。 * 天正19年([[1591年]])、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。[[11月8日 (旧暦)|11月8日]]、豊臣秀忠として参議に補任し右近衛権中将を兼帯。 * [[文禄]]元年([[1592年]])[[5月9日 (旧暦)|5月9日]]、豊臣秀忠として従三位に昇叙し、権中納言に転任。 * 文禄3年([[1594年]])[[2月13日 (旧暦)|2月13日]]、権中納言を辞任。 * [[慶長]]6年([[1601年]])[[3月28日 (旧暦)|3月28日]]、豊臣秀忠として権大納言に転任。 * 慶長7年([[1602年]])[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]、従二位に昇叙。権大納言如元。 * 慶長8年([[1603年]])[[4月16日 (旧暦)|4月16日]]、源秀忠として'''右近衛大将'''を兼任。 * 慶長10年([[1605年]]) ** [[4月16日 (旧暦)|4月16日]]、源秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。 ** [[5月1日 (旧暦)|5月1日]]、'''征夷大将軍'''宣下。 * 慶長11年([[1606年]])、内大臣と右近衛大将を辞任。 * 慶長19年([[1614年]])[[3月9日 (旧暦)|3月9日]]、従一位に昇叙し、右大臣に転任。 * [[元和 (日本)|元和]]9年([[1623年]])[[7月27日 (旧暦)|7月27日]]、右大臣を辞任 * [[寛永]]3年([[1626年]])[[8月19日 (旧暦)|8月19日]]、太政大臣に転任。 * 寛永9年([[1632年]]) ** [[1月24日 (旧暦)|1月24日]]、薨去。 ** [[2月10日 (旧暦)|2月10日]]、贈正一位。 ※豊臣秀忠としての宣旨表記に関しては、下村效『日本中世の法と経済」1998年3月 続群書類従完成会発行の論考による。 == 墓所・遺骸について == 法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。墓所は[[東京都]][[港区 (東京都)|港区]]の一角にあった[[台徳院霊廟]]であったが戦災で焼失し、[[昭和]]33年([[1958年]])に台徳院霊廟が[[増上寺]]本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も[[桐ヶ谷斎場]]で[[荼毘]]に付されて改葬された。この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、座した姿勢のままその衣服等とともに縦に圧縮され、畳んだ提灯の如くつぶれていた。圧縮により変形が激しく、また骨が著しく分解され軟化していたため、詳細な調査は不可能であった。毛髪等の調査の結果、秀忠の[[血液型]]は[[ABO式血液型|O型]]で、四肢骨から推定した[[身長]]は157.6[[センチメートル|cm]]であった。この調査については、鈴木尚の『[[骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと]]』、『[[増上寺徳川将軍家墓とその遺品・遺体]]』を参照のこと。 また、かつての霊廟室内には宝塔が祀られていたが、こちらも戦災で焼失した。現在は内室崇源院([[江]])と共に合祀されている。 == 人物 == === 武将としての評価 === 秀忠を『[[徳川実紀]]』では次のように評価している。 {{quotation|東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき}} このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で[[島津豊久]]を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。しかし、当の徳川氏による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。 それでも後継者となったのは家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている<ref>[[小和田哲男]]『徳川秀忠』([[PHP研究所]][[[PHP新書]]]、1999年。87頁)</ref>(家康は[[太宗 (唐)|唐の太宗]]の治世について記した『[[貞観政要]]』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。 ==== 血筋 ==== {{出典の明記|section=1|date=2011年9月}} [[西三河]]の土豪から伸し上がった徳川家(松平家)は、三河での覇権が確立して後も、かつて同格であった旧同輩の豪族による反乱に悩まされ続けていた。{{要出典範囲|そのような中で、秀忠の母の血筋は西郷家という[[菊池氏]]一門の名家の出であり、西郷家の三河の旧守護代家としての家格の高さは、三河の全ての武家が認めるものであった。