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'''幕末の年表'''(ばくまつのねんぴょう)は、[[江戸時代]]後期([[幕末]])に関する[[年表]]。 凡例 * 年月日は旧暦 == 黒船来航以前 == <!-- 主に対外関係を記した。 --> * [[1792年]] ロシア使節[[アダム・ラクスマン|ラクスマン]]、[[根室]]に来航。[[大黒屋光太夫]]を送還する。[[松平定信]]は限定的な通商を考慮し、[[信牌]]を交付 * [[1804年]] 信牌を持ったロシア使節[[ニコライ・レザノフ|レザノフ]]、[[長崎市|長崎]]に来航するが交渉不成立。この頃から[[鎖国]]は祖法であるとの認識が生まれた * [[1806年]] 文化の[[薪水給与令]] * 1806年-[[1807年]] レザノフの部下フヴォストフら、[[蝦夷地]]北辺を襲撃([[フヴォストフ事件]])。薪水給与令が撤回される * [[1808年]] [[フェートン号事件]] * [[1811年]] [[ゴローニン事件]]。[[高田屋嘉兵衛]]を送還する。 * [[1816年]] イギリス軍艦[[ライラ号]]・[[アルセスト号]]、[[琉球]]に来航 * [[1818年]] イギリス人[[ゴルドン]]、[[浦賀]]に来航 * [[1824年]] イギリス捕鯨船員、[[常陸国|常陸]]大津浜に上陸し[[水戸藩]]に捕らえられる * [[1824年]] イギリス捕鯨船員、[[南西諸島]]の宝島に上陸し騒動を起こす * [[1825年]] [[異国船打払令]] * [[1828年]] [[シーボルト事件]] * [[1830年]] [[ナサニエル・セイヴァリー]]ら白人5人とハワイ人25人が[[小笠原諸島]]に入植・移住民となる * [[1836年]] [[天保騒動]] * [[1837年]] [[大塩平八郎の乱]] * [[1837年]] [[モリソン号事件]] * [[1838年]] [[徳川斉昭]]、『[[弘道館]]記』に[[尊王攘夷]]を示す(草案は[[藤田東湖]]) * [[1839年]] [[蛮社の獄]] * [[1840年]] [[アヘン戦争]] * [[1841年]] [[天保の改革]] * [[1842年]] 天保の[[薪水給与令]] * [[1843年]] イギリス軍艦[[サマラン (帆走フリゲート)|サマラン号]]、[[八重山諸島]]に上陸し測量を行う * [[1844年]] フランス軍艦[[アルクメーヌ号]]、[[琉球]]に来航。宣教師を残す * [[1844年]] オランダ国王[[ウィレム2世 (オランダ王)|ウィレム2世]]、親書(草案はシーボルト)を送り開国を勧告する。筆頭[[老中]][[水野忠邦]]は開国を主張するも、他老中の賛同を得られず * [[1845年]] サマラン号、長崎に来航 * [[1845年]] [[阿部正弘]]、老中首座となる。阿部により[[海岸防禦御用掛|海防掛]]が常設職とされた * [[1845年]] アメリカ捕鯨船([[マーケイター・クーパー]]船長)、浦賀に来航。日本人漂流民を送還する * [[1846年]] [[孝明天皇]]即位 * [[1846年]] [[東インド艦隊 (アメリカ海軍)|アメリカ東インド艦隊]]司令官[[ビッドル]]、浦賀に来航し通商条約を求めるが、幕府は拒絶。 * [[1849年]] アメリカ軍艦プレブル号([[ジェームス・グリン]]艦長)、アメリカ人漂流民救出のために長崎に来航 * [[1849年]] イギリス軍艦[[マリナー号]]、浦賀・[[下田市|下田]]に来航し測量を行う * [[1851年]] [[ジョン万次郎]]、アメリカ船で帰国 * [[1852年]] [[カピタン|オランダ商館長]] [[ヤン・ドンケル・クルティウス|クルティウス]]、[[オランダ風説書]]にてアメリカ艦隊来航を通告し、それ以前にオランダとの通商条約を結ぶことを提案するが、幕府これを拒否 == 嘉永6年([[1853年]][[2月8日]] - [[1854年]][[1月28日]])== * [[6月3日 (旧暦)|6月3日]](1853年[[7月8日]]) [[マシュー・ペリー|ペリー]]、4隻からなる艦隊(内[[蒸気船]]2隻)を率いて浦賀に来航、[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]に日本を離れる([[黒船来航]]) * 6月6日 [[伊豆国|伊豆]]の[[新島]]に[[流罪]]となっていた甲斐国の博徒・[[竹居安五郎]]が島抜けを行い、甲斐へ帰国。 * [[6月22日 (旧暦)|6月22日]](1853年[[7月27日]]) 十二代将軍[[徳川家慶]]、死去 * [[7月1日 (旧暦)|7月1日]] (1853年[[8月5日]])阿部正弘、大名・幕臣に広く意見を求める。このとき提出された[[勝海舟|勝麟太郎]]の海防意見書を[[大久保忠寛]]が目にとめ、阿部に推挙する * [[7月18日 (旧暦)|7月18日]](1853年[[8月22日]]) [[プチャーチン]]、4隻からなる艦隊(内小型[[蒸気船]]1隻)を率いて長崎に来航、[[10月23日 (旧暦)|10月23日]]まで滞在 * [[8月6日 (旧暦)|8月6日]](1853年[[9月8日]]) 幕府、[[砲術]]家[[高島秋帆]]の禁固を解いて、[[韮山代官]][[江川英龍]]の配下に置く * [[8月15日 (旧暦)|8月15日]](1853年[[9月17日]]) 幕府、大砲50門の[[鋳造]]を[[佐賀藩]]に要請 * [[8月24日 (旧暦)|8月24日]](1853年[[9月26日]]) 幕府、江川英龍の指揮のもと、品川沖[[お台場|台場]]の築造を始める * [[9月15日 (旧暦)|9月15日]](1853年[[10月17日]]) [[大船建造の禁]]が廃止される。