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徳川家達
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 徳川 家達 | 画像 = Tokugawa Iesato.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像説明 = | 時代 = [[江戸時代]]末期 ([[幕末]])- [[昭和時代]]前期 | 生誕 = [[文久]]3年[[7月11日 (旧暦)|7月11日]]([[1863年]][[8月24日]]) | 死没 = [[昭和]]15年([[1940年]])[[6月5日]] | 改名 = 田安亀之助、徳川亀之助、家達、静岳 | 墓所 = [[東京都]][[台東区]][[上野]]の[[寛永寺]] | 官位 = 従四位下少将、従三位中将、[[従一位]] | 幕府 = [[江戸幕府]] | 藩 = [[駿府藩]]藩主、[[駿府藩|静岡藩]]知事 | 氏族 = [[徳川氏]]([[御三卿]][[田安家]]→[[徳川将軍家|徳川宗家]](旧将軍家・徳川公爵家) | 父母 = 父:[[徳川慶頼]]、母:高井武子、<br>養父:''[[徳川寿千代]]''(長兄)、''[[徳川慶喜]]'' | 兄弟 = 寿千代、隆麿、'''家達'''、<br>[[徳川達孝|達孝]]、興丸、[[徳川頼倫|頼倫]] | 妻 = 正室:[[近衛忠房]]の娘・[[徳川泰子|泰子]] | 子 = '''[[徳川家正|家正]]'''(長男)、繁子、綏子([[鷹司信輔]]夫人)、綾子([[松平康昌]]夫人) | 特記事項 = }} '''德川 家達'''(とくがわ いえさと)は、[[徳川宗家]]16代当主。もとは[[田安徳川家]]7代当主。[[静岡藩]]初代藩主。幼名は亀之助。[[雅号|号]]は静岳。[[位階]]、[[勲等]]、[[爵位]]は[[従一位]][[大勲位]][[公爵]]。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの[[貴族院議長]]、[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]首席全権大使、[[東京オリンピック (1940年)|1940年東京オリンピック]]の組織委員会の委員長、第6代[[日本赤十字社]]社長などを歴任した。大正期には[[組閣の大命]]も受けた(拝辞)。 == 生涯 == === 幼少期 === [[ファイル:Iesato Tokugawa.jpg|thumb|Left|150px|幼少期の家達]] [[江戸城]]田安屋敷において、[[田安徳川家|田安家]]の[[徳川慶頼]]の三男として誕生する。慶頼は14代将軍・[[徳川家茂]]の[[将軍後見職]]であり、幕府の要職にあった。母は高井武子。家達は家茂および13代将軍・[[徳川家定]]の従弟にあたる。 [[元治]]2年([[1865年]])2月5日、実兄・[[徳川寿千代|寿千代]]の夭逝により[[田安徳川家]]を相続する。[[慶応]]2年([[1866年]])に将軍・家茂が後嗣なく死去した際、家茂の近臣および[[大奥]]の[[天璋院]]や[[御年寄]]・[[瀧山]]らは家茂の遺言通り、[[徳川将軍家|徳川宗家]]に血統の近い亀之助の宗家相続を望んだものの、わずか4歳の幼児では国事多難の折りの舵取りが問題という理由で、また[[和宮親子内親王|静寛院宮]]、[[雄藩]]大名らが反対した結果、[[一橋徳川家|一橋家]]の[[徳川慶喜]]が15代将軍に就任した。 === 家督相続 === [[大政奉還]]・[[王政復古 (日本)|王政復古]]・[[江戸開城]]を経て、慶応4年([[1868年]])閏4月29日、新政府から慶喜に代わって徳川宗家相続を許可され、一族の[[松平斉民]]らが後見した。5月24日、[[駿府藩]]主として70万石を与えられる。11月、東京城([[皇居]])において[[明治天皇]]に拝謁する。11月18日、[[従四位|従四位下]][[近衛府|左近衛権少将]]に叙任、同日さらに[[従三位]]左近衛権中将に昇叙転任する。 [[1869年]]([[明治]]2年)6月、[[駿府藩|静岡藩]]知事に就任し、[[徳川家]]ゆかりの地である[[駿府|駿河府中]]へ移住することとなる。この時、府中は不忠に通じる、ということで、駿府を静岡と改名した。 8月9日に江戸から出発した当時は6歳の家達に随行した御小姓頭取の伊丹鉄弥は以下のように記録している。 {{Quotation|亀之助殿の行列を眺める群衆、それが何だか寂しそうに見えた。問屋場はいずれも人足が余計なほど出て居る。賃銭などの文句をいふ者は一人半個もない。これが最後の御奉公とでも云いたい様子であった。途中で行逢ふ諸大名も様々で、一行の長刀(cf.虎皮の投鞘のかかった長槍)を見掛けて例の如く自ら乗物を出て土下座したものもある。此方は乗物(cf.将軍か御三家しか許されない溜塗網代)を止めて戸を引くだけのこと。