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平重衡
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 平重衡 | 画像 = Taira no Shigehira.jpg | 画像サイズ = 240px | 画像説明 = 平重衡/安福寺所蔵 | 時代 = [[平安時代]]末期 | 生誕 = [[保元]]2年([[1157年]]) | 死没 = [[文治]]元年6月23日([[1185年]][[7月21日]])<br/>享年29 | 改名 = | 別名 = 三位中将 | 戒名 = | 墓所 = [[京都市]][[伏見区]]日野、[[安福寺 (木津川市)|安福寺]]、[[高野山]] | 官位 = [[左近衛権中将]]、[[蔵人頭]]、[[正三位]] | 主君 = [[二条天皇]]→[[六条天皇]]→[[高倉天皇]]<br/>→[[安徳天皇]]、および[[後白河天皇|後白河院]] | 氏族 = [[桓武平氏]][[平維衡|維衡]]流([[伊勢平氏]]) | 父母 = 父:[[平清盛]]、母:[[平時子]] | 兄弟 = [[平重盛|重盛]]、[[平基盛|基盛]]、[[平宗盛|宗盛]]、[[平知盛|知盛]]、[[平徳子|徳子]]、[[平盛子|盛子]]、<br/>'''重衡'''、[[平完子|完子]]、[[平知度|知度]]、[[平清房|清房]]、[[御子姫君]]、他 | 妻 = 正室:'''[[藤原輔子]]'''<br/>愛妾:内裏女房左衛門佐、[[千手の前]] | 子 = [[良智]]([[鶴岡八幡宮]]僧) }} [[ファイル:NaraTodaijiDaibutsu0212.jpg|thumb|200px|[[東大寺盧舎那仏像]]]] [[ファイル:shigehira.JPG|thumb|200px|神戸市須磨区にある平重衡捕らわれの遺跡]] '''平 重衡'''(たいら の しげひら)は、[[平安時代]]末期の[[伊勢平氏|平家]]の[[武将]]・[[公卿]]。[[平清盛]]の五男。母は清盛の[[継室]]・[[平時子]]。'''三位中将'''と称された。 平氏の大将の一人として各地で戦い、[[南都焼討]]を行って[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]や[[興福寺]]を焼亡させた。[[墨俣川の戦い]]や[[水島の戦い]]で勝利して活躍するが、[[一ノ谷の戦い]]で捕虜になり[[鎌倉]]へ護送された。平氏滅亡後、[[奈良|南都]]衆徒の要求で引き渡され、[[木津川 (京都府)|木津川]]畔で斬首された。その将才は「武勇の器量に堪ふる」(『[[玉葉]]』治承5年閏2月15日条)と評される一方、その容姿は[[牡丹]]の花に例えられたという。 == 生涯 == 父の清盛は[[保元の乱]]、[[平治の乱]]を勝ち抜いて[[平氏政権]]を樹立。継室の時子の子として生まれた重衡は幼少にして叙位し、平氏の公達として順調に昇進を重ね、[[治承]]3年([[1179年]])、23歳で左近衛権中将に進んだ。 だが、平氏の権勢の高まりは[[後白河天皇|後白河法皇]]・[[院近臣]]との軋轢を生み、同年11月、清盛はクーデターを起こして院政を停止する([[治承三年の政変]])。この事件の際に重衡は後白河法皇への奏上を行う使者となっている。 翌治承4年([[1180年]])5月、[[以仁王の挙兵]]が起こり、重衡は甥の[[平維盛]]と共に大将軍として出陣した。この反乱は早期に鎮圧されたが、その後も反平氏の挙兵が各地で相次いだ。8月に[[源頼朝]]が[[伊豆国]]で挙兵し、同年10月の[[富士川の戦い]]で平氏の追討軍を破り、[[関東]]を制圧した。さらに後白河院と密接につながる[[園城寺]]や、関白・[[松殿基房]]配流に反発する[[興福寺]]も公然と反平氏活動を始めた。 === 南都焼討 === {{Main|南都焼討}} 重衡は清盛の命により、12月11日に[[園城寺]]を攻撃し寺を焼き払うと、12月25日に大軍を率いて南都へ向かった。興福寺衆徒は奈良坂と[[般若寺]]に垣楯・逆茂木を巡らせて迎えうつ。[[河内国|河内]]方面から侵攻した重衡の4万騎は興福寺衆徒の防御陣を突破し、南都へ迫った。28日、重衡の軍勢は南都へ攻め入って火を放ち、興福寺、東大寺の堂塔伽藍一宇残さず焼き尽し、多数の僧侶達が焼死した。この時に[[東大寺盧舎那仏像|東大寺大仏]]も焼け落ちた。『[[平家物語]]』では、福井庄下司次郎太夫友方が明りを点ける為に民家に火をかけたところ風にあおられて延焼して大惨事になったとしているが、『延慶本平家物語』では計画的放火であった事を示唆している。