[[下克上]]の戦国時代といえども、美濃の[[斎藤氏|斎藤家]]は守護代斎藤家を継承するものであり、尾張の[[織田氏|織田家]]は守護代織田家の一族であったので国を治める大義はあったが、徳川家には弱い部分であった。これを補うものとしての秀忠の母の血筋は充分なもので、徳川家臣団および三河の諸武家よりの支持を家康は重視したといえる|date=2011年10月}}。 ==== 関ヶ原 ==== 秀忠は[[関ヶ原の戦い]]が初陣であった。彼は3万8,000人の大軍を率いていながら、わずか2,000人が籠城する信州[[上田城]]を攻め、[[真田昌幸]]の前に大敗を喫した。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『[[烈祖成蹟]]』)と記されている。この時の秀忠隊は、信濃の豊臣大名と[[上杉氏]]・中山道に対処する部隊としての慣例により、隣接地に封地を持つ徳川譜代で構成していた<ref>ただし、相模に所領を持つ大久保忠隣・本多正信は秀忠の補佐として、秀忠の旗下にあった。</ref>。 しかし、上田城の対処で家臣団の意見の対立を招き、足並みを乱れさせた。最終的に秀忠は[[榊原康政]]・[[大久保忠隣]]の攻撃の意見を入れたが、秀忠を譜代が支えるということはできなかった。 そもそも結果論でいえば上田城の兵力はわずかで無視して通れば何でもなかったものを、城攻めをやった上に敗北を喫した(勿論、上田城の堅さと真田昌幸が相当の戦上手であったという点もある)、そのうえ上田城など関ヶ原の本戦に比べれば大したことはないということがわからなかったということで、秀忠の軍事能力には大きく疑問符が付けられた。 ただ、秀忠に同行した浅野家文書等によると「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令が[[信濃国|信州]]平定である。秀忠はそれに忠実に従っていただけで、その後の[[河田木曽川渡河の戦い]]、[[米野の戦い]]、[[岐阜城の戦い]]などの決着が予想以上に速かったことから、家康は自身の江戸出馬を前に秀忠軍に上洛を命じる使者を送っている。しかし、豪雨による川の氾濫のため使者が到着したのが[[9月9日 (旧暦)|9月9日]]であり、急いで関ヶ原に向かうが当時の中仙道は道幅の狭い隘路が続き、大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なり、木曽の馬込に着いた時点で戦勝報告がなされ、[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]の関ヶ原にはすでに間に合わない状況であり、本戦遅参の責任は秀忠には無い。一方で、『真田家文書』では従軍していた信幸に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定である事を伝え、小県郡に集結するように命じている上、小山を出陣してからかなりのんびりした行軍を重ねて小諸には9月2日に着陣している<ref name="真田昌幸p209"> 柴辻俊六 著『人物叢書‐真田昌幸』吉川弘文館、1996年、p.209</ref>。 また同時期[[伏見城]]や[[田辺城 (丹後国)|田辺城]]で行われた籠城戦を鑑みるまでもなく、秀忠が上田城を攻撃した期間である約三日で、籠城を決め込む上田城を落とすことはそもそも難しい。 ちなみに家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。[[本多忠勝]]は「秀忠軍を待つべし」と主張し、[[井伊直政]]は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。 ==== 大坂の陣 ==== 慶長19年([[1614年]])の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて[[江戸城]]を出発した。関ヶ原の戦いの時の失敗を取り返そうと、24日に[[藤沢宿|藤沢]]、26日に[[三島宿|三島]]、27日に[[江尻宿|清水]]、28日に[[掛川宿|掛川]]、29日には[[吉田宿|吉田]]にまで到着するという強行軍を続けて秀忠が[[伏見城]]に到着したのは11月10日で、江戸から伏見まで17日間で到着するという強行軍を重ねた。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。 このときのことを、『[[当代記]]』では、次のように記している。 {{Quotation|廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参。 (供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)}} これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。