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康芳夫
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'''康 芳夫'''(こう よしお、[[1937年]][[5月15日]] - )は[[東京都]]出身の[[プロデューサー]]。自称「虚業家」。また、「伝説のプロデューサー」という異名でも知られる。 [[東京大学]]卒業。 [[1960年代]]から[[1970年代]]にかけて、テレビ局とタイアップして珍奇な企画を立ち上げて日本中を熱狂させた。[[広告代理店]]などの巨大資本や政治・宗教団体から独立的な立ち位置を保った。同時代の先輩である[[キョードー東京]]の[[永島達司]]のようにイベントを「事業」として永続させることはできなかった。 == 来歴 == 東京西神田にて、駐日[[中華民国]][[大使]]の侍医の中国人の父と日本人の母との間に、三人兄妹の次男として生まれる。[[暁星小学校]]を経て[[海城高校]]卒業。[[横浜国立大学]]に入学するも1年で中退し、[[1958年]]に[[東京大学]]に入学する。 東大在学中の[[1961年]]に五月祭の企画委員長を務め、ジャズフェスティバルや文化人によるティーチインを開催する。これがプロデュース業の原点となる。このときに[[石原慎太郎]]と知己を得て、[[1962年]]に彼の紹介で「赤い呼び屋」と呼ばれた[[神彰]]が主催するアート・フレンド・アソシエーションに就職。本格的に興行師としての仕事を開始した。 アート・フレンドは、[[ソニー・ロリンズ]]日本招聘、「大西部サーカス」、[[富士スピードウェイ]]での[[インディ500|日本インディ]]開催、「アラビア大魔法団」<ref>実在しない集団で、[[ドイツ]]人を集め、[[白人]]なので顔を黒く塗って急遽でっちあげたものだった</ref>を公演した。「そんないい加減なものに[[三島由紀夫]]が二回も来たのでバカだなと思った」とは康本人の談。 実現しなかった企画に[[マイルス・デイヴィス]]日本招聘がある。麻薬問題によるマイルス・デイヴィスの入国拒否で多額の負債を抱え、しばらくは出版業で糊口をしのぐが、やがて長年のパートナー神彰と訣別し、単独で活動を再開。[[金平正紀]]の協力のもと[[1972年]]の[[日本武道館]]での[[モハメド・アリ]]対マックフォスター、翌年の[[トム・ジョーンズ (歌手)|トム・ジョーンズ]]の来日公演を実現して大いに名を上げる。法外な入場料を不快に感じたトムは来日を拒否したが、康は[[ニューヨーク州]]の弁護士を通じて自宅からでないように法的に差し止めをかけ、最終的に和解した。 以降の康芳夫は「虚業家」を自称して、正統的なプロデュース業からキワモノ的な仕事が多くなる。[[1973年]]の石原慎太郎を隊長とする「[[ネッシー|国際ネッシー探検隊]]」、[[1976年]]の[[オリバー君]]招聘<ref>ホテルにとまったオリバーの相手をし殴る蹴るの暴行を加えたのが、当時はADの[[テリー伊藤]]だった</ref>と[[アントニオ猪木対モハメド・アリ]]のコーディネートである。アリを呼ぶためにブラック・ムスリムに入信し、マネージャーに近づいて話をつけたという。ベニハナレストラン社長の[[ロッキー青木]]が会見の金を出したほか、熱海の大金持ちの若いスポンサーを見つけてきて金を工面したともいう。 その後は、[[1977年]]の[[ハイチ]]での[[トラ]]対空手家・山元守<ref>[[国士舘大学]]で[[空手]]を教えていた</ref>の試合。当時のハイチの大統領であり[[ブードゥー教|ブードゥー教徒]]、空手ファンでもあった[[ジャン=クロード・デュヴァリエ|ディバリエ・ジュニア]]は、試合をすぐ許可した。しかし、動物愛護協会からのクレームと愛護協会の要職にいた[[ブリジット・バルドー]]が[[ジミー・カーター|カーター大統領]]に電報を打ったことから、ハイチに援助を行っているアメリカの圧力で中止になった。 [[1979年]]のアントニオ猪木対[[ウガンダ]]の[[イディ・アミン]]大統領の試合は政変でアミンが国外に逃亡<!--アミンは大きな冷蔵庫を持っていて、そこに人間の首がはいっていたのを見たという。