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平群広成
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'''平群 広成'''(へぐり の ひろなり、生年不詳 - [[天平勝宝]]5年[[1月28日 (旧暦)|1月28日]]([[753年]][[3月11日]]))は、[[奈良時代]]の[[貴族]]。[[カバネ|姓]]は[[朝臣]]。[[讃岐国|讃岐]][[国司|守]]・[[平群豊麻呂]]の子。[[官位]]は[[従四位|従四位上]]・[[武蔵国|武蔵]]守。 [[遣唐使]]の判官(三等官)として[[唐]]に渡るが、帰国の途中難船。はるか崑崙国([[チャンパ王国]]。今の[[ベトナム]]中部沿海地方)にまで[[漂流]]したが、無事日本へ帰国した。[[古代]]の日本人のなかで最も広い世界を見たとされる人物である。 == 時代背景 == [[神亀]]5年([[728年]])[[1月17日 (旧暦)|1月17日]][[日本海]]を渡って[[渤海 (国)|渤海]]の使節が初めて[[平城宮]]に入朝した。使節は前年9月に[[蝦夷地]]に漂着し、大使・[[高仁義]]ら16名は[[蝦夷]]に襲われて死亡、首領・[[高斉徳]]ら8名が生き残って[[出羽国]]に助けを求めたものであった。彼らが提出した渤海郡王・[[大武芸]]の国書には、渤海を[[高句麗]]の再興であると宣言し、日本との友好善隣を求めていた。[[天智天皇]]7年([[668年]])に[[唐]]・[[新羅]]連合軍に滅ぼされた高句麗の遺民が再び国を起こしたものであった。早速、[[引田虫麻呂]]が送渤海使に任命され、高斉徳らを送って渤海に向かった。引田虫麻呂は[[天平]]2年([[730年]])[[8月29日 (旧暦)|8月29日]]帰朝、渤海王の進物や国書を携えてきた。当時、大武芸は弟・[[大門芸]]の[[亡命]]をめぐって唐と対立していた。 天平4年([[732年]])[[8月18日 (旧暦)|8月17日]]に遣唐使派遣が決定され、同時に[[朝廷]]の高官が[[東海道|東海]]・[[東山道|東山]]・[[山陰道|山陰]]・[[西海道|西海]]各道の[[節度使]]に任命された。[[8月22日 (旧暦)|22日]]には兵士の充足と軍備の充実が命じられている。この時の遣唐使に新たな留学生・僧が派遣された形跡はない。 == 遣唐使 == 平群広成はこの時の遣唐使節の判官に任命された。以前の経歴は知られていない。[[平群氏]]は[[大和国]]西北部の[[平群郡]]を根拠地とし、[[雄略天皇|雄略]]朝には[[大臣]]となった[[平群真鳥|真鳥]]を輩出し全盛期を迎えたが、この頃には中級官人となり、地方官を務める家柄になっている。 今回の遣唐大使には前回の大使・[[多治比県守]]の弟である[[多治比広成]]が任命された。この時、県守は[[中納言]]の要職にあり、山陰道節度使にも任命されている。副使には[[朝廷]]の[[祭祀]]を職掌とする[[中臣氏]]から[[中臣名代]]が任命されている。他に広成を含む判官(参事官)4名、録事(書記官)4名が任命された。[[9月4日 (旧暦)|9月4日]]、[[近江国|近江]]・[[丹波国|丹波]]・[[播磨国|播磨]]・[[備中国|備中]]などの諸国に遣唐使船4隻の建造が命じられている。翌天平5年([[733年]])3月に大使・多治比広成はじめ派遣団は拝朝し、[[4月3日 (旧暦)|4月3日]]4隻の船に分乗して[[難波津]]を進発した。 途中[[東シナ海]]で嵐に遭ったが、なんとか4船無事に[[蘇州市|蘇州]]の海岸に着岸した。この頃、すでに唐と渤海の戦端は開かれており、前年([[732年]])に渤海水軍が山東の[[登州]]を攻撃し、この[[開元]]21年(733年)には[[玄宗 (唐)|玄宗]]は大門芸を[[幽州]]に派遣して兵を集めさせ、新羅王にも渤海攻撃を命じたが、いずれも不調に終わっている。 『[[冊府元亀]]』によれば、 :「開元22年([[734年]])4月日本国遣使来朝、美嚢絁(みのうのあしぎぬ)二百匹、水織絁(みずおりのあしぎぬ)二百匹を献ず。」 とある。 一行は無事朝貢の役目を果たし、在唐の留学生、留学僧を集め、才能ある唐人などを日本に招いた。この時、前回渡唐した[[吉備真備]]や[[玄ボウ|玄昉]]は帰国に応じたが、[[阿倍仲麻呂]]は[[科挙]]に合格して唐の[[官職]]に就任しており、帰国しなかった。 同年10月、一行は4隻の船に分乗、蘇州管内の港を出発して帰国の途に就いたが、東シナ海上で[[暴風雨]]に遭遇し、離れ離れとなった。大使・多治比広成の乗る第1船のみがかろうじて[[種子島]]に漂着した。副使・[[中臣名代]]の乗る第2船は[[福建]]方面に漂着し、[[長安]]に送り返された。『冊府玄亀』には開元23年([[735年]])3月日本国使来朝とある。副使一行は唐朝の援助で船を修理し、8月には[[奈良]]に帰着することができた。この一行は唐人の楽師ら3人、ペルシャ人1人<ref>『[[続日本紀]]』巻第十二 聖武天皇 天平八年([[736年]])。