当代記では11月1日に秀忠が[[岡崎宿|岡崎]]に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して、11月2日には[[名古屋宿|名古屋]]、5日には[[彦根市|佐和山]]にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『[[駿府記]]』には記されている。 慶長20年([[1615年]])の大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。 ただ、秀忠自身は上田城の件で武将として汚名が付いたことを気にしていたらしく、[[大坂の陣|大坂冬の陣]]では家康に対して豊臣方への強攻策を主張しており、この戦いに勝利することで汚名を返上しようとしていたのではないか、とする説もある。 ===為政者としての評価=== 公家諸法度、武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある。娘の[[徳川和子|和子]]を[[後水尾天皇]]に嫁がせ皇室を牽制、また[[紫衣事件]]では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年([[1616年]])7月、[[小倉藩]]主の[[細川忠興]]は息子・[[細川忠利|忠利]]に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様は政務に余念がない)と書き送っている<ref> [[山本博文]]『江戸城の宮廷政治 本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』([[講談社学術文庫]]、2004年)P48</ref>。 秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。作家の[[海音寺潮五郎]]は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。 === その他 === * 大坂の陣の後のことであるが、弟・[[徳川義直|義直]]と共に能を観劇している最中に地震が起こり、周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている。<ref>岡谷繁実『名将言行録』巻之四十二</ref> * 十三歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に牛が乱入し騒ぎとなったが、秀忠は冷静に講義を聴き続けていたという逸話がある。<ref>岡谷繁実『名将言行録』巻之四十二</ref> * 遺骨から推定される体格は、身長159cm程度で筋肉質であった。[[銃創]]の痕跡が複数見つかっている点から、敵の攻撃に直接曝されるような場所で指揮を執る戦法を多用していたこと、骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え抜くだけの体力、生命力を有していたことが推定されている。 * 近世には秀忠は[[恐妻家]]であり、継室・[[崇源院|江]]には頭が上がらなかったとする俗説がある(『[[柳営婦女伝系]]』)。秀忠には慶長16年(1611年)に江戸城の[[女中]]だった[[浄光院 (保科正之生母)|静]]との間に四男・幸松([[保科正之]])が生まれている。近世武家社会においては、[[正室]]の体面と[[大奥]]の秩序を維持するため、侍妾の選定には正室の許可が必要で、下級女中の場合には出自を整える手続も必要であった。静の場合にはそうした手続きを取ることを秀忠が怠ったため、江戸城外での出産となった。その後も静は正式に側室となることはなく、幸松は保科家に養子として養育された。尚、秀忠はその後幸松を実子として扱うことはなく、自身の遺産分けでも親族扱いはせずあくまで譜代大名の一人としている。 * 小説家[[隆慶一郎]]は秀忠を「凡庸で大人しい表面を演じる裏で、その本性は残忍酷薄・卑劣極まりない人物」と見て、その作品で一貫してそのように描いている。一方で脇役扱いが多かった従来作とは異なり、話の上で強烈な存在感を放つ悪役として活躍させている。 *[[2012年]]、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の[[肖像画]]の[[紙形]](下絵)が公開された<ref>{{Cite news |url=http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html |title=将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む |newspaper=朝日新聞 |date=2012年8月8日 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20120810121502/http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html |archivedate=2012-08-10}}</ref><ref>[http://blog.goo.ne.jp/fukuchan2010/e/b62fe5049e2da6ae0d5eef78030a7817 鶴は千年、亀は萬年。]