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'''後期註釈学派'''(こうきちゅうしゃくがくは、Postglossatoren)は、[[註釈学派]]の集大成と呼べる『[[標準註釈]]』をさらに発展させた法学派で'''註解学派'''ともいう。'''オルレアン学派'''、'''助言学派'''、'''バルトールス学派'''ともいう。 学派の起源は[[13世紀]]のフランス[[オルレアン]]から始まった。きっかけとなったのは[[イタリア人]]の[[ギド・デ・クミス]]が当時註釈学派の集大成である『標準註釈』を著した[[アックルシウス]]と面会した際、その解釈の一つに疑問を呈したことがきっかけでイタリアからオルレアンに逃れたことである。そのためオルレアン学派ともいう。 このような経緯で、一時オルレアンは、北のボローニャと呼ばれたが、[[ダンテ]]の友人で詩人の[[チーヌス・デ・ビストイア]]によって、オルレアン学派の学風はイタリアに里帰りすることになる。 特に有名な法学者は、チーヌスの弟子である[[バルトールス・デ・サクソフェラート]](Bartolus de Saxoferrato 、1314-57)とバルトールスの弟子の[[バルドゥス・デー・ウバルディス]](Baldus de Ubaldis、1327-1406) がいる。そのためバルトールス学派ともいう。 註釈学派の[[アックルシウス]](Accursius)が編纂した『標準注釈』(Glossa Ordinaria)に対して、さらに註釈を加えて解釈した。そのため註解学派(Kommentatoren)ともいう。 [[イタリア]]の[[ベネチィア]]を始めとする[[都市国家]]が発展した当時の社会情勢に合わせて、ローマ大全の背後にある法原理を推論するという自由な解釈を行なった実務重視の学風で実利的観点から様々な助言を行なった。そのため助言学派という。 [[14世紀]]中頃から全盛を極め、[[大陸法]]系の基となった[[ユス・コムーネ]]が西欧社会で定着するきっかけをつくり、「バルトールスの徒にあらざる者は法律家にあらず」とまで言われた。 [[16世紀]]になると、[[人文主義法学]]からローマ法大全の原義からほど遠いとして批判を受けるようになった。 == 参考文献 == *[[ウルリッヒ・マンテ]]著・[[田中実 (法学者)|田中実]]・[[瀧澤栄治]]訳『ローマ法の歴史』([[ミネルヴァ書房]]) *[[ピーター・スタイン]]著・[[屋敷二郎]]監訳『ローマ法とヨーロッパ』(ミネルヴァ書房) ==関連項目== *[[註釈学派]](イタリア学風) *[[人文主義法学]](フランス学風) {{DEFAULTSORT:こうきちゆうしやくかくは}} [[Category:法学の学派]] [[Category:中近世のローマ法]] [[Category:法学史]] [[Category:ローマ法学]]
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