そうかと思へば赤い髪を被って錦切れを付けた兵隊が、一行と往き違いざまに路傍の木立に居る鳥を打つ筒音の凄まじさ。何も彼も頓着しない亀之助殿であった。}} また年寄女中の初井は、駕籠の中から五人囃子の人形のようなお河童頭がチョイチョイ出て「あれは何、これは何」と道中の眺めを珍しげに尋ねられ、これに対して、左からも右からもいろいろ腰をかがめてお答え申しあげたと伝えている。 明治4年([[1871年]])7月、[[廃藩置県]]によって免職となり、東京へ移住、[[千駄ヶ谷]]に住むことになった。 === 明治維新後 === [[ファイル:Kijūrō Shidehara, Tomosaburō Katō and Iesato Tokugawa.jpg|thumb|250px|ワシントン軍縮会議前の全権大使、右が家達]] [[File:Tokugawa Iesato LC-USZ62-122291.gif|thumb|120px|晩年の家達]] 明治10年([[1877年]])、[[イギリス]]の[[イートン・カレッジ]]に留学する。同校では、寄宿舎での学生による模擬議会に大きな感銘を受けたと回顧している。明治15年(1882年)10月に帰国する。 明治23年([[1890年]])から[[貴族院 (日本)|貴族院]]議員を務め、明治36年([[1903年]])から昭和8年(1933年)まで貴族院議長を務めた。[[大正]]3年(1914年)、[[シーメンス事件]]で[[第1次山本内閣]]が総辞職した際には[[大命降下|組閣の大命]]が下ったものの、一族会議でことごとく反対されたためこれを受けるには至らなかった。このことに関して当時の[[朝日新聞]]は「高貴でおおらかな家達氏は、政治の濁流にもまれるべきではない」と賛意を表明した。 家達は[[海軍省|海軍大臣]]の[[加藤友三郎]]や[[特命全権大使|駐米大使]]の[[幣原喜重郎]]などとともに[[ワシントン会議 (1922年)|ワシントン軍縮会議]]首席全権を務め、イギリス・[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・日本の海軍主力艦保有比率を10:10:6にする条約を締結した。この決定は欧米列強の軍事的緊張を是正して国際関係を安定化させることが目的だったが、国内では海軍[[軍令部]]や[[右翼]]から「軟弱外交」との批判を受けた。 大正2年([[1913年]])に[[恩賜財団済生会]]会長、大正4年([[1915年]])に[[明治神宮]]奉賛会会長に就任。大正10年([[1921年]])には[[大日本蹴球協会]](現在の[[日本サッカー協会]])の名誉会長として、その発足に立ち会っている<ref>[http://archive.footballjapan.jp/user/scripts/user/person.php?person_id=2 今村次吉] 日本サッカー人物史参照</ref>。 === 昭和時代 === 昭和4年([[1929年]])11月、第6代[[日本赤十字社]]社長に就任した。昭和9年([[1934年]])には、日本における[[アジア]]初の国際会議となった第15回赤十字・赤新月国際会議の東京開催に尽力した。さらに昭和11年([[1936年]])12月には、[[東京オリンピック (1940年)|1940年の東京オリンピック]]招致成功を受けて、[[東京市]]や大日本体育会などを中心として設立された「第十二回オリンピック東京大会組織委員会」の委員長に就任した。 昭和15年(1940年)死去、享年78。[[大勲位菊花大綬章]]受章。 ==人物== * 生母の武子は[[田安徳川家]]家臣の津田栄七の長女で、高井主水の養女となった。武子の実妹の初子が[[津田梅子]]の母親であるため、家達と梅子は従兄妹にあたる。 [[ファイル:Tokugawa Iesato 1927.jpg|thumb|250px|東京大相撲大阪場所を観戦、中央が家達]] * 家達の近習を務めた洋画家・[[川村清雄]]によると、家達は生来おとなしかった。幼少で静岡に移住し、[[静岡浅間神社|浅間神社]]の[[神主]]宅に移り住むことになるなど周囲の環境が激変しても、泣いた所は見たことはなかったという<ref>川村清雄談「慶喜公と亀之助様」『漫談 江戸は過ぎる』(萬里閣書房、1929年、所収)。後に『史話 江戸は過ぎる』([[新人物往来社]]、1969年)の名で復刊。清雄の談話部分は『静岡の美術Ⅶ 川村清雄展』図録([[静岡県立美術館]]、1994年)にも収録151-152頁。</ref>。 * 趣味の[[囲碁]]はアマチュア・トップクラスで、大正15年([[1926年]])に[[喜多文子]]五段に「二子のハンディ」の対局で勝利した棋譜が残されている。 * 相撲好きで[[国技館]]の常連として有名であった。[[野村胡堂]]が贔屓の力士がいないように思えるとたずねたところ、好きな力士はいるが「家来や側近の者たちに、差別的な顔を見せてはならぬ。かりに、心の中で好き嫌いがあったとしても、絶対に色を表してはならない。