当時、アミンは人肉を食べているといわれていた-->し中止を余儀なくされ、[[1982年]]の[[テレビ朝日]]による[[ロサンゼルスオリンピック_(1984年)|ロサンゼルス五輪]]独占放映権獲得、[[1986年]]の「[[ノアの方舟]]探索プロジェクト」も実現には至らず、康芳夫の「呼び屋」としての旺盛な活躍は実質的に[[1970年代]]までといえる。 [[出版]]分野における仕事には、[[澁澤龍彦]]編集の『[[血と薔薇]]』創刊、『[[家畜人ヤプー]]』出版、『[[週刊プレイボーイ]]』での「[[三浦和義]]のアナーキー人生相談」プロモート、[[川尻徹]]の[[ノストラダムス]]本プロデュースなどがある。ヤプーの出版については、「出版をやめろ」と[[右翼]]団体が脅しをかけてきたが、警察に逮捕してもらった、お礼参りで事務所の備品をこわされたが、それも逮捕してもらった。しかし、検事の電話で示談をすすめられ10万円もらい、話題にもなった。 現在は『家畜人ヤプー』関係の仕事が中心であり、『ヤプー』の映画化は[[長谷川和彦]]が監督するということで計画が進んでいたが、予算の面で長谷川によると桁が「小さい方に一つ違った」と折り合いが合わず、映画化は実質頓挫した。 また、[[2010年]][[12月10日]]に放送された[[バラエティ番組]]「たけしとひとし」に出演した際、[[イタリア]]の医師と組んだ「ヒト[[クローン]]計画」が進行中であると明かした。 == 人物 == *「楯の会」の[[森田必勝]]、[[オウム真理教]]の[[麻原彰晃]]は康芳夫の事務所に出入りしていた。 *[[2006年]][[8月2日]]、WBAライトフライ級タイトルマッチ([[亀田興毅]]VS[[ファン・ランダエタ]]戦)をリングサイドで観戦していたことがTV中継で確認された。しかし[[内田裕也]]と誤認した人が多く、テレビ、ラジオでもそのような報道が散見された。 *[[浦沢直樹]]の漫画「[[20世紀少年]]」のキーマン、万丈目胤舟のモデルになっている。 *[[テリー伊藤]]が、「僕にこの世界で師匠がいるとすれば、康さんです」と語っている。 == 主なプロデュース内容 == * 謎の類人猿・[[オリバー君]]の来日 * 国際ネッシー探検隊 (隊長:[[石原慎太郎]]) * トム・ジョーンズ来日公演 * モハメド・アリ vs アントニオ猪木戦 == 主な出演作品 == === バラエティ番組 === * [[R30]] ([[2005年]]7月8日、[[TBSテレビ]]) * [[たけしとひとし]] ([[2010年]]12月10日、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) == 著書 == *『虚業家宣言 クレイをKOした毛沢東商法』(1974年、[[双葉社]]) *『ネッシーはそこにいる ネス湖国際探検隊の記録』浪曼 1974 *『虚人魁人康芳夫 国際暗黒プロデューサーの自伝』(2004年、[[学研ホールディングス|学習研究社]]) *『虚人のすすめ―無秩序(カオス)を生き抜け』集英社新書 2009年 == 関連書籍 == * [[安部譲二]]『欺してごめん―私が舌を巻いた5人の詐欺師たち』(1993年12月、クレスト社)ISBN 978-4877120115 * [[竹熊健太郎]]『篦棒な人々ー 戦後[[サブカルチャー]]偉人伝』(1998年8月、[[太田出版]])ISBN 978-4309408804 * [[吉田豪]](インタビュアー)『[[紙のプロレス|紙のプロレスRADICAL NO.72]]』(2004年、[[ダブルクロス (曖昧さ回避)|ダブルクロス]]) * [[荒木飛呂彦]](原作)、[[鬼窪浩久]](漫画)『[[変人偏屈列伝|変人偏屈列伝 エピソード4 康芳夫]]』([[集英社]]、[[2004年]]、初出は『[[ウルトラジャンプ]]』[[2003年]]3月号) == 脚注 == <references /> {{DEFAULTSORT:こう よしお}} [[Category:プロデューサー]] [[Category:新日本プロレスの元関係者]] [[Category:アントニオ猪木]] [[Category:東京大学出身の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1937年生]] [[Category:存命人物]]
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