放火は合戦の際の基本的な戦術として行われたものと思われるが、大仏殿や興福寺まで焼き払うような大規模な延焼は、重衡の予想を上回るものであったと考えられる。 この南都焼討は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒からひどく憎まれた。翌治承5年([[1181年]])閏2月4日、清盛は死去する。同年3月、大将軍として[[墨俣川の戦い]]に赴き、[[源行家]]・[[義円]]軍を破り、源氏の侵攻を食い止めた。 === 一門都落ち === [[寿永]]2年([[1183年]])5月に[[倶利伽羅峠の戦い]]で平維盛の軍が[[源義仲]]に大敗し、平氏は京の放棄を余儀なくされた。重衡も妻の[[藤原輔子|輔子]]と共に都落ちした。 重衡は勢力の挽回を図る中心武将として活躍。同年10月の[[備中国]]・[[水島の戦い]]で[[源義清 (矢田判官代)|足利義清]]を、同年11月の[[室山の戦い]]で再び源行家をそれぞれ撃破して源義仲に打撃を与えた。翌寿永3年([[1184年]])正月、源氏同士の抗争が起きて義仲は鎌倉の頼朝が派遣した[[源範頼]]と[[源義経|義経]]率いる鎌倉源氏軍によって滅ぼされた。この間に平氏は[[摂津国]]・[[福原京|福原]]まで進出して京の奪回をうかがうまでに回復していた。 だが、同年2月の[[一ノ谷の戦い]]で平氏は源範頼・義経の鎌倉源氏軍に大敗を喫し、敗軍の中、重衡は馬を射られて捕らえられた。重衡を捕らえたのは『平家物語』では[[梶原景季]]と[[庄高家]]、『吾妻鏡』では[[梶原景時]]と[[庄家長]]とされる。重衡は京へ護送され[[土肥実平]]が囚禁にあたった。後白河法皇は[[藤原定長]]を遣わして重衡の説得にあたるとともに、[[讃岐国]]・[[屋島]]に本営を置く平氏の総帥・[[平宗盛]]に[[三種の神器]]と重衡との交換を交渉するが、これは拒絶された。 同年3月、重衡は梶原景時によって鎌倉へと護送され、頼朝と引見した。その後、[[狩野宗茂]]([[工藤茂光|茂光]]の子)に預けられたが、頼朝は重衡の器量に感心して厚遇し、妻の[[北条政子]]などは重衡をもてなすために侍女の[[千手の前]]を差し出している。頼朝は重衡を慰めるために宴を設け、[[工藤祐経]](宗茂の従兄弟)が鼓を打って[[今様]]を謡い、千手の前は[[琵琶]]を弾き、重衡が横笛を吹いて楽しませている。『平家物語』は鎌倉での重衡の様子を描いており、千手の前は琵琶を弾き、[[朗詠]]を詠って虜囚の重衡を慰め、この貴人を思慕するようになった。 元暦2年([[1185年]])3月、[[壇ノ浦の戦い]]で平氏は滅亡し、この際に平氏の女達は入水したが、重衡の妻の輔子は助け上げられ捕虜になっている。 === 最期 === 同年6月9日、焼討を憎む南都衆徒の強い要求によって、重衡は南都へ引き渡されることになり、[[源頼兼]]の護送のもとで鎌倉を出立。22日に東大寺の使者に引き渡された。『平家物語』には、一行が輔子が住まう日野の近くを通った時に、重衡が「せめて一目、妻と会いたい」と願って許され、輔子が駆けつけ、涙ながらの別れの対面をし、重衡が形見にと額にかかる髪を噛み切って渡す哀話が残されている。『[[愚管抄]]』にも日野で重衡と輔子が再会したという記述がある。 23日、重衡は[[木津川 (京都府)|木津川]]畔にて斬首され、奈良坂にある[[般若寺]]門前で梟首された。享年29。なお、斬首前に[[法然]]と面会し、[[受戒]]している<ref>[http://jodo.or.jp/onki800/kinen/bunka/sekai_message/0710.html 「平重衡の問いに念仏往生を示す御詞」より] 浄土宗</ref>。 == 死後 == 妻の輔子はうち捨てられていた重衡の遺骸を引き取り、南都大衆(だいしゅ)から首も貰い受けて荼毘に付し、日野に墓を建てた。現在、この墓は京都市伏見区の団地の中に残っている。また輔子は[[高野山]]にも遺骨を葬らせ、その後、大原に隠棲した[[平徳子|建礼門院]]に仕えた。夫婦の間に子は無かった。 重衡が斬首された木津川畔の[[京都府]][[木津川市]]木津宮ノ裏の安福寺には重衡の供養塔がある。また梟首された般若寺にも供養塔がある。能『[[重衡 (能)|重衡]]』では、奈良阪の墓地にある石製の笠塔婆から迷い出た重衡の霊が旅の僧に供養を頼む描写がある。能『重衡』が成立した室町時代、奈良阪には奈良市民の惣墓があり、その一角に存在した笠塔婆は重衡の墓だと信じられていた。