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後蜀 (十国)
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{{基礎情報 過去の国 |略名 = |日本語国名 = 後蜀 |公式国名 = 蜀 |建国時期 = [[934年]] |亡国時期 = [[965年]] |先代1 = 後唐 |先旗1 = blank.png |次代1 = 宋 (王朝) |次旗1 = blank.png |位置画像 = Five Dynasties and Ten Kingdoms Period Zhou.jpg |位置画像説明 = 後蜀と五代十国 |位置画像幅 = 300 |公用語 = 漢語([[中国語]]) |首都 = [[成都]] |元首等肩書 = [[皇帝]] |元首等年代始1 = [[934年]] |元首等年代終1 = [[934年]] |元首等氏名1 = [[孟知祥|高祖]] |元首等年代始2 = [[934年]] |元首等年代終2 = [[965年]] |元首等氏名2 = [[孟昶|後主]] |変遷1 = [[後唐]]より自立 |変遷年月日1 = [[934年]] |変遷2 = [[宋 (王朝)|宋]]によって滅亡 |変遷年月日2 = [[965年]] }} [[File:五代后晋、后汉时形势图(繁).png|thumb|300px|後晋・後漢代の後蜀([[黄土色]])]] [[File:五代后周形势图(繁).png|thumb|300px|後周代の後蜀(黄土色)]] '''後蜀'''(こうしょく [[934年]] - [[965年]])は[[中国]][[五代十国時代]]に[[成都]]を中心に[[四川省]]を支配した国。四川の豊かな財物を背景に文化の華を開かせた。 ==歴史== 後蜀の前に[[四川]]には[[前蜀]]が割拠していたが、内部の腐敗を突いた[[後唐]]・[[李存勗|荘宗]]により[[925年]]に滅ぼされた。そしてこの地の統治を任されたのが、後蜀の始祖・[[孟知祥]](もうちしょう)である。 その後、[[後唐]]では荘宗が殺されて[[李嗣源|明宗]]が擁立される。明宗は蜀にいる孟知祥への警戒心を強め、孟知祥を抑制する動きを見せる。これに反発した孟知祥は[[930年]]に挙兵して後唐軍を蜀から追い出し、[[932年]]までに蜀全域を制圧した。ここに至り、明宗も孟知祥を完全な支配下に置くことを諦めて懐柔策に転じ、[[933年]]に孟知祥は蜀王に封ぜられ、翌年に明宗が死ぬと完全に自立して[[皇帝]]位に就いたが、同年に死去した。 その後、孟知祥の三男・[[孟昶]](もうちょう)が帝位に就く。天然の要害である蜀ではあまり外敵の心配はせずとも良く、その軍隊を内部の監視に向けて権力を保持し、前蜀が発展させた農業・養蚕業を更に発展させ、文化人の保護に力を入れた。孟昶は首都・[[成都]]を美しく飾る事を考え、城内(中国の都市は大体の場合は城塞都市である)のいたる所に[[芙蓉]]の花を植えさせ、成都城は別名・芙蓉城と呼ばれるようになった。 更に五代が[[後晋]]から[[後漢 (五代)|後漢]]へと代わる混乱に乗じて、秦・階・成・鳳の四州(現在の[[甘粛省]]天水を中心とした地域)を奪った。しかし後漢から[[後周]]へ交代し、名君[[世宗 (後周)|世宗]]が登場すると[[955年]]に四州を奪い返される。[[960年]]に[[宋 (王朝)|宋]]が成立すると[[孟昶]]は北の[[北漢]]と手を結んで宋に対抗しようとするが、抵抗むなしく[[965年]]に宋に併合された。孟昶は[[開封]]へと連れられ、秦国公に封ぜられて同年に死去した。死後、楚国王の称号を追封され、[[諡]]として恭孝を贈られた。 後蜀が滅びた後に、宋は戦費調達のために蜀の地を徹底的に収奪し、大量の財貨を開封へ持ち帰った。このことは蜀人の宋に対する強い恨みを残し、後の[[993年]]から[[995年]]にかけて[[四川均産一揆]]と呼ばれる大規模な農民反乱を起こす事になる。 ==文化== [[前蜀]]と同じく、[[四川]]には平和を求めて流れて来た文人が数多く集まり、東の[[呉 (十国)|呉]]・[[南唐]]と並んで[[五代十国]]時代の最高峰の文化を花開かせた。 後蜀の代表的な文化人としては画家の黄筌(こうせん)、詞人の毛文錫(もうぶんしゃく)・欧陽炯(おうようけい)などが上げられる。 [[黄筌]]は前蜀・後蜀の両方に[[宮廷画家]]として仕えた人物である。花鳥画を得意とし、後の[[宋 (王朝)|宋]]代には黄筌と[[南唐]]の花鳥画家・[[徐煕]]の二人を花鳥画の基本とした。 [[毛文錫]]と[[欧陽炯]]はこの時代になって一般的になってきたジャンル・「[[詞]]」が主な作品である。それまでの詩(漢詩)とは違い、形式に捕らわれずありのままの感情を表現し、歌うように詠むのが詞である。詞にはそれまでは大っぴらに喋るべきことではないと考えられていた恋愛や性的なことを題材とした作品(艶詞と呼ばれる)も多くあり、この時代に意識が開かれた事が感じられる。 毛文錫も黄筌と同じように両蜀に仕えた人物であり、欧陽炯は後蜀の宰相にまでなった人物である。別の見方をすれば、このような文人が政権の傍にいたから後蜀は滅んだとも言えないこともないが。これらの詩人の作品は[[晩唐]]の[[836年]]から[[940年]]までに各地で詠まれた詩・詞を集めた詩集・『花間集』に集められ、欧陽炯が序文を書いている。 ==後蜀の帝王== #高祖・[[孟知祥]]([[字]]は保胤 [[874年]] - [[934年]] 在位[[934年]]) #後主・[[孟昶]](もとの名は仁賛。字は保元 [[919年]] - [[965年]] 在位[[934年]] - [[965年]]) ==後蜀の年号== *[[明徳 (後蜀)|明徳]] [[934年]]~[[938年]] *[[広政]] [[938年]]~[[965年]] ==外部リンク== *[[wikisource:江城子|欧陽炯『江城子』]]ウィキソース *[[wikisource:醉花間|毛文錫『醉花間』]]ウィキソース {{DEFAULTSORT:こうしよく}} [[Category:五代十国]] [[Category:後蜀 (十国)|*]] [[Category:四川省の歴史]]
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