それに先立ち洋式帆走軍艦[[昇平丸]]([[薩摩藩]])、[[旭日丸]]([[水戸藩]])、[[鳳凰丸]]([[浦賀奉行]])の建造が開始されている * [[11月7日 (旧暦)|11月7日]](1853年[[12月23日]]) 幕府、米国より戻っていた[[ジョン万次郎]]を[[旗本]]格として登用、中濱の苗字を与える * [[11月23日 (旧暦)|11月23日]](1853年[[12月23日]]) [[徳川家定]]、十三代将軍に就任 * [[12月5日 (旧暦)|12月5日]](1854年[[1月3日]]) プチャーチン、再来航。翌[[嘉永]]7年[[1月8日 (旧暦)|1月8日]]まで滞在 == 嘉永7年/安政元年([[1854年]][[1月29日]] - [[1855年]][[2月16日]])== * [[1月16日 (旧暦)|1月16日]] (1854年[[2月13日]])ペリー、再来航 * [[1月24日 (旧暦)|1月24日]](1854年[[2月21日]]) [[一朱銀]]を通用開始 * [[3月3日 (旧暦)|3月3日]](1854年[[3月31日]]) [[日米和親条約]]調印 * [[7月9日 (旧暦)|7月9日]](1854年[[8月2日]]) [[島津斉彬]]、[[徳川斉昭]]らの進言によって、「[[日の丸]]」の[[幟]]を日本惣船印とする事を決定する * [[8月23日 (旧暦)|8月23日]](1854年[[10月14日]]) [[日英和親条約]]調印(英国東インド艦隊司令[[ジェームズ・スターリング (西オーストラリア州総督)|ジェームズ・スターリング]]) * [[9月21日 (旧暦)|9月21日]](1854年[[11月11日]]) 幕府、オランダに蒸気軍艦2隻を発注([[咸臨丸]]及び[[朝陽丸]]) * [[10月14日 (旧暦)|10月14日]](1854年[[12月13日]]) プチャーチン、再び下田に来航。[[11月4日 (旧暦)|11月4日]]、[[安政東海地震|東海地震]]津波のため、乗艦[[ディアナ号#ディアナ(フリゲート)|ディアナ号]]が大破、後に沈没、[[東海道五十三次|東海道筋]]甚大被害、翌日には[[安政南海地震|南海地震]]津波で紀伊半島、四国に甚大被害 * [[11月27日 (旧暦)|11月27日]](1855年[[1月15日]]) [[内裏]]炎上、[[安政東海地震|地震]]、[[黒船来航]]などの災異のため'''[[安政]]に[[改元]]''' * [[12月21日 (旧暦)|12月21日]](1855年[[2月7日]]) [[日露和親条約]]調印 == 安政2年([[1855年]][[2月17日]] - [[1856年]][[2月5日]])== * [[3月22日 (旧暦)|3月22日]](1855年[[5月8日]]) プチャーチン、ディアナ号の代艦ヘダ号(後に量産され[[君沢形]])で日本を離れる * [[6月9日 (旧暦)|6月9日]](1855年[[7月22日]]) 長崎にオランダ軍艦スムービング号来航(艦長[[ヘルハルト・ペルス・ライケン|ペルス・ライケン]])。幕府に寄贈され、日本最初の蒸気軍艦となる(後に[[観光丸]]と改称) * [[6月19日 (旧暦)|6月19日]](1855年[[8月1日]]) 幕府、江戸[[関口製造所|湯島大小砲鋳立場]]で洋式小銃の鋳造を開始 * [[6月29日 (旧暦)|6月29日]](1855年[[8月11日]]) 幕府、諸大名・旗本に洋式銃の訓練を命じる * [[8月23日 (旧暦)|8月23日]](1855年[[10月3日]]) 薩摩藩、江戸の薩摩藩邸前の海で、初の国産[[蒸気船]][[雲行丸]]の試運転に成功 * [[10月2日 (旧暦)|10月2日]](1855年[[11月11日]]) [[安政江戸地震]]([[安政の大地震]])。江戸で町方死者4,700人余。復旧事業費用等のため幕府の財政悪化の一因となる * [[10月9日 (旧暦)|10月9日]](1855年[[11月18日]]) 阿部正弘、[[堀田正睦]]に老中首座を譲る * [[10月14日 (旧暦)|10月14日]](1855年[[11月23日]]) 幕府、旗本・諸藩士・庶民の[[蝦夷地]]移住開拓を許可 * [[10月24日 (旧暦)|10月24日]](1855年[[12月3日]]) 幕府、[[ヘルハルト・ペルス・ライケン|ペルス・ライケン]]らオランダ海軍軍人を教官とし、長崎に[[海軍伝習所]]を設立 * [[12月23日 (旧暦)|12月23日]](1856年[[1月30日]]) [[日蘭和親条約]]調印 == 安政3年([[1856年]][[2月6日]] - [[1857年]][[1月25日]])== * [[4月13日 (旧暦)|4月13日]](1856年[[5月16日]]) 幕府、築地に[[講武所]]を開設。幕臣およびその子弟に剣術の他、洋式調練・砲術などを教授 * [[7月21日 (旧暦)|7月21日]](1856年[[8月21日]]) [[タウンゼント・ハリス|ハリス]]、米総領事として[[下田市|下田]]に到着 * [[12月18日 (旧暦)|12月18日]](1857年[[1月13日]]) 徳川家定、[[島津斉彬]](一橋派)の養女[[天璋院|篤子]]と婚儀。 == 安政4年([[1857年]][[1月26日]] - [[1858年]][[2月13日]])== * 1月 [[甲斐国]]で[[甲府]]の博徒・[[三井卯吉]]が小天狗亀吉らに襲撃され死亡。 * [[4月11日 (旧暦)|4月11日]](1857年[[5月4日]]) 幕府、築地の講武所内に[[軍艦教授所|軍艦操練所]]を設立。長崎海軍伝習所の一期生が教授となる * [[5月26日 (旧暦)|5月26日]](1857年[[6月17日]]) 日米和親条約を修補する全9箇条の下田協約が締結 * [[8月5日 (旧暦)|8月5日]](1857年[[9月22日]]) オランダで建造された[[咸臨丸]](最初の新造蒸気軍艦)、長崎に到着 * [[8月23日 (旧暦)|8月23日]](1857年[[10月10日]]) 咸臨丸で来日した[[ヘンドリック・ハルデス]]の指導で[[長崎製鉄所]]の建設始まる * [[10月21日 (旧暦)|10月21日]](1857年[[12月7日]]) ハリス、江戸城にて将軍家定に謁見し国書を渡す * [[12月11日 (旧暦)|12月11日]](1858年[[1月25日]]) [[日米修好通商条約]]交渉開始 == 安政5年([[1858年]][[2月14日]] - [[1859年]][[2月2日]])== * [[2月5日 (旧暦)|2月5日]](1858年[[3月19日]]) [[老中]][[堀田正睦]]、日米修好通商条約の[[勅許]]を得るために入京 * [[3月12日 (旧暦)|3月12日]](1858年[[4月25日]]) [[岩倉具視]]等攘夷派公家88人、条約勅許への反対を表明し座り込み([[廷臣八十八卿列参事件]]) * [[3月20日 (旧暦)|3月20日]](1858年[[5月3日]]) [[孝明天皇]]、条約勅許を拒否 * [[4月23日 (旧暦)|4月23日]](1858年[[6月4日]]) [[南紀派]]の[[井伊直弼]]、[[大老]]に就任 * [[5月1日 (旧暦)|5月1日]](1858年[[6月11日]]) [[井伊直弼]]、将軍継嗣は[[徳川家茂|徳川慶福]](後の家茂)と老中に言い渡す * [[6月19日 (旧暦)|6月19日]](1858年[[7月29日]]) [[日米修好通商条約]]調印 * [[6月23日 (旧暦)|6月23日]](1858年[[8月2日]]) 堀田正睦、老中を罷免される * [[7月5日 (旧暦)|7月5日]](1858年[[8月13日]]) 井伊直弼、[[一橋派]]の[[徳川斉昭]]、[[徳川慶篤]]、[[徳川慶勝]]、[[松平慶永]]を隠居謹慎などに処す。[[安政の大獄]]の始まり * [[7月6日 (旧暦)|7月6日]](1858年[[8月14日]]) 十三代将軍徳川家定、死去 * [[7月8日 (旧暦)|7月8日]](1858年[[8月16日]]) 幕府、海防掛を廃し、[[外国奉行]]を設置。初代5人は全員一橋派で、4人が短期間で解任された * [[7月10日 (旧暦)|7月10日]](1858年[[8月18日]]) [[日蘭修好通商条約]]調印 * [[7月11日 (旧暦)|7月11日]](1858年[[8月19日]]) [[日露修好通商条約]]調印 * [[7月11日 (旧暦)|7月16日]](1858年[[8月24日]]) [[島津斉彬]]急死。井伊への抗議のための挙兵上洛計画実現せず * [[7月18日 (旧暦)|7月18日]](1858年[[8月26日]]) [[日英修好通商条約]]調印 * [[8月8日 (旧暦)|8月8日]](1858年[[9月13日]]) 朝廷、水戸藩に勅書を送る([[戊午の密勅]]) * [[9月3日 (旧暦)|9月3日]](1858年[[10月9日]]) [[日仏修好通商条約]]調印 * [[10月25日 (旧暦)|10月25日]](1858年[[11月30日]]) [[徳川家茂]]、十四代将軍に就任 == 安政6年([[1859年]][[2月3日]] - [[1860年]][[1月22日]])== * [[5月26日 (旧暦)|5月26日]](1859年[[6月26日]]) 初代[[駐日英国大使|英国公使]](着任時は総領事)[[ラザフォード・オールコック]] 品川に到着。[[6月12日 (旧暦)|6月12日]]批准書交換。 * [[6月1日 (旧暦)|6月1日]](1859年[[6月30日]]) [[水野忠徳]]の策により[[小判]]の海外流出防止のため貿易専用通貨である[[二朱銀#安政二朱銀|安政二朱銀]]通用開始。しかし、ハリス、オールコックらの抗議によりわずか22日間で通用停止→[[幕末の通貨問題]] * [[6月2日 (旧暦)|6月2日]](1859年[[7月1日]]) 神奈川・長崎・[[函館市|箱館]]を開港 * [[7月27日 (旧暦)|7月27日]](1859年[[8月25日]])日露国境策定交渉のために来日していたロシア海軍の軍人2名が殺害される。最初の外国人殺害事件 * [[8月10日 (旧暦)|8月10日]](1859年[[9月6日]]) 初代フランス公使(着任時は総領事)[[ギュスターヴ・デュシェーヌ・ド・ベルクール]] 着任 * [[8月23日 (旧暦)|8月23日]](1859年[[9月19日]]) [[トーマス・ブレーク・グラバー|グラバー]]来日、長崎にグラバー商会設立。後に討幕派を支援し、武器や弾薬を販売 * [[10月27日 (旧暦)|10月27日]](1859年[[11月21日]]) [[吉田松陰]]、死刑。安政の大獄の最後の処分者 * [[12月27日 (旧暦)|12月27日]]([[1860年]][[1月19日]]) [[安政丁銀|政字銀]]通用開始、最低品位の[[丁銀|銀]] == 安政7年/万延元年([[1860年]][[1月23日]] - [[1861年]][[2月9日]])== * [[1月22日 (旧暦)|1月22日]](1860年[[2月13日]]) 日米修好通商条約批准書交換のため[[万延元年遣米使節]]が米艦[[ポーハタン (蒸気フリゲート)|ポーハタン号]]で出発。