2012年8月8日付{{リンク切れ|date=2013年9月}}</ref>。秀忠像は白描淡彩本。 == 秀忠の室と子女 == *[[小姫]]:正室 * 江([[崇源院]]):継室 ** 長女・[[千姫]](天樹院):[[豊臣秀頼]]室、のちに[[本多忠刻]]室 ** 次女・[[珠姫]](天徳院):[[前田利常]]室 ** 三女・[[天崇院|勝姫]](天崇院):[[松平忠直]]室 ** 四女・[[初姫]](興安院):[[京極忠高]]室 ** 次男・[[徳川家光]]:江戸幕府将軍 ** 三男・[[徳川忠長]]:駿府城主 ** 五女・[[徳川和子]](東福門院):[[後水尾天皇]]中宮 * 静([[浄光院 (保科正之生母)|浄光院]]) ** 四男・[[保科正之]]:[[会津松平家]]初代 * 家女 ** 長男・[[徳川長丸|長丸]](慶長6年(1601年)2月<ref>『[[系図纂要]]』</ref>または12月3日<ref name="soinden">「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻)</ref> - 慶長7年(1602年)7月<ref>歴史読本「征夷大将軍・系譜総覧」・臨時増刊(1979年6月)</ref>または9月25日<ref name="soinden"/>、もしくは慶長6年(1601年)9月<ref>『[[言経卿記]]』慶長六年九月二十一日条、『[[鹿苑日録]]』慶長六年九月二十日条</ref>) ; 秀忠の養子 * [[喜佐姫]](龍昌院):[[結城秀康]]娘、[[毛利秀就]]室 * [[保寿院|千代姫]](保寿院):[[小笠原秀政]]娘、[[細川忠利]]室 * [[ビン姫]](雲松院):[[奥平家昌]]娘、[[堀尾忠晴]]室 * [[孝勝院|振姫]](孝勝院):[[池田輝政]]娘(母は姉[[督姫]])、[[伊達忠宗]]室 * [[亀姫 (松平忠直の娘)|亀姫]](宝珠院):[[松平忠直]]娘(母は三女[[天崇院|勝姫]])、[[高松宮好仁親王]]室 * [[円盛院|勝姫]](円盛院):[[本多忠刻]]娘(母は長女[[千姫]])、[[池田光政]]室 * [[福正院|鶴姫]](福正院):[[榊原康政]]娘、[[池田利隆]]室 * [[梅渓院|久姫]](梅渓院):[[松平忠良]]娘、[[黒田忠之]]室 * [[崇法院]]:[[蒲生秀行 (侍従)|蒲生秀行]]娘(母は妹[[正清院|振姫]])、[[加藤忠広]]室 * [[豊臣完子|完子]]:[[豊臣秀勝]]娘(母は正室・江(崇源院))、[[九条幸家]]室 * [[小松姫]]:[[本多忠勝]]娘、[[真田信之]]正室 - 家康の養女とも [[徳川家綱]](第4代将軍)、[[徳川綱重]]、[[徳川綱吉]](第5代将軍)は孫。[[徳川家宣]](第6代将軍)・[[松平清武]]は曾孫。[[徳川家継]](第7代将軍)は玄孫にあたる。 == 秀忠が偏諱を与えた主な人物 == <div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[徳川忠長|徳川'''忠'''長]](三男) *[[阿部忠吉|阿部'''忠'''吉]] *[[阿部忠秋|阿部'''忠'''秋]](忠吉の次男) *[[池田忠継|池田'''忠'''継]](甥(姉・[[督姫]]の子)) *[[池田忠雄|池田'''忠'''雄]](甥(同上)、忠継の弟・養嗣子) *[[石川忠総|石川'''忠'''総]] *[[石川忠義|石川'''忠'''義]](忠総の養兄・[[石川康通|康通]]の子) *[[大久保忠常|大久保'''忠'''常]](石川忠総の長兄) *[[大久保忠職|大久保'''忠'''職]] *[[小笠原忠脩|小笠原'''忠'''脩]] *[[小笠原忠真|小笠原'''忠'''真]](忠脩の弟、初め'''忠'''政) *[[小笠原忠知|小笠原'''忠'''知]](忠真の弟) *[[奥平忠昌|奥平'''忠'''昌]]([[奥平信昌]]の長男・[[奥平家昌|家昌]]の子) *[[奥平忠政|奥平'''忠'''政]](甥(姉・[[亀姫]]の子)、信昌の三男) *[[奥平忠隆|奥平'''忠'''隆]](忠政の子) *[[大須賀忠政|大須賀'''忠'''政]] *[[加藤忠正|加藤'''忠'''正]] *[[加藤忠広|加藤'''忠'''広]](忠正の弟、蒲生忠郷・忠知とは義兄弟) </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[蒲生忠郷|蒲生'''忠'''郷]](甥(妹・[[正清院|振姫]]の子)) *[[蒲生忠知|蒲生'''忠'''知]](甥(同上)、忠郷の弟・養嗣子) *[[京極忠高|京極'''忠'''高]](娘婿) *[[黒田忠之|黒田'''忠'''之]](初め'''忠'''長、'''忠'''政) *[[高力忠房|高力'''忠'''房]] *[[西郷忠員|西郷'''忠'''員]] *[[榊原忠次|榊原'''忠'''次]](大須賀忠政の長男) *[[里見忠義|里見'''