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張保皐
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{{朝鮮の事物| | title=張保皐 | hangeul=장 보고 | hanja=張保皐 | hiragana=ちょう ほこう | katakana=チャン ボゴ | latin=Jang Bogo }} '''張 保皐'''(ちょう ほこう、[[790年]]頃 - [[846年]]?)は、統一新羅時期に[[新羅]]、[[唐]]、[[日本]]にまたがる海上勢力を築いた人物。'''張宝高'''とも記される。[[朝鮮語]]でもどちらも'''チャン ボゴ'''({{lang|ko|장 보고}})と読む。張保皐とは漢名であり、本名は'''弓福'''(又は'''弓巴''')だった<ref>『[[三国史記]]』新羅本紀には'''弓福'''、『[[新唐書]]』新羅伝や『三国史記』張保皐列伝には張保皐、『[[三国遺事]]』紀異・神武大王閻長弓巴条には'''弓巴'''、『[[続日本後紀]]』には'''張宝高'''の名で現れる。[[鮎貝房之進]]は、元は姓がなく固有語による名の弓福(クンボク)だけであったが、唐に渡って中国語による姓名を作ったものと推測される。「弓」から中国に多い性である「張」に当て、「福」のもととなる音(ポク、{{lang|ko|복}})を保皐(ポゴ、{{lang|ko|보고}})に当てたものという。→鮎貝1987 pp.20-22. </ref>。清海鎮大使から感義軍使を経て、鎮海将軍。 == 略歴 == 張保皐は790年頃に新羅南部の海岸地帯に生まれ、[[810年]][[中国]]の[[山東半島]]に渡り、その地の軍閥勢力であった徐州武寧軍に入って、[[高句麗]]人出身の北方軍閥・[[李正已]]と戦った。徐州[[節度使]]配下の軍中小将の地位を得た後、[[828年]]頃に新羅に帰国し、[[興徳王]]に面会して新羅人が中国で奴隷として盛んに売買されている実情を報告し、兵1万を授けられて清海鎮大使に任命された。清海鎮は現在の[[全羅南道]][[莞島郡]]に相当し、任務は奴隷貿易禁圧である。 張保皐は、海賊達を平定するに当たって、武力での鎮圧ではなく、奴隷貿易よりも安定して高収入が得られる海運業・造船業の仕事を与える方策を用いたといわれる。 現在の全羅南道莞島に根拠地を置いた張保皐は、新羅南部の群小海上勢力を傘下に収め、[[唐]]・日本と手広く交易活動を行い、中国沿海諸港に居住する[[イスラーム]]商人とも交易を行った。このため、張保皐の勢力は[[東シナ海]]・[[黄海]]海上を制覇し、東アジア一帯の海上王国に発展し、その名前は日本でもよく知られるようになった。 [[836年]]に興徳王が死去すると、新羅の都・金城([[慶州市|慶州]])では王族間の後継争いが起こり、一旦は敗れた[[神武王|金祐徴(後の神武王)]]が張保皐のもとに身を寄せてきた。張保皐は金祐徴を支援するために友軍の鄭年に5千の兵を与えて[[閔哀王]]を討ち、金祐徴は神武王として即位することができた。この功により張保皐は感義軍使に任命され、食邑2千戸を賜った。神武王は王位簒奪の成功の暁には張保皐の娘を王妃に迎えると約束していたが、即位後6ヶ月で急死した。後を継いだ[[文聖王]]は即位後直ち([[839年]]8月)に大赦を行うとともに、張保皐の功績を称えて鎮海将軍の官位と礼服とを授けた。さらに[[845年]]3月、先王の盟約に従って張保皐の娘を王妃に迎えようとしたが、張保皐の身分が卑しいという群臣の反対によって取りやめとなり、これを恨んで張保皐は846年に反乱を起こした。文聖王は張保皐の武力を恐れて討伐を躊躇していたが、ここで閻長という剣客が彼の暗殺を請け負った。閻長は張保皐に偽装投降し、宴会の席で張保皐を暗殺した。閻長によって暗殺されたことは『三国史記』新羅本紀には文聖王8年(846年)条に見えるが、『三国遺事』紀異・神武大王閻長弓巴条には神武王代のこととしている。また、『続日本後紀』では[[841年]]11月までに死去しているとする。 また、この間、[[840年]]([[承和 (日本)|承和]]7年)には日本との通交を拒否されたが、翌年には民間の交易が認められ、北九州の官人や入唐僧などと貿易を通じて深くかかわっていたことが記録されている<ref>網野1982</ref>。 張保皐が暗殺された後、文聖王は[[851年]]に清海鎮を廃止した。張保皐の元部下達は、慶州の碧骨県(今の金堤)に移動させられたが、ここで再び反乱を起こした。張保皐が係わる一連の兵乱を「弓福之乱」と称することもある。死後に反逆者として扱われてきたため、張保皐に関する資料や彼の拠点は破壊されてほとんど残っておらず、残っている資料は大変貴重である。元部下達の一部は九州に移動したと見られている<ref>藤間1966</ref>。 == 『新唐書』新羅伝・『三国史記』列伝における評価 == 『[[新唐書]]』巻220・新羅伝では、張保皐と鄭年とが元々知己であったこと、ともに[[唐]]で武寧軍少将となったことを伝える。