護衛名目で[[咸臨丸]]も渡米。 * [[3月3日 (旧暦)|3月3日]](1860年[[3月24日]]) [[桜田門外の変]] * [[3月18日 (旧暦)|3月18日]](1860年[[4月8日]]) [[江戸城]]火災や[[桜田門外の変]]などの災異のため'''[[万延]]に改元''' * [[3月27日 (旧暦)|3月27日]](1860年[[4月17日]]) 遣米使節、[[ジェームズ・ブキャナン|ブキャナン大統領]]に謁見し批准書交換。 * [[3月19日 (旧暦)|閏3月19日]](1860年[[5月9日]]) 幕府、[[五品江戸廻送令]]を発布し物価高騰抑制を試みる(開港初年度で国内産[[生糸]]の20%以上が輸出に回されたため、価格が高騰していた)。 * [[4月10日 (旧暦)|4月10日]](1860年[[5月30日]]) [[万延小判]]通用開始。金銀交換比が海外とほぼ同一となり、金の流出が止まる。 * [[6月17日 (旧暦)|6月17日]](1860年[[8月3日]]) 日葡修好通商条約調印(ポルトガル) * [[9月27日 (旧暦)|9月27日]](1860年[[11月9日]]) 遣米使節帰国 * [[12月5日 (旧暦)|12月5日]](1861年[[1月15日]]) 米通訳[[ヒュースケン]]、暗殺される * [[12月14日 (旧暦)|12月14日]](1861年[[1月24日]]) 日普修好通商条約調印(プロイセン) == 万延2年/文久元年([[1861年]][[2月10日]] - [[1862年]][[1月29日]])== * [[2月3日 (旧暦)|2月3日]](1861年[[3月13日]]) ロシア軍艦ポサドニック号、[[対馬]]芋崎を一時占拠([[ポサドニック号事件]])。芋崎の永久租借を要求したが、約半年後に英国海軍の介入により退去。 * [[2月19日 (旧暦)|2月19日]](1861年[[3月29日]]) [[讖緯説]]に基づく[[辛酉革命]]の年に当たるため'''[[文久]]に改元''' * [[3月25日 (旧暦)|3月25日]](1861年[[5月4日]]) [[長崎製鉄所]](現[[三菱重工業長崎造船所]])完成。日本最初の近代工場 * [[5月28日 (旧暦)|5月28日]](1861年[[7月5日]]) [[東禅寺事件#第一次東禅寺事件|第一次東禅寺事件]]。これをきっかけに英国軍艦が横浜に常駐するようになる。 * [[7月9日 (旧暦)|7月9日]](1861年[[8月14日]]) オールコック、[[老中]][[安藤信正]]、[[若年寄]][[酒井忠ます]]との秘密会談で、攘夷勢力に対する幕府の力の限界を知り、[[両都両港開市開港延期問題|江戸・大坂・新潟・兵庫の開市開港延期]]に理解を示す。 * [[12月23日 (旧暦)|12月23日]](1862年[[1月12日]]) [[文久遣欧使節]](開市開港延期交渉使節)、出発 * [[12月 (旧暦)|12月]](1862年[[1月]]) 幕府、[[水野忠徳]]を[[小笠原諸島]]に派遣、翌文久2年5月に領有宣言 == 文久2年([[1862年]][[1月30日]] - [[1863年]][[2月17日]])== * [[1月15日 (旧暦)|1月15日]](1862年[[2月13日]]) [[公武合体]]派の老中[[安藤信正]]、水戸浪士に襲われ負傷([[坂下門外の変]])。[[4月11日 (旧暦)|4月11日]]、老中を罷免される * [[2月11日 (旧暦)|2月11日]](1862年[[3月11日]]) 公武合体の象徴として皇女[[和宮親子内親王]]降嫁 * [[4月16日 (旧暦)|4月16日]](1862年[[5月14日]]) 公武合体推進のため[[島津久光]]、兵を率いて入京。朝廷、幕府に[[島津久光#中央政界へ進出|三事策]]を求める * [[4月23日 (旧暦)|4月23日]](1862年[[5月21日]]) [[寺田屋事件]]。久光の命令により薩摩藩攘夷派一掃される * [[5月9日 (旧暦)|5月9日]](1862年[[6月6日]]) [[ロンドン覚書]]調印。兵庫・新潟・江戸・大坂の開港・開市を5年延期することが認められる。 * [[5月29日 (旧暦)|5月29日]](1862年[[6月26日]]) [[東禅寺事件|第二次東禅寺事件]]。英国公使館再び襲われる * [[6月7日 (旧暦)|6月7日]](1862年[[7月3日]]) 島津久光江戸到着、幕閣との交渉を開始 * [[7月6日 (旧暦)|7月6日]](1862年[[8月1日]]) 三事策に基づき、一橋慶喜が[[将軍後見職]]に、[[7月9日 (旧暦)|7月9日]][[松平慶永]]が[[政事総裁職]]に任命される * [[8月21日 (旧暦)|8月21日]](1862年[[9月14日]]) [[生麦事件]]。江戸から京都へ向かう久光一行の通行を妨害したイギリス人4人が殺傷される * 閏[[8月 (旧暦)|8月]] [[文久の幕政改革]] * 閏[[8月1日 (旧暦)|8月1日]](1862年[[9月24日]]) [[松平容保]]、[[京都守護職]]に任命される * [[12月12日 (旧暦)|12月12日]](1863年[[1月31日]]) [[高杉晋作]]ら長州藩士10名、[[英国公使館焼き討ち事件|英国公使館焼き討ち]] == 文久3年([[1863年]][[2月18日]] - [[1864年]][[2月7日]])== * [[2月13日 (旧暦)|2月13日]](1863年[[3月31日]]) 三事策に基づき、[[徳川家茂]]、[[上洛]]のため江戸出立 * [[2月19日 (旧暦)|2月19日]](1863年[[4月6日]]) 英国代理公使[[ジョン・ニール|ニール]]、幕府に東禅寺事件と生麦事件の賠償金合計11万ポンドを要求。