こういう習慣で育ってきたのです」と答えた<ref>『[[胡堂百話]]』 40.平次の旅</ref>。大正11年、英国皇太子来日の時、自宅に招き、[[両国国技館]]から四本柱を運ばせ、[[横綱]]の[[大錦]]や[[栃木山]]ら十数名の力士を招いて、相撲を披露した。<ref>『殿さまは明治をどう生きたか』、2014年、河合敦 洋泉社 ISBN 978-4-8003-0379-0</ref> * [[同性愛]]の趣味があり、華族会館の給仕を鶏姦し<ref>佐野眞一『枢密院議長の日記』(講談社現代新書)</ref>、そのことが度重なり、給仕に事を荒立てられ、大正6年([[1917年]])頃、この醜聞の口止め料として1万円(当時は大卒の初任給が50円程である)を支払ったことがある。このため、家達の実弟の[[徳川頼倫]]は[[牧野伸顕]]に「兄が恥を知らず、今なお公職を執り、引退の考えがないのは困ったものだ」と嘆いたことがあった。[[倉富勇三郎]]が牧野から聞いたところによると、家達の同性愛嗜好は華族間では知る者も多く、伯爵・[[松浦厚]]はこれに基づき家達の[[学習院]]総裁就任の話を潰したことがある<ref name="nagai">永井和「柳田國男、官界を去る」『立命館文学』第578号、2003年。</ref>。 * 貴族院議長時代、当時貴族院書記官長だった[[柳田國男]]と仲が悪く、これが原因で柳田は貴族院を辞した。両者の不仲の理由について、潔癖な柳田が家達の女性関係を咎めたためであろうと[[岡谷公二]]は推測している<ref>岡谷公二『貴族院書記官長柳田國男』</ref>。一方、永井和は、家達が自らの同性愛スキャンダルを柳田に暴露されるのではないかと恐れていた可能性を指摘している<ref name="nagai"></ref>。 * 初代[[東京市長]]最有力候補と目されたが固辞したことがある。 * 来孫にあたる[[徳川家広]]は家達と[[徳川家茂]]が瓜二つな容姿をしていたことを挙げている<ref>セオリー「名家・名門の秘密」徳川家広インタビューより</ref>。 == 子女 == * 妻 - [[徳川泰子|近衛泰子]]([[近衛忠房]]娘) ** [[徳川家正]] ** 繁子(伯爵[[松平直国]]室) ** 綏子(公爵[[鷹司信輔]]室) ** 綾子(侯爵[[松平康昌]]室) == 偏諱を与えられた人物 == * [[徳川達孝|徳川'''達'''孝]](実弟) * [[徳川達成|徳川'''達'''成]](甥(達孝の子)) * [[徳川達道|徳川'''達'''道]](さとみち、[[一橋茂栄]]の子、[[徳川宗敬|宗敬]]の養父) ==テレビドラマ== * [[徳川慶喜 (NHK大河ドラマ)|徳川慶喜]]([[1998年]]、演:[[鎌田佳裕]]) * [[篤姫 (NHK大河ドラマ)|篤姫]]([[2008年]]、演:[[小林海人]]→[[私市夢太]]→[[吉武怜朗]]) == 脚註 == {{Commonscat|Tokugawa Iesato}} {{Reflist}} == 関連項目 == * [[徳川事件]] * [[小諸城#懐古園]] - 園の入口(旧小諸城三之門)の扁額を揮毫したのが家達。 * [[川村清雄]] - 御学友の一人。留学先でもしばしば交流しており、清雄宛の手紙が46通残り([[江戸東京博物館]]蔵)、家達の[[肖像|肖像画]]も描いている([[徳川記念財団]]蔵)。また、清雄を[[パトロン]]として支え続け、[[聖徳記念絵画館]]の[[壁画]]制作の際には、真っ先に清雄を指名している。 {{田安徳川家|1865年 - 1868年|第6代}} {{徳川氏歴代当主|徳川宗家|1868年 - 1940年|第16代}} {{駿府藩主|徳川宗家||1868年 - 1871年}} {{貴族院議長|貴族院議長|第4-8代:1903年 - 1933年}} {{DEFAULTSORT:とくかわ いえさと}} [[Category:徳川氏|いえさと]] [[Category:田安徳川家当主|いえさと]] [[Category:駿河国の藩主]] [[Category:幕末幕府の人物]] [[Category:幕末の大名]] [[Category:幕末の御三卿家の人物]] [[Category:戊辰戦争の人物]] [[Category:貴族院議長]] [[Category:貴族院公爵議員]] [[Category:勲一等旭日桐花大綬章受章者]] [[Category:戦前日本の大使]] [[Category:日本の赤十字の人物]] [[Category:国際オリンピック委員会委員]] [[Category:日本サッカー協会の人物]] [[Category:東京地学協会の人物|華族とくかわいえさと]] [[Category:帝国軍人援護会の幹部]] [[Category:両性愛の人物]] [[Category:イートン・カレッジ出身の人物]] [[Category:1863年生]] [[Category:1940年没]]
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