[[李密エイ|李密翳]](り・みつえい)。[[松本清張]]の[[歴史小説]]『[[眩人]]』で知られる。</ref>を伴っていた。 == 漂流 == 一方、平群広成の乗る第3船は潮の流れのままに南へと流された。第4船の行方は全く不明である。広成の船はようやく岸辺に流れ着いた。住民の肌の色は黒く、漂着地は[[崑崙国]]と知れた<ref>当時中国では肌の色の黒い[[マレー人|マレー系]]など南方諸国を崑崙と総称していた。</ref>。この時、船には115人がいたという。 上陸すると直ちに武装した現地兵が襲来したが、武器も無く、漂流で衰弱した身体では太刀打ちできず、崑崙兵と戦って死んだ者も、密林に逃げ込んだ者もいた。残りの90人あまりは捕らえられたが、ほとんどは[[マラリア]]で死亡し、生き残ったのは平群広成と水手3人だけだった。彼らは崑崙の都に連行され、崑崙王に拝謁して抑留された。 735年になって唐の欽州(現在の[[中華人民共和国]][[広西チワン族自治区]]欽州。[[トンキン湾]]に面する)在住の崑崙商人に助けられ、欽州へ脱出することができた。欽州には[[長安]]から派遣された[[刺史]]が駐在しており、広成らは官府の援助で長安に送還されている。広成一行が漂着した「崑崙」が[[チャンパ王国]]と断定される理由はいくつかあるが、特に欽州到着後、知らせを受けた唐の宰相・[[張九齢]]が起草した『勅日本国王書』([[全唐文]]巻287)に :「広成等飄至林邑国」 と述べられている。[[林邑]]とはチャンパ王国の中国名である。なお、この勅書は中臣名代一行が日本に持ち帰り、平群広成生存の事実は日本でも知られていた。名代帰国後の天平9年(737年)9月に広成は在唐のまま[[正六位|正六位上]]から[[外位|外]][[従五位|従五位下]]に昇叙されている。 == 帰国の道 == 長安では帰国せずに唐朝に仕えていた[[阿倍仲麻呂]]が帰国の方途を探った。新羅を経由して帰国するのが近道であったが、日本と開戦する可能性があり、このルートは取れなかった。やがて唐と和解した渤海の使節が長安に来るようになった。渤海と日本との関係は良好だったため、阿倍仲麻呂は広成らが渤海経由で帰国できるよう玄宗に上奏し、裁可された。 開元26年([[738年]])10月、広成ら遣唐使生き残りの一行は[[山東半島]]の登州から海路渤海入りした。この時、渤海では[[大武芸]]王が没し、[[大欽茂]]が[[即位]]したばかりであった。都はまだ[[上京龍泉府]](現・中国[[黒竜江省]][[牡丹江市]])ではなく、東牟山(現・中国[[吉林省]][[延辺朝鮮族自治州]][[敦化市]])にあった。渤海では新王即位を知らせる使者を日本に派遣する準備を進めており、広成には日本の使者が迎えに来るまで待てばどうかと勧めたが、広成はすぐにも帰国したいと申し出た。出航地の記載はない。渤海の遣日使節は2隻の船に分乗し、[[日本海]]を南下したが、途中1隻が大波を受けて転覆し、大使らが溺死した。別の船に乗船していた広成は、天平11年([[739年]])7月[[出羽国]]に到着し、副使・已珎蒙らとともに10月になって[[平城京]]に入った。同年11月には拝朝して経緯を報告し、翌12月には外従五位下から一挙に[[正五位|正五位上]]に昇叙された。 == その後の広成== 留学生ではなく遣唐使の判官とはいえ、6年もの間諸国を渡り歩いた平群広成は当時の日本では屈指の知識人であり、朝廷から重用された。帰国後の広成は、漂流生活で得た知識を活用して朝廷に仕え、順調に出世していく。 天平15年([[743年]])[[刑部省|刑部大輔]]、天平16年([[744年]])東山道[[巡察使]]、天平16年([[746年]])[[式部省|式部大輔]]次いで[[摂津職|摂津大夫]]を歴任し、天平19年([[747年]])従四位下、天平勝宝2年([[750年]])従四位上と累進し、天平勝宝4年([[752年]])には武蔵守に任命されている。天平勝宝5年([[753年]])1月28日卒去。最終官位は武蔵守従四位上。 == 脚注 == <references/> == 参考文献 == * 宇治谷孟『[[続日本紀]]』(上・中巻)[[講談社学術文庫]]、1992年 * 『[[三国史記]]』 * 『[[冊府元亀]]』 * 『[[全唐文]]』 == 外部リンク == * [http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/gaikou.html 天平外交史年表] * [http://www.tetsureki.com/home/library/shiryoukan/kentoushi.html 遣唐使の苦難] {{DEFAULTSORT:へくり の ひろなり}} [[Category:平群氏|ひろなり]] [[Category:奈良時代の貴族]] [[Category:遣唐使]] [[Category:漂流者]] [[Category:生年不明]] [[Category:753年没]]
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