コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
并州のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
并州
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{otheruses|華北地方にかつて存在した州|中原地方にかつて存在した州|并州 (中原)}} {{中国地名変遷 |establish = 古代 |situation = 宋代に改編 |mythology = [[并州]] |Xia = [[并州]] |Yin = [[并州]] |Zhou = [[并州]] |Spring and Autumn= |Warring States = |Qin = |Western Han = [[并州]] |Xin = |Eastern Han = [[并州]] |Three Kingdoms = [[并州]] |Western Jin = [[并州]] |Eastern Jin = [[并州]] |South and North = [[并州]] |Sui = [[并州]]<br/>[[太原郡]] |Tang = [[并州]]<br/>[[太原府]] |Five Dinasties = |Northern Song = [[并州]]<br/>[[太原府]] }} '''并州'''(へいしゅう)は[[中国]]にかつて存在した[[州]]。 上古の中国の[[九州 (中国)|九州]]の一つに数えられている。具体的な区域については、『[[周礼]]』では「正北」すなわち中原から真北側にあたる地域であるとし、[[五岳]]の一である[[恒山]]を山鎮とするとしている。 ==漢代== [[紀元前110年|前110年]]([[元封 (漢)|元封]]元年)、全国を13州に分割し各州に[[刺史]]を設置した際、[[山西省]]の大部分と[[河北省]]・[[内モンゴル自治区]]の一部を'''并州'''とし[[太原郡|太原]]、[[上党郡|上党]]、[[西河郡|西河]]、[[朔方郡|朔方]]、[[五原郡|五原]]、[[雲中郡|雲中]]、[[定襄郡|定襄]]、[[雁門郡|雁門]]の9郡管轄した。また并州刺史とは別に朔方郡に朔方刺史が置かれ、塞北の広大な草原地帯を管轄していた。 前漢滅亡後の混乱期には、[[匈奴]]と結んだ[[盧芳]]が并州北部に割拠したが後に[[光武帝]]帰順している。[[後漢]]になると州治を晋陽に置いた。[[35年]]([[建武 (漢)|建武]]11年)には朔方刺史部を廃して并州に編入した。 ==魏晋南北朝時代== 後漢末の混乱期には異民族の侵入が続き并州9郡のうち、[[215年]](建安20年)に支配が形骸化した、[[オルドス]]地方の朔方、上党、五原、雲中、定襄の各郡が正式に放棄され、新に新興郡が設置された。また南匈奴を中心とする異民族の大量流入に対処すべく、[[曹操]]は并州とその周辺に茲氏、居祁、蒲子、新興、大陵の五部の匈奴居留地を設置し各部に都帥を設置して統治している。 [[西晋|晋末]]に発生した[[八王の乱]]に際しては、[[劉淵]]が并州周辺の匈奴勢力を糾合、[[304年]]([[永安 (晋)|永安]]元年)に離石において自立し大単于と号した。その後[[劉曜]]により趙公に封じられた[[石勒]]が并州を支配したが、石勒は[[318年]]([[麟嘉 (前趙)|麟嘉]]3年)に襄国を拠点として自立し[[後趙]]を建国、朔方一帯([[オルドス]])を分割して[[朔州]]を新設した。後趙が滅びた後は華北東部を支配した三燕の領土となったが、同時に[[前秦]]、[[夏 (五胡十六国)|夏]]、[[後秦]]などの華北西部の政権も洛陽周辺に并州を置いていたため、東西に二つの并州がある状態が続いた。([[苻堅]]が短期間華北を統一した時期を除く。) [[北魏]]の時代になると[[446年]]([[太平真君]]7年)に[[肆州]]、[[448年]]([[太和 (北魏)|太和]]12年)に[[汾州]]が分割新設されるなど行政区画の細分化が進められた。[[後周]]は并州を要地として[[河北道総管府]]を設置した。 ==隋代== [[隋|隋初]]には'''并州'''の下に2郡9県を管轄していた。[[605年]]([[大業]]元年)、[[遼州]](596年設置)を併合、[[607年]]([[大業]]3年)に郡制に改められ'''太原郡'''に改編、15県を管轄するようになった。隋朝の行政区分に関しては下図を参照 {| align=center class="wikitable" style="width:600px; text-align:center" |- !colspan="12" style="background:#ccccff"|'''隋朝の行政区画変遷''' |- align="center" !区分!!colspan="2"|大業元年!!区分!!大業3年 |- |州||colspan="2"|'''并州'''||郡||'''太原郡''' |- |郡||[[太原郡]]||[[楽平郡]]||rowspan="2"|県||rowspan="2"|[[晋陽県]] [[太原県]] [[文水県]]<br/>[[寿陽県]] [[楡次県]] [[太谷県]]<br/>[[汾陽県]] [[楽平県]] [[和順県]]<br/>[[石艾県]] [[祁県]] [[遼山県]]<br/>[[交城県]] [[平城県]] [[盂県]] |- |県||[[竜山県]] [[晋陽県]]<br/>[[受陽県]] [[東受陽県]]<br/>[[中都県]] [[陽邑県]]||[[楽平県]]<br/>[[梁楡県]]<br/>[[石艾県]] |} ==唐代以降== {{節stub}} 唐朝は并州を北方防備の重要拠点として[[河東節度使]]が設置された。[[723年]]([[開元]]11年)に并州を太原府に昇格、'''北京太原府'''として副都格の扱いとした。以後并州の名称は使用されなくなったが[[趙匡胤]]が「[[楊家将]]」として知られる名将[[楊業]]を降して、[[979年]]([[太平興国]]4年)に太原府(国都としては竜城と称した。)を根拠とした[[北漢]]を滅ぼした際、、太原府の城砦を破壊し、府から州へと降格させたため一時的に并州の名称が復活した。[[1059年]]([[嘉祐]]4年)に太原府に再昇格したため再び消滅した。 == 関連項目 == *[[九州 (中国)]] *[[漢代の地方制度]] {{隋朝の行政区分}} {{DEFAULTSORT:へい}} [[Category:かつて存在した中国の州]] [[Category:山西省の歴史]] [[Category:河北省の歴史]] [[Category:内モンゴルの歴史]] {{Chinese-history-stub}}
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Chinese-history-stub
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Otheruses
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:中国地名変遷
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:節stub
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:隋朝の行政区分
(
ソースを閲覧
)
并州
に戻る。
検索
検索
并州のソースを表示
話題を追加