戦争になるとの噂が流れ、多くの日本人が横浜を脱出 * [[3月 (旧暦)|3月]] [[壬生浪士]]([[新選組]]の前身)結成 * [[3月4日 (旧暦)|3月4日]](1863年[[4月21日]]) [[徳川家茂]]上洛。将軍の上洛は[[徳川家光]]以来229年ぶり。 * [[4月20日 (旧暦)|4月20日]](1863年[[6月6日]]) 徳川家茂、[[孝明天皇]]に[[5月10日 (旧暦)|5月10日]] をもっての攘夷実行を約束させられる。 * [[5月3日 (旧暦)|5月3日]](1863年[[6月18日]]) 生麦事件賠償金支払い予定日。攘夷令の影響を受け、幕府、英国に延期を通告 * [[5月5日 (旧暦)|5月5日]](1863年[[6月20日]]) ニール、英国東インド艦隊司令[[オーガスタス・レオポルド・キューパー|キューパー]]提督に、幕府に対する軍事行動を命令。キューパー、横浜から軍艦を江戸に向かわせる * [[5月9日 (旧暦)|5月9日]](1863年[[6月24日]]) [[小笠原長行]]、独断で賠償金11万ポンド全額を支払い、戦争回避。同時に、攘夷令に基づき開港場の閉鎖と外国人の退去を文書で通告するが、口頭で実行の意志がないことも伝える * [[5月10日 (旧暦)|5月10日]](1863年[[6月25日]]) 長州藩、[[下関市|下関]]で外国商船を砲撃([[下関戦争]]) * [[5月12日 (旧暦)|5月12日]](1863年[[6月27日]]) [[長州五傑]]、英国領事[[エイベル・ガウワー]]の助けを借り、英国留学のため横浜を密出国 * [[5月18日 (旧暦)|5月18日]](1863年[[7月3日]]) 幕府、文書にて開港場閉鎖と外国人追放を撤回 * [[5月26日 (旧暦)|5月26日]](1863年[[7月11日]]) [[小笠原長行]]、[[幕府陸軍]]1600人を率い、海路横浜を出発、武力上洛を目指す。6月5日、家茂の説得により入京を断念するが、家茂の江戸帰還が認められる。 * [[6月1日 (旧暦)|6月1日]](1863年[[7月15日]]) 米国、[[下関市|下関]]に報復攻撃 * [[6月5日 (旧暦)|6月5日]](1863年[[7月19日]]) フランス、[[下関市|下関]]に報復攻撃。上陸し一部砲台を破壊。 * [[6月7日 (旧暦)|6月7日]](1863年[[7月21日]]) [[高杉晋作]]、藩に[[奇兵隊]]編成を建白 * [[7月2日 (旧暦)|7月2日]](1863年[[8月15日]]) [[薩英戦争]] * [[8月13日 (旧暦)|8月13日]](1863年[[9月25日]]) 会薩同盟成立 * [[8月17日 (旧暦)|8月17日]](1863年[[9月29日]]) [[天誅組の変]]。公卿[[中山忠光]]を主将とした尊皇攘夷派浪士がとして大和国で決起するが、[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]に壊滅。 * [[8月18日 (旧暦)|8月18日]](1863年[[9月30日]]) [[八月十八日の政変]]。七卿落ち。京都から攘夷派が一掃される。 * [[9月1日 (旧暦)|9月1日]](1863年[[10月13日]]) 一橋慶喜、鎖港談判の着手勅命を受ける。[[9月15日 (旧暦)|9月15日]]、米・蘭との交渉を行うが、両国これを拒否 * [[10月5日 (旧暦)|10月5日]](1863年[[11月15日]]) 薩英戦争の講和成立、賠償金2万5千ポンド支払い。この交渉を通じて、薩摩と英国が接近 * [[10月12日 (旧暦)|10月12日]](1863年[[11月22日]]) [[生野の変]]。[[平野国臣]]等尊攘派浪士が但馬国生野で挙兵するも数日で鎮圧される * [[12月8日 (旧暦)|12月8日]](1864年[[1月16日]])[[小栗忠順]]、[[造船所|横須賀製鉄所]]建設案を幕府に提出 * [[12月29日 (旧暦)|12月29日]](1864年[[2月6日]]) [[横浜鎖港談判使節団]]、フランスへ向けて出発 * [[12月29日 (旧暦)|12月29日]](1864年[[2月6日]]) 日本瑞西国修好通商条約調印(スイス) * [[12月30日 (旧暦)|12月30日]](1864年[[2月7日]]) 一橋慶喜・雄藩諸侯([[松平慶永]]、[[山内豊信]]、[[伊達宗城]]、[[松平容保]]、[[島津久光]])ら朝議参預に任じられる([[参預会議]]) == 文久4年/元治元年([[1864年]][[2月8日]] - [[1865年]][[1月26日]])== * [[1月15日 (旧暦)|1月15日]](1864年[[2月21日]]) 徳川家茂、再度上洛 * [[2月20日 (旧暦)|2月20日]](1864年[[3月27日]]) [[讖緯説]]に基づく[[甲子革令]]の年に当たるため'''[[元治]]'''に改元 * [[3月9日 (旧暦)|3月9日]](1864年[[4月14日]]) 参与会議瓦解 * [[3月15日 (旧暦)|3月15日]] 甲斐国で博徒・[[黒駒勝蔵]]が[[国分三蔵]]宅を襲撃。三蔵は逃亡。 * [[3月19日 (旧暦)|3月19日]](1864年[[4月24日]]) [[西郷隆盛]]、薩摩藩の軍賦役(軍司令官)に任命される * [[3月22日 (旧暦)|3月22日]](1864年[[4月27日]]) 第二代フランス公使[[レオン・ロッシュ]]着任 * [[3月27日 (旧暦)|3月27日]](1864年[[5月2日]]) [[天狗党の乱]]。[[水戸藩]]執政[[武田耕雲斎]]を中心とし、横浜即時鎖港を求め挙兵。12月17日(1865年[[1月14日]])投降 * [[6月5日 (旧暦)|6月5日]](1864年[[7月8日]]) [[池田屋事件]]。長州藩、土佐藩などの攘夷派多数が新選組に斬殺・逮捕される * [[6月10日 (旧暦)|6月10日]](1864年[[7月13日]]) 長州五傑の内[[伊藤博文|伊藤俊輔]]、[[井上馨|井上聞多]]、緊急帰国。オールコックの同意を得、長州藩の攘夷中止の説得を試みるが、失敗 * [[7月11日 (旧暦)|7月11日]](1864年[[8月12日]]) [[佐久間象山]]暗殺される。 * [[7月19日 (旧暦)|7月19日]](1864年[[8月20日]]) [[禁門の変]]。薩摩藩・会津藩が長州藩を京都から駆逐。御所に発砲した長州藩が[[朝敵]]とされた * [[8月5日 (旧暦)|8月5日]](1864年[[9月5日]]) [[馬関戦争]]。英仏蘭米連合軍、下関を攻撃。長州藩敗北。但し、賠償金300万ドルは幕府が支払うことになる * [[10月17日 (旧暦)|10月17日]] 山中に潜伏していた甲斐の黒駒勝蔵が[[犬上郡次郎]]宅を襲撃し、郡次郎を殺害。 * [[11月18日 (旧暦)|11月18日]](1864年[[12月16日]]) 第一次[[長州征伐]]。征長軍参謀西郷隆盛の妥協案に基づき、長州藩、戦わずして恭順 * [[12月15日 (旧暦)|12月15日]](1865年[[1月12日]]) [[高杉晋作]]、下関で挙兵([[功山寺挙兵]])。長州藩の藩論が[[倒幕]]に統一される == 元治2年/慶応元年([[1865年]][[1月27日]] - [[1866年]][[2月14日]])== * [[3月22日 (旧暦)|3月22日]](1865年[[4月17日]]) [[薩摩藩遣英使節団]]密出国 * [[4月7日 (旧暦)|4月7日]](1865年[[5月1日]]) [[禁門の変]]や社会不安などの災異のために'''[[慶応]]に[[改元]]''' * [[5月 (旧暦)|5月]] [[土佐勤王党]]、弾圧される * 閏[[5月2日 (旧暦)|5月2日]](1865年[[5月26日]]) 第二代[[駐日英国大使|英国公使]][[ハリー・パークス]]着任 * [[8月24日 (旧暦)|8月24日]](1865年[[10月13日]]) 幕府、フランスの協力を得て、[[レオンス・ヴェルニー]]の指導で[[横須賀製鉄所]]着工 * [[9月16日 (旧暦)|9月16日]](1865年[[11月4日]]) パークスの主導で英仏蘭三ヶ国艦隊、兵庫沖に来航。[[安政五カ国条約|条約]]勅許と兵庫の早期開港を求める([[兵庫開港要求事件]]) * [[10月5日 (旧暦)|10月5日]](1865年[[11月22日]]) 朝廷、条約に対する勅許を出す。兵庫開港は認めず == 慶応2年([[1866年]][[2月15日]] - [[1867年]][[2月4日]])== * [[1月21日 (旧暦)|1月21日]](1866年[[3月7日]]) 京都で[[西郷隆盛]]・[[小松清廉|小松帯刀]]と[[木戸孝允|桂小五郎]]会談。[[薩長同盟]]成立 * [[1月30日 (旧暦)|1月30日]](1866年[[3月16日]]) [[アーネスト・サトウ]]、ジャパン・タイムスに匿名で論文寄稿。将軍を主権者と見なさないとする内容だが、後に翻訳され『[[英国策論]]』と題され出版される * [[4月7日 (旧暦)|4月7日]](1866年[[5月21日]]) 海外行き許可の認証に関する布告。商用・留学目的の海外渡航が解禁される * [[5月2日 (旧暦)|5月2日]](1866年[[6月14日]]) 国産初の蒸気軍艦[[千代田形]]就役 * [[5月13日 (旧暦)|5月13日]](1866年[[6月25日]]) 幕府、英米仏蘭と[[改税約書]](江戸条約)に調印。輸入関税の引き下げにより、以降輸入が急増 * [[6月7日 (旧暦)|6月7日]](1866年[[7月18日]]) [[富士山 (スループ)|富士山丸]]等[[幕府海軍|幕府艦隊]]の[[周防大島]]への砲撃が始まる。第二次[[長州征伐]]開始。しかし薩摩藩は出兵を拒否。 * [[6月21日 (旧暦)|6月21日]](1866年[[8月1日]]) 日白修好通商条約調印(ベルギー) * [[7月16日 (旧暦)|7月16日]](1866年[[8月25日]]) 日伊修好通商条約調印 * [[7月20日 (旧暦)|7月20日]](1866年[[8月29日]]) 将軍家茂、死去 * [[8月20日 (旧暦)|8月20日]](1866年[[9月28日]]) ロッシュの仲介により、[[小栗忠順]]、フランスからの600万ドルの借款契約に成功。これを元手に幕府の近代化・軍事力強化を目指す * [[9月2日 (旧暦)|9月2日]](1866年[[10月10日]]) 幕府、長州征伐の目的果たせず、講和成立 * [[11月5日 (旧暦)|11月15日]](1866年[[12月21日]]) ロッシュ、[[徳川慶喜]]の依頼により幕政改革を提言 * [[12月5日 (旧暦)|12月5日]](1867年[[1月10日]]) 徳川慶喜、十五代将軍に就任 * [[12月7日 (旧暦)|12月7日]](1867年[[1月12日]]) 日丁修好通商条約調印(デンマーク) * [[12月5日 (旧暦)|12月8日]](1867年[[1月13日]]) [[フランス軍事顧問団 (1867-1868)|フランス軍事顧問団]]、横浜に到着。