忠'''義]] *[[島田忠正|島田'''忠'''正]] *[[仙石忠政|仙石'''忠'''政]] *[[立花忠茂|立花'''忠'''茂]] *[[伊達忠宗|伊達'''忠'''宗]] *[[田中忠政|田中'''忠'''政]] *[[土屋忠直|土屋'''忠'''直]] *[[内藤忠興|内藤'''忠'''興]] *[[中村一忠|中村'''忠'''一]](中村一忠の別名) *[[鍋島忠直|鍋島'''忠'''直]] *[[鍋島忠茂|鍋島'''忠'''茂]](忠直の叔父) </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[蜂須賀忠英|蜂須賀'''忠'''英]](初め正鎮、'''忠'''鎮) *[[福島忠勝|福島'''忠'''勝]] *[[細川忠利|細川'''忠'''利]] *[[堀忠俊|堀'''忠'''俊]] *[[堀尾忠氏|堀尾'''忠'''氏]] *[[堀尾忠晴|堀尾'''忠'''晴]](忠氏の子) *[[本多忠政|本多'''忠'''政]] *[[本多忠朝|本多'''忠'''朝]](忠政の弟) *[[本多忠純|本多'''忠'''純]](正純の弟) *[[牧野忠成 (越後長岡藩初代)|牧野'''忠'''成]] *[[松平忠吉|松平'''忠'''吉]](実弟) *[[松平忠輝|松平'''忠'''輝]](実弟) *[[松平忠直|松平'''忠'''直]](甥(兄・[[結城秀康|秀康]]の子)、娘婿) *[[松平忠昌|松平'''忠'''昌]](甥(同上)) *[[松平忠明|松平'''忠'''明]](甥(姉・亀姫の子)、奥平信昌の四男、奥平松平家祖) *[[松平忠良|松平'''忠'''良]] *[[松平忠利 (久松松平家)|松平'''忠'''利]](忠良の長男) *[[松平憲良|松平'''忠'''憲]](忠良の次男・憲良の別名) </div><div style="float: left; vertical-align: top; white-space: nowrap; margin-right: 1em;"> *[[松平忠頼|松平'''忠'''頼]] *[[松平忠重|松平'''忠'''重]](忠頼の子) *[[松平忠昭 (大給松平家)|松平'''忠'''昭]] *[[松平忠清|松平'''忠'''清]] *[[松平忠利|松平'''忠'''利]](深溝松平家、初め'''忠'''俊) *[[松平忠房 (島原藩主)|松平'''忠'''房]] *[[松平忠国 (播磨国明石藩主)|松平'''忠'''国]] *[[松平忠晴|松平'''忠'''晴]](忠国の弟) *[[山内忠義|山内'''忠'''義]] *[[山内忠豊|山内'''忠'''豊]](忠義の長男) *[[山内忠直|山内'''忠'''直]](忠義の次男) </div><br style="clear: left;" /> ; (補足) * 前述の通り、「忠」の字は祖父の[[松平広忠]]から1字を取ったものである。広忠と親戚にあたる[[松平氏]]の傍流出身の人物や、[[譜代大名]]でこの広忠の時代に「忠」の字を与えられた家臣の子孫には、「忠」の字を[[通字]]として用いている家柄も多くみられるので、それらに該当する人物は必ずしも秀忠から授与されたとは限らず、一部省略してある。[[外様大名]]や譜代大名の中でも父兄に「忠」の字が入っていない人物に関しては確実視してよいだろう。 * ちなみに秀忠の次男(嫡男)・[[徳川家光|竹千代]]の[[諱]]の選定を任された[[崇伝]]は、これにも秀忠の「忠」の字を与えて「家忠」と名乗らせようとしていたが、[[花山院家]]祖・[[藤原家忠]]の名乗りと同じのを避けて、「家光」を選定している。 == 乳兄弟 == *[[井上正就]] *[[水野勝成]] == 脚注 == {{Reflist}} == 参考文献 == * [[小和田哲男]]『徳川秀忠 「凡庸な二代目」の功績』PHP新書 * 岳真也『天下分け目の行動学 関ヶ原合戦「武将」たちの言い分』PHP文庫 * [[笠谷和比古]]『関ケ原合戦 家康の戦略と幕藩体制』講談社学術文庫 * [[柴辻俊六]]『真田昌幸』[[吉川弘文館]](人物叢書)、1996年 ISBN 464205202X == 関連作品 == === 徳川秀忠が主人公のテレビドラマ === * [[葵 徳川三代]](NHK[[大河ドラマ]]、2000年)演:[[西田敏行]] == 関連項目 == {{Commonscat|Tokugawa Hidetada}} * [[広徳寺 (尼崎市)]] * [[増上寺五重塔]] {{徳川氏歴代当主|||第2代}} {{江戸幕府将軍}} {{歴代太政大臣}} {{DEFAULTSORT:とくかわ ひてたた}} [[Category:徳川氏|ひてたた]] [[Category:徳川家康の子女|ひてたた]] [[Category:戦国武将]] [[Category:江戸幕府の征夷大将軍|ひてたた]] [[Category:遠江国の人物]] [[Category:1579年生]] [[Category:1632年没]]
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