張保皐が先に新羅に帰って高い官位(清海鎮大使)を得た後に、職を去って餓え凍えていた鄭年が張保皐を頼っていったときに暖かくこれを迎えたこと、歓迎の宴の最中に[[閔哀王]]が殺されて国都が混乱していることを聞くや、張保皐が鄭年に兵5千を与えて「あなた(鄭年)でなくては、この禍難を収めることはできないだろう」といい、反乱者を討たせて新王を立てたこと、新王によって張保皐は宰相に取り立てられたこと、代わりに鄭年が清海鎮大使を継いだこと、を記している。さらに続けて、[[杜牧]]が張保皐・鄭年の交わりを[[安禄山の乱]]における[[郭子儀|郭汾陽]]・[[李臨淮]]の交わりに見立てて仁義の人であると賞賛したことを伝え、『新唐書』の列伝を編纂した[[宋祁]]の評として、国難の時期に義の心を持って国家の憂患を第一に考えた人として[[晋 (春秋)|晋]]代の[[祁奚]]、唐代の郭汾陽・張保皐を挙げ、「どうして東方の蛮国に優れた人物がいないということがあろうか」と称えている(原文:嗟乎、不以怨毒相槊、而先國家之憂、晉有祁奚、唐有汾陽・保皋、孰謂夷無人哉。)。 『[[三国史記]]』の編者の[[金富軾]]は、新羅の伝記(新羅本紀に基づく記事、上記)とは食い違っていることを明記したうえで、『新唐書』新羅伝の記述をほぼ引用した形で巻44・張保皐伝を記しており、張保皐の評価を支持している。また、巻43・金庾信伝下においても、新羅の三国統一を果たした[[金ユ信|金庾信]]の功績を図抜けたものとしながらも、[[乙支文徳]]の知略と張保皐の武勇とをともに顕彰している。 == 慈覚大師円仁の求法の旅を支援 == 9世紀前半、[[山東半島]]の港町・赤山(当時多くの[[新羅]]商人が居留するところとなっていた)に赤山[[法華経|法華]]院を寄進するとともに、短期で帰国しなければならなかった入唐請益僧[[円仁]]の長期不法在唐を実現(不法在留を決意した円仁のために地方役人と交渉して公験(旅行許可証)下付を取り付ける)したのを始め、円仁の9年6ヶ月の求法の旅を物心両面にわたって支援した。円仁の日本帰国時には張保皐自身はすでに暗殺されていたが、麾下の将[[張詠]]が円仁の帰国実現に尽力した。 *京都の[[赤山大明神]]は円仁の弟子が円仁の志を継いで新羅人の神を祭るために[[888年]]([[仁和]]4年)に建てたものである。 *円仁は[[五台山 (中国)|五台山]]の一つ北台葉頭峰(3058メートル)に登頂した際に手に入れた香木で文殊像を造り、帰国実現ののち[[861年]]([[貞観 (日本)|貞観]]3年)10月、[[延暦寺]]に文殊楼を建立([[織田信長]]の[[比叡山焼き討ち (1571年)|比叡山焼き討ち]]で焼亡。現在の文殊楼は再建したもの)したが、この円仁の延暦寺文殊楼脇には張保皐顕彰碑が建てられている。 == 張保皐を扱った作品 == *金重明『皐の民』 講談社、2000年 ISBN 4062100509 *アニメーション「冒険王張保皐」 - ソウルムービー([[2002年]]) :張保皐の一生を扱った教育用フラッシュアニメーション *アニメーション「海の伝説張保皐」(Legend of Blue) - ソウルムービー([[2002年]]) :張保皐をモデルにしたSFアニメーション *ドラマ「[[海神 (テレビドラマ)|海神]]」 - [[韓国放送公社|KBS]]テレビ([[2004年]]) ==張保皐の名のついた艦船== *韓国海軍[[チャン・ボゴ級潜水艦]] 韓国海軍のドイツ製[[209型潜水艦]]の一番艦は「[[張保皐 (潜水艦)|張保皐]]」といい、全部で9隻ある同型艦はチャン・ボゴ級と呼ばれている。 == 脚注 == <references /> == 参考文献 == *[[金富軾]]撰 『[[三国史記]]』 **第1巻、[[井上秀雄]]訳注、[[東洋文庫_(平凡社)|平凡社〈東洋文庫〉]] 372、1980年、ISBN 4-582-80372-5。 **第4巻、井上秀雄・[[鄭早苗]]訳注、平凡社〈東洋文庫〉492、1988年、ISBN 4-582-80492-6。 *[[一然]] 『完訳 [[三国遺事]]』 [[金思燁]]訳、明石書店、1997年、ISBN 4750309923(原著 六興出版、1980年)。 *[[網野善彦]] 『東と西の語る日本の歴史』 講談社(講談社学術文庫)、1998年、ISBN 4-061-59343-9(初版そしえて、1982年)。 *[[鮎貝房之進]] 『朝鮮姓氏・族制考』 国書刊行会、1987年(原著 『雑攷』第8輯「姓氏攷及族制攷」1937年)。 *[[旗田巍]] 『岩波全書 朝鮮史』 岩波書店、1951年。 *[[藤間生大]] 『東アジア世界の形成』 春秋社、1966年。 == 外部リンク == *[http://japanese.changpogo.or.kr/ 海上王・張宝高](日本語) {{DEFAULTSORT:ちよう ほこう}} [[Category:古代朝鮮の人物]] [[Category:新羅]] [[Category:中国朝鮮関係史]] [[Category:交易の歴史]]
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