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徳川治紀
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 徳川 治紀 | 時代 = [[江戸時代]]中期 - 後期 | 生誕 = [[安永]]2年[[10月24日 (旧暦)|10月24日]]([[1773年]][[12月7日]]) | 死没 = [[文化 (元号)|文化]]13年[[閏]][[8月19日 (旧暦)|8月19日]]([[1816年]][[10月10日]]) | 改名 = 鶴千代、治紀 | 別名 = 徳民、鶴山 | 諡号 = 武公 | 戒名 = 泰雲院殿馨蓬社峻譽韶岳 | 墓所 = [[瑞龍山]] | 官位 = [[従四位|従四位上]][[衛門府|左衛門督]]、[[正四位|正四位下]][[近衛府|左近衛権少将]]<br />[[従三位]][[近衛府|右近衛権中将]]、[[参議]] | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = | 藩 = [[常陸国]][[水戸藩]]主 | 氏族 = [[水戸徳川家]] | 父母 = 父:[[徳川治保]]、母:[[一条道香]]の娘([[八代姫]]) | 兄弟 = '''治紀'''、[[松平義和]]、[[土屋彦直]] | 妻 = 正室:[[徳川治貞]]の養女・方姫<br />側室:[[小池氏]]、[[中山氏]]、[[外山家|外山氏]] | 子 = '''[[徳川斉脩|斉脩]]'''、[[松平頼恕]]、[[徳川斉昭|斉昭]]、[[松平頼かた|松平頼筠]]<br />[[徳川申之允|申之允]]、従子([[二条斉信]]室)<br />鄰姫([[鷹司政通]]室)、規姫([[松平義建]]室)<br />厚姫([[松平頼誠]]室)、養子:''勝姫'' | 特記事項 = }} '''徳川 治紀'''(とくがわ はるとし)は、[[常陸国]][[水戸藩]]の第7代藩主。[[諡号]]は武公。 == 生涯 == [[安永]]2年([[1773年]])10月24日、[[徳川治保]]の長男として生まれる。幼名は'''鶴千代'''。 [[文化 (元号)|文化]]3年([[1805年]])12月10日、父・治保の後を受けて[[水戸藩]]主に就任する。この時33歳。死去するまでの治世は10年余りであったが、藩政の難局に当たった。 治保の藩政はその末年におよんで弛んだが、治紀は藩主就任とともに再び緊張を取り戻すため努力した。治保と同じように藩政には積極的で、文武の奨励にも熱心であり、とりわけ異国船の出没もあって武の方面には力を入れ、軍制の改革などを行って武備の充実に心がけている。文化4年には諸臣に政事についての意見を献ずるよう命じ、意見を述べさせた。これを受け、学者の[[青山延于|青山拙斎]]や[[藤田幽谷]]らがたびたび藩政についての改革案と進言している。特に幽谷が[[彰考館]]総裁となってからは先生と呼び、しばしば政事について下問するほどであった。 また、治紀の治世の特徴として、前代治保・後代斉脩のもとでは行われた献金[[郷士]]制度の廃止が挙げられる。治紀の代には一人の献金郷士も取り立てなかった。かといって藩財政が好転していた訳ではなく、藩主就任翌年の文化4年(1807年)に水戸藩では2度目の藩士の禄の半知借上(給料50%削減)が行われた。この半知借上によって藩士の生活が苦しい文化4年の6月、異国船が初めて水戸藩の近海[[鹿島灘]]に姿を見せた。これ以降、次第に異国船が出没し、水戸藩は財政が厳しい中、海岸防備を固めていく必要が生じ、さらに生活の緊縮が要求されることとなった。文化5年(1808年)、水戸藩領の東北の海岸に、小規模ながら海防詰所を設置した。文化6年(1809年)3月、治紀は水戸に国入りし、領内の巡視などを行ったほか、水戸城内での練兵、城外での鷹狩が数度にわたり大々的に行われた。江戸に帰った翌文化7年(1810年)12月には軍制改革が行われた。その後、文化12年(1815年)2月、支藩[[守山藩]]領の松川([[大洗町]])の近海に異国船が現れたというので、海防は一層強化され、水戸藩の海岸全域にわたる軍の配備が定められた。 しかし改革の空気も、[[文化 (元号)|文化]]期の後半になるとまた弛み、門閥派の家臣の台頭を許したようである。 文化13年([[1816年]])閏8月19日、江戸藩邸にて急死した。[[享年]]44(満42歳没)。跡を長男の[[徳川斉脩|斉脩]]が継いだ。 治紀の政治に大きな成果は挙がらなかったが、質実剛健を目指した政治姿勢、[[彰考館]]の学者の抜擢、海岸防備などの改革は、子の[[徳川斉昭|斉昭]](斉脩の弟)に継がれることとなった。 == 官歴 == ※日付=旧暦 * [[1774年]]([[安永]]3年)10月24日 - 誕生。鶴千代を称する。 * [[1785年]]([[天明]]5年)4月19日 - 元服。[[征夷大将軍|将軍]][[徳川家治]]の[[偏諱]]を授かり、治紀と名乗る。[[従四位|従四位上]]に叙し、[[衛門府|左衛門督]]に任官。 * [[1787年]](天明7年)12月21日 - [[正四位|正四位下]]に昇叙し、[[近衛府|左近衛権少将]]を兼任。 * [[1796年]]([[寛政]]8年)12月15日 - [[従三位]]に昇叙し、[[近衛府|右近衛権中将]]に転任。 * [[1805年]]([[文化 (元号)|文化]]3年) ** 12月10日 - [[水戸徳川家]]の家督を相続し、[[水戸藩]]主となる。 ** 12月18日 - [[参議]]に補任。 * [[1816年]](文化13年)閏8月19日 - 薨去。諡号:武公、法名:泰雲院殿馨蓬社峻譽韶岳。墓所:[[茨城県]][[常陸太田市]]の[[瑞龍山]]。 == 家系 == * 正室:達子(方姫)・恭穆夫人(紀州藩主[[徳川重倫]]女、[[徳川治貞]]の養女) ** 長女:栢姫 ** 次女:綏姫 * 側室:五百(小池氏、浄生院) ** 長男:[[徳川斉脩|斉脩]] - 第8代水戸藩主 * 側室:染浦 (島田氏、容儀院) ** 三女:偉姫従子 - [[二条斉信]]室 ** 五女:規姫 - [[高須藩]]主[[松平義建]]室 * 側室:永(外山氏、瑛想院) ** 四女:鄰姫清子 - [[鷹司政通]]室 ** 六女:苞姫(厚姫) - [[守山藩]]主[[松平頼誠]]室 ** 三男:[[徳川斉昭|斉昭]](初名:紀教) - 第9代水戸藩主 * 側室:八重崎(中山氏) ** 次男:[[松平頼恕]](初名:紀経) - [[高松藩]]主 ** 四男:[[松平頼かた|松平頼筠]] - [[宍戸藩]]主 ** 五男:[[徳川申之允|申之允]] ** 養女:勝姫([[守山藩]][[松平頼慎]]女、母は妹・雅姫) - [[英勝寺]]住持 {{水戸徳川家|||7代}} {{水戸藩主|[[水戸徳川家]]|7代|1805年 - 1816年}} {{DEFAULTSORT:とくかわ はるとし}} [[Category:水戸徳川氏|はるとし]] [[Category:水戸藩主|はるとし]] [[Category:1773年生]] [[Category:1816年没]]
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