翌日から[[幕府陸軍]]の訓練を開始。 * [[12月25日 (旧暦)|12月25日]](1867年[[1月30日]]) [[孝明天皇]]、崩御 * [[12月 (旧暦)|12月]]~ [[慶応の改革]]。ロッシュの意見を入れ老中の総裁制度(職務明文化)を採用 == 慶応3年([[1867年]][[2月5日]] - [[1868年]][[1月24日]])== * [[1月9日 (旧暦)|1月9日]](1867年[[2月13日]]) [[明治天皇]]即位 * [[1月11日 (旧暦)|1月11日]](1867年[[2月15日]]) [[徳川昭武]]、[[パリ万国博覧会 (1867年)|パリ万博]]のため出発 * [[2月6日 (旧暦)|2月6日]](1867年[[3月11日]]) 徳川慶喜、大坂城でロッシュと会見(同月7日、20日にも会見) * [[3月25日 (旧暦)|3月25日]](1867年[[4月29日]]) 徳川慶喜、各国公使を謁見(~29日)。兵庫開港を確約し、各国公使の信頼を得る。このとき、パークスのみが慶喜の敬称を「[[陛下]]」ではなく「[[殿下]]」とした * [[4月14日 (旧暦)|4月14日]]([[1867年]][[5月17日]]) 高杉晋作死去 * [[4月15日 (旧暦)|4月15日]](1867年[[5月18日]]) フランス新外相ムスティエ、600万ドル借款を拒否。ロッシュ反論するが覆せず。 * [[5月4日 (旧暦)|5月4日]](1867年[[6月6日]]) [[四侯会議]](松平慶永、島津久光、山内豊信、伊達宗城) * [[5月24日 (旧暦)|5月24日]](1867年[[6月26日]]) 徳川慶喜、四侯会議を制し、兵庫開港の勅許を得る。会議側の敗北を受け、薩摩藩は武力倒幕の方針を固める * [[6月10日 (旧暦)|6月10日]]頃(1867年[[7月11日]]頃) [[坂本龍馬]]、土佐藩参政[[後藤象二郎]]に[[大政奉還]]を含む船中八策を提示 * [[10月3日 (旧暦)|10月3日]](1867年[[10月29日]]) 土佐藩主[[山内豊範]]、大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出 * [[10月14日 (旧暦)|10月14日]](1867年[[11月9日]]) [[討幕の密勅]]が薩摩藩と長州藩に下る * [[10月14日 (旧暦)|10月14日]](1867年[[11月9日]]) 徳川慶喜、政権返上を明治天皇に上奏([[大政奉還]])。朝廷、これを受けて、薩長に倒幕の実行延期の沙汰書を下す * [[10月24日 (旧暦)|10月24日]](1867年[[11月19日]]) 徳川慶喜、征夷大将軍辞職を申し出るが、朝廷これを認めず * [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1867年[[12月10日]]) [[坂本龍馬]]、[[中岡慎太郎]]暗殺される([[近江屋事件]]) * [[12月7日 (旧暦)|12月7日]](1868年[[1月1日]]) ロンドン覚書に従って、兵庫が開港される。それを祝うため、英・米・仏の艦艇17隻が集結。各国公使も大坂に滞在 * [[12月9日 (旧暦)|12月9日]](1868年[[1月3日]]) [[王政復古 (日本)|王政復古の大号令]]、徳川慶喜の将軍職辞職を勅許、江戸幕府廃止 * [[12月12日 (旧暦)|12月12日]](1868年[[1月6日]]) 徳川慶喜、[[二条城]]を退去。翌日[[大坂城]]に到着 * [[12月16日 (旧暦)|12月16日]](1868年[[1月10日]]) 徳川慶喜、英仏米蘭伊普の6カ国公使に、外交権は幕府が保持していることを宣言 * [[12月25日 (旧暦)|12月25日]](1868年[[1月19日]]) [[薩摩藩]][[江戸薩摩藩邸の焼討事件|江戸藩邸焼き討ち]] == 慶応4年/明治元年([[1868年]][[1月25日]] - [[1869年]][[2月10日]])== * [[1月3日 (旧暦)|1月3日]](1868年[[1月27日]]) [[鳥羽・伏見の戦い]]。[[戊辰戦争]]始まる * [[1月4日 (旧暦)|1月4日]](1868年[[1月28日]]) 朝廷、[[仁和寺宮嘉彰親王]]に[[錦旗]]・[[節刀]]を与える。薩長軍、官軍となる * [[1月6日 (旧暦)|1月6日]](1868年[[1月30日]]) 徳川慶喜、大坂城を脱出、海路江戸に戻る * [[1月7日 (旧暦)|1月7日]](1868年[[1月31日]]) 徳川慶喜追討令。旧幕府軍、朝敵となる * [[1月11日 (旧暦)|1月11日]](1868年[[2月4日]]) [[神戸事件]]。[[備前藩]]兵、各国外交団を銃撃。明治政府初の外交問題 * [[1月15日 (旧暦)|1月15日]](1868年[[2月8日]]) 朝廷、[[東久世通禧]]を派遣し、各国外交団に対し開国和親・条約遵守を宣言し、神戸事件の交渉開始 * [[1月15日 (旧暦)|1月15日]](1868年[[2月8日]]) 徳川慶喜、主戦派の中心人物である小栗忠順を解任、恭順の意志を表明 * [[1月19日 (旧暦)|1月19日]](1868年[[2月12日]]) ロッシュ、一旦江戸に戻り徳川慶喜に再起を促すが、慶喜はこれを拒否 * [[1月25日 (旧暦)|1月25日]](1868年[[2月18日]]) パークス、戊辰戦争に対する英国の局外[[中立]]を宣言。