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張氏帥府
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'''張氏帥府'''(ちょうしすいふ)は[[中国東北部]]・[[遼寧省]][[瀋陽]]市内(旧奉天)の中心部にある奉天軍閥の総帥であり満州統治者である[[張作霖]]・[[張学良]]の官邸および私邸であった建物である。別名'''大帥府'''また'''少帥府'''とも呼ばれる。現在は一般公開されており、当時の貴重な文物を見ることが出来る。 == 建物の概略 == [[File:Zhang former residence.JPG|thumb|張氏帥府・大青楼]] [[1914年]]の建設。その後増築などで現在の建物が揃ったのは建物の所有が張氏から離れた[[満州国]]時代の[[1933年]]のことである。主な建造物に、大青楼、小青楼、西院、四合院、関帝廟、趙四小姐楼があり、敷地面積は約1.6平方キロメートルである。中国の伝統建築・西洋建築(特に北欧系のものが多い)が入り混じった、建築当時の中国東北部の雰囲気が残っている。 このうち、大青楼が中心の建物に当たる。張親子はここで起居し、政務を執った。重要な接客も、ここで行われた。日本の関東軍の要人や外国人の商人なども、ここで張親子と対面した。また、[[1929年]]に反日に傾いた張学良によって、日本と親しい[[楊宇霆]]らが処刑されたのも、この前庭である。 == 作霖・学良以外の張一族の展示 == 現在では主に大青楼に張作霖・学良の展示があるが、目を引くのは日本ではあまり知られていない[[張学銘]]([[1908年|1908]]-[[1983年|1983]])・[[張学思]]([[1916年|1916]]-[[1970年|1970]])・についての展示にスペースが大きく割かれていることである。彼らは張作霖の息子で、学良の弟に当たる。 [[1931年]]9月[[満州事変]]が起こると、日本によって、彼らは兄・学良とともに満州から追われたが、さらに[[1936年]]・[[西安事変]]後に国民党軍によって兄が捕らわれると[[中国共産党|共産党]]に与し(学思は[[1933年]]に既に入党)、日本軍に対して華北・東北部でゲリラ闘争を行った。[[1949年]]の[[中華人民共和国]]成立後は学銘は主に東北部の政務委員として、学思は海軍将官として活躍した。その後学思は[[文化大革命]]のために無念の最期を遂げたが、学銘は天寿を全うし、[[1978年]]12月の中華人民共和国の[[アメリカ合衆国|アメリカ]]との国交回復の際には、[[台湾]]の[[国民政府]]に軟禁されていた兄・学良の消息を問うなどしている。<!-- ''詳細は本人の項を参照'' --> このように張作霖の学良以外の二人の子息は数奇な運命のなかで中国共産党に大きな貢献をした人物であり、張氏帥府の展示でも彼らは高く評価され、顕彰されている。この効果か軍閥の親玉という現代中国では悪役視されかねない張作霖も、展示ではそれほど悪しざまに書かれてはいない。 == 現代中国による文化財化 == [[中華人民共和国]]成立後、同政府によって張氏帥府は保護されてきた。[[1985年]]に瀋陽市によって、また[[1988年]]には遼寧省によって「文物保護単位(日本でいう[[日本の史跡一覧|指定史跡]])」となった。また、現在のように博物館化したのは1988年12月のことである。 == 瀋陽市内におけるその他の史跡 == *[[瀋陽故宮]] *[[福陵]](東陵) *[[昭陵 (清)|昭陵]](北陵) *[[九・一八歴史博物館]] *[[新楽遺跡]] {{DEFAULTSORT:ちようしすいふ}} [[Category:官邸]] [[Category:中国の建築史]] [[Category:瀋陽]] [[Category:瀋陽の歴史]] [[Category:中華人民共和国全国重点文物保護単位]]
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