この石塔は現在般若寺に移築されているが、重衡の墓ではないことが分かっている。 重衡の死の3年後に鎌倉の千手の前は若くして死んだ。人々は亡き重衡を恋慕して憂死したのだと噂した。 東大寺盧舎那仏像は[[俊乗坊重源|重源]]の大勧進によって再建され、[[建久]]6年([[1195年]])に大仏殿の落慶法要が行われた。[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]に[[松永久秀]]によって[[東大寺大仏殿の戦い|再び焼亡]]し、現在のものは[[江戸時代]]に再建されたものである。 == 遺児 == 『[[鶴岡八幡宮]]供僧次第』によれば、重衡の子とされる僧がおり、[[建保]]7年([[1219年]])の[[源実朝]]暗殺の際に[[公暁]]の共犯の疑いで取り調べを受けている。嫌疑はすぐに晴れたが、平家の出身者が[[鎌倉幕府]]から疑いの目を向けられていた事が伺われる。 == 人物 == [[ファイル:平重衡.jpg|thumb|200px|平重衡([[菊池容斎]]画/[[江戸時代]])]] 『[[建礼門院右京大夫集]]』や『[[平家公達草紙]]』によると、重衡はちょっとした事でも人のために心遣いをする人物であり、いつも冗談を言い、怖い話で[[女房]]を怖がらせたり、退屈していた[[高倉天皇]]をなぐさめるために、強盗のまねごとをして天皇を笑わせたというエピソードが残されている。容貌については「なめまかしくきよらか」と書かれている。都落ちの際、常に遊んでいた[[式子内親王]]の御所に武者姿で別れの挨拶に訪れた際には、親しんだ女房たちが大勢涙にくれたという。 『[[吾妻鏡]]』では頼朝との対面で「囚人の身となったからには、あれこれ言う事もない。弓馬に携わる者が、敵のために捕虜になる事は、決して恥ではない。早く斬罪にされよ」と堂々と答えて周囲を感歎させた。千手の前と工藤祐経との遊興では、[[朗詠]]を吟じて教養の高さを見せ、その様子を聞いた頼朝が、立場を憚ってその場に居合わせなかった事をしきりに残念がっている。 == 官歴 == ※日付=旧暦 * [[応保]]2年([[1162年]]・6歳)12月23日:[[従五位]]下 * 応保3年([[1163年]]・7歳)正月24日:[[尾張国|尾張]][[国司|守]]([[平頼盛|頼盛]]の後任) * [[仁安 (日本)|仁安]]元年([[1166年]]・10歳) ** 11月18日:従五位上(中宮・[[藤原育子]]御給) ** 12月30日:[[馬寮|左馬頭]](宗盛の後任) * 仁安3年([[1168年]]・12歳) ** 正月6日:[[正五位]]下(女御・[[平滋子]]御給) ** 8月4日:[[従四位]]下 * [[嘉応]]3年([[1171年]]・15歳)正月6日:従四位上(建春門院御給) * [[承安 (日本)|承安]]2年([[1172年]]・16歳) ** 2月10日:[[中宮職|中宮亮]](中宮・平徳子) ** 2月17日:[[正四位]]下 * [[治承]]2年([[1178年]]・22歳)12月15日:[[春宮坊|春宮亮]](東宮・言仁親王)。左馬頭如元。中宮亮を辞任 * 治承3年([[1179年]]・23歳) ** 正月19日:[[近衛府|左近衛権中将]] ** 12月14日:左中将を辞任。春宮亮如元 * 治承4年([[1180年]]・24歳) ** 正月28日:[[蔵人頭]] ** 2月21日:新帝([[安徳天皇]])蔵人頭。春宮亮を辞任 * 治承5年([[1181年]]・25歳)5月26日:左中将に還任。[[従三位]] * [[養和]]2年([[1182年]]・26歳)3月8日:[[但馬国|但馬権守]]兼任 * [[寿永]]2年([[1183年]]・27歳) ** 正月7日:[[正三位]](建礼門院御給) ** 8月6日:解官 == 脚注 == <references /> == 関連項目 == {{Commonscat|Taira no Shigehira}} *[[東大寺盧舎那仏像]] *[[平重衡とらわれの松跡]] ; 小説 *[[中津文彦]]『最後の御大将 平重衡 義経が最も恐れた男』([[PHP文庫]]) {{デフォルトソート:たいら しけひら}} [[Category:平安時代の武士]] [[category:平安時代後期の貴族]] [[Category:伊勢平氏]] [[Category:平家]] [[Category:刑死した人物]] [[Category:1157年生]] [[Category:1185年没]]
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