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張緝
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'''張 緝'''(ちょう しゅう、? - [[254年]])は、[[中国]][[三国時代 (中国)|三国時代]]の政治家。[[字]]は'''敬仲'''。父は[[張既]]。弟は張翁帰。子は[[張藐]]。孫は[[張殷]]。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏 (三国)|魏]]志「張既伝」などに記述がある。 == 生涯 == 父が死去すると西郷侯を継いだ。中書郎から昇進して、東莞[[太守]]に至った。 『魏略』によると、[[太和 (魏)|太和]]年間に[[温県|温]][[県令]]となり、政治の才があると評判になった。[[蜀漢]]の[[諸葛亮]]が[[北伐|侵攻]]してくると時宜に適った意見を述べたという。[[曹叡]](明帝)が詔勅を下し、[[孫資]]に判断を求めたところ「張緝は計略に優れた人物である」と評価したため、召し出されて[[騎都尉]]になり、対蜀の軍役に参加した。後に中央に戻って[[尚書]]郎となり、職務に相応しい人物として曹叡の目に留まることとなった。曹叡が張緝の才能を評価し占わせたところ、予想していた2千石程度の才という回答は得られなかったが、曹叡はその占い結果を信じず張緝を重用した。 東莞太守在任のときは、数千人を統率したという。 [[嘉平 (魏)|嘉平]]年間、[[曹芳]](斉王)の皇后甄氏が亡くなり、張緝の娘が新たに皇后となった(嘉平4年([[252年]])2月、「三少帝紀」)。皇后の父である張緝は[[光禄大夫]]となり、[[特進]]を加えられた。妻の向氏も安城郷君とされた。 『魏略』によると、張緝は金銭面ではけちな性格で権勢家となっていたというが、娘が皇后になったことで、慣例により郡太守の任務を解かれてしまったため、私邸において落ち着かない様子であったという。その後、張緝は[[呉 (三国)|呉]]蜀の情勢について何度か意見を具申した。またある時、[[司馬師]]に対し「呉の[[諸葛恪]]がまもなく処刑されるであろう」と伝え、理由を尋ねられると「威光が主君を脅かし、功績が国中を覆っているからだ」と述べた。果たして予言がその通りとなったため、司馬師は張緝の智謀を認識するようになったという。 [[正元 (魏)|正元]]元年(254年)2月22日、張緝は同郷の中書令[[李豊]]らとともに、司馬師を排除し[[夏侯玄]]を[[大将軍]]に就けることを計画したが、事前に計画が露見して捕縛され、夏侯玄・李豊らと共に処刑された上で、三族皆殺しとなった(「三少帝紀」・「諸夏侯曹伝」)。『魏略』によると、李豊とは家が近く代々親しくしており、李豊が急用で出かけているときは、子が李豊の元に出向いて相談することもあったという。また、『魏略』では獄中で死を賜ったとある。 このことで、皇后になっていた娘も3月に廃位された(「三少帝紀」)。なお、張緝の子も同時に処刑されたとあるが、[[西晋]]の[[永興]]年間に孫が[[梁州]][[刺史]]となっている。 {{DEFAULTSORT:ちよう しゆう}} [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:254年没]]
張緝
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