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張遵
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'''張 遵'''(ちょう じゅん、生年不詳 - [[炎興]]元年10月([[263年]]))は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の武将・政治家。[[蜀漢]]に仕えた。祖父は[[張飛]]。父は[[張苞]]。叔父に[[張紹]]がいる。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀志「張飛伝」に記述がある。 == 生涯 == 出生時期は明らかではない。 [[劉禅]]の正妻が二人とも張飛の娘であったため、張氏は[[外戚]]として重用され、張遵も最終的には[[尚書]]に昇った。 263年、[[魏 (三国)|魏]]の[[トウ艾|鄧艾]]が間道を通り、蜀の最前線の防衛網を潜り抜け[[成都]]へ進軍して来たため、これを迎え撃つべく[[諸葛瞻]]に随行し[[綿竹]]を守ったが、敗れて戦死した([[蜀漢の滅亡|綿竹関の戦い]])。 爵位は叔父が継いでいる。 小説『[[三国志演義]]』では、諸葛瞻に対して[[呉 (三国)|呉]]に援軍を要請するよう進言するが、最終的には援軍の到着前に諸葛瞻と共に城から討って出て戦死するという、国難に殉じる姿が描かれている。現在成都に存在する[[成都武侯祠|武侯祠]]には、張飛・張苞と共に張遵の像が建立されている。 {{DEFAULTSORT:ちよう しゆん}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:蜀漢の人物]] [[Category:263年没]]
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