他国もこれに追従 * [[2月12日 (旧暦)|2月12日]](1868年[[3月5日]]) 徳川慶喜、江戸城を出て上野・[[寛永寺]]に謹慎 * [[2月15日 (旧暦)|2月15日]](1868年[[3月8日]]) [[堺事件]] * [[2月23日 (旧暦)|2月23日]](1868年[[3月16日]]) 勝海舟、陸軍総裁(後に軍事総裁)に任命され、幕府全権として新政府軍との講和を目指す * [[3月13日 (旧暦)|3月13日]](1868年[[4月5日]]) 勝・西郷会談。パークスの圧力もあり江戸攻撃中止が決定 * [[3月21日 (旧暦)|3月21日]](1868年[[4月13日]]) 明治天皇、大坂[[行幸]]のため京都を出発。閏[[4月8日 (旧暦)|4月8日]]京都に[[還幸]] * [[4月11日 (旧暦)|4月11日]](1868年[[5月3日]]) [[江戸城無血開城]] * [[4月1日 (旧暦)|閏4月1日]](1868年[[5月22日]]) パークス、大坂城にて[[ヴィクトリア (イギリス女王)|ビクトリア女王]]の信任状を[[明治天皇]]に提出(外国による最初の明治政府正式承認) * [[4月25日 (旧暦)|閏4月25日]](1868年[[6月15日]]) 新政府軍、白河への攻撃を開始。[[会津戦争]]始まる * [[5月2日 (旧暦)|5月2日]](1868年[[6月21日]]) 新政府、[[越後長岡藩|長岡藩]]の中立要請を拒否、[[北越戦争]]始まる * [[5月3日 (旧暦)|5月3日]](1868年[[6月22日]]) [[奥羽越列藩同盟]]成立 * [[5月15日 (旧暦)|5月15日]](1868年[[7月4日]]) [[上野戦争]]。[[彰義隊]]、一日で壊滅 * [[7月17日 (旧暦)|7月17日]](1868年[[9月3日]]) [[江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書|江戸を東京と改称]] * [[7月29日 (旧暦)|7月29日]](1868年[[9月15日]]) 新政府軍、越後を平定 * [[8月21日 (旧暦)|8月21日]](1868年[[10月6日]]) 新政府軍、会津領内に侵攻 * [[9月8日 (旧暦)|9月8日]](1868年[[10月23日]]) '''[[明治]]に改元'''、同年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]に遡って新元号・明治を適用。 * [[9月16日 (旧暦)|9月16日]](1868年[[10月31日]]) [[榎本武揚]]ら、[[開陽丸]]など旧幕府艦隊主力を率いて品川沖を脱走。[[ジュール・ブリュネ]]らフランス軍事顧問団の一部もこれに同行 * [[9月20日 (旧暦)|9月20日]](1868年[[11月4日]]) 明治天皇、東京行幸のため京都を出発 * [[9月22日 (旧暦)|9月22日]](1868年[[11月6日]]) 会津藩降伏 * [[9月23日 (旧暦)|9月23日]](1868年[[11月7日]]) [[庄内藩]]降伏、奥羽越列藩同盟瓦解。本州での戦いが終了 * [[10月13日 (旧暦)|10月13日]](1868年[[11月26日]]) 明治天皇、江戸城に到着。名を「東京城」と改める。[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]京都に還幸 * [[10月22日 (旧暦)|10月22日]](1868年[[12月5日]]) 榎本軍、[[箱館府]]軍との間に戦闘開始。[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]までに蝦夷地を平定 * [[11月15日 (旧暦)|11月15日]](1868年[[12月28日]]) 開陽丸、座礁・沈没 * [[12月15日 (旧暦)|12月15日]](1869年[[1月27日]]) [[蝦夷共和国]]成立 * [[12月28日 (旧暦)|12月28日]](1869年[[2月9日]]) 諸外国、局外中立を解除。明治政府が日本の唯一の正統政府とみなされる。 == 明治2年([[1869年]][[2月11日]] - [[1870年]][[1月31日]])== * [[1月5日 (旧暦)|1月5日]](1869年[[2月15日]]) [[横井小楠]]、京都にて暗殺される * [[2月3日 (旧暦)|2月3日]](1869年[[3月15日]]) 米国、中立解除につき新政府に装甲艦[[甲鉄]]を引渡し。新政府軍の海軍力が蝦夷共和国軍を上回る * [[3月25日 (旧暦)|3月25日]](1869年[[5月6日]]) [[宮古湾海戦]]。蝦夷共和国軍、甲鉄の奪取を試みるも失敗 * [[3月28日 (旧暦)|3月28日]](1869年[[5月9日]]) 明治天皇、東京城に到着、「皇城」と称する。これより実質的に東京が首都となる * [[4月9日 (旧暦)|4月9日]](1869年[[5月20日]]) 新政府軍、蝦夷地に上陸 * [[5月18日 (旧暦)|5月18日]](1869年[[6月27日]]) 榎本武揚、新政府軍に降伏。[[箱館戦争]]終結 == 関連項目 == * [[幕末の人物一覧]] [[Category:幕末|*]] [[Category:年表|はくまつのねんひよう]]
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