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帯方郡
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{{未検証|date=2010年2月}} [[画像:Ancient Korea Taihougun.png|right|thumb|250px|3世紀の朝鮮半島|right]] '''帯方郡'''(たいほうぐん)は、204年から313年の109年間、古代[[中国]]によって[[朝鮮半島]]の中西部に置かれた軍事・政治・経済の地方拠点([[植民地]]との見方も存在する<ref>[[武光誠]]は、「[[魏志倭人伝]]は、朝鮮半島にあった[[魏 (三国)|魏]]の植民地、帯方郡から邪馬台国にいたる道筋を詳しく記している」と述べている(武光誠「古代史最大の謎邪馬台国の21世紀的課題」『[[月刊現代]]』2008年6月号 87頁)。</ref><ref>[[鳥越憲三郎]]は、「前漢武帝が元封三年に朝鮮半島の北部を植民地として楽浪・臨屯・玄菟・真番の四郡を設置」と記している({{Cite book|和書|editor=[[中西進]]・[[王勇]]編|year=1996|month=10|title=人物|publisher=大修館書店|series=日中文化交流史叢書 第10巻|isbn=4-469-13050-8|ref=中西&王1996}})。</ref><ref>[[渡辺延志]][[朝日新聞]]記者は、「楽浪郡は前漢が前108年に設置した植民地({{cite news |title=紀元前1世紀の楽浪郡木簡発見|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2009-03-19|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200903190125.html|accessdate=2011-06-01}})」「中国の前漢が朝鮮半島に置いた植民地・楽浪郡({{cite news |title=最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(1/2ページ)|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-29|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277.html|accessdate=2011-06-01}})」「漢字が植民地経営のために、朝鮮半島にまで広がっていた({{cite news |title=最古級の論語、北朝鮮から 古代墓から出土の竹簡に記述(2/2ページ)|author=渡辺延志|newspaper=朝日新聞|date=2010-05-29|url=http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201005280277_01.html|accessdate=2011-06-01}})」と説明している。</ref><ref>[[別冊宝島]]は、「[[ソウル]]周辺や[[江原道 (南)|江原道]]、さらに北の[[北朝鮮]]は中国の植民地で楽浪郡といった」と記している({{Cite book|和書|editor=別冊宝島編集部編|year=2011|month=3|title=あなたが知らない韓国!100のトリビア|publisher=宝島社|isbn=978-4-7966-8096-7|series=別冊宝島 1726 Nonfiction|ref=別冊宝島編集部2011}})。</ref><ref>[[桜井誠 (活動家)|桜井誠]]は「漢の武帝によって真番・臨屯・玄菟・楽浪の漢四郡が設置されるなど、中華帝国の千年属国」「中国・前漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、朝鮮半島に設置した四つの郡県(中国の行政単位)。三国時代に至るまで、代々中華帝国の支配を受けていた」「中国前漢武帝の時代に衛氏朝鮮は滅ぼされ、その地に楽浪郡をはじめ真番郡、臨屯郡、玄菟郡のいわゆる漢四郡が設置されており、侵略を跳ね返したどころか漢帝国の一地方となっていた」と説明している({{Cite book|和書|author=桜井誠|year=2006|month=2|title=嫌韓流反日妄言撃退マニュアル 実践ハンドブック |publisher=晋遊舎|series=晋遊舎ムック|isbn=4-88380-502-6|ref=桜井2006}})。</ref>)。[[楽浪郡]]の南半を裂いた数県([[晋 (王朝)|晋]]代では7県〈『[[晋書]]地理志』〉)と、東の[[濊]]、南の韓、南端の[[倭]](半島南端)がこれに属す。[[後漢]]から[[魏 (三国)|魏]]、[[西晋]]の時代にかけ、郡の経営や羈縻支配を通じて韓・倭という[[東夷]]地域へ中国の文化や技術を持ち込んだほか、直轄となった魏朝以降には華北の中国文化の窓口としても重要な役割を果たした。郡の長が太守であり、その配下の官吏と軍団の在する郡役所が郡治である。帯方郡治は、楽浪郡治([[平壌]])の南方にあったことは確かだが、詳しい位置については諸説ある(後述)。 ==帯方郡の歴史== {{朝鮮の歴史}} ===公孫氏による創設=== 後漢の末、[[中平]]6年([[189年]])に[[中国東北部]]の[[遼東]]太守となった[[公孫度]]は、勢力を拡大して自立を強め、後漢の放棄した朝鮮半島へ進出、現在の平壌付近から漢城北方にかけての一帯にあった楽浪郡を支配下に置いた<ref>『晋書』地理志上</ref>。その後を継いだ嫡子・[[公孫康]]は、[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])楽浪郡18城の南半、屯有県(現・黄海北道黄州か)以南を割くとともに南方の土着勢力韓・濊族を討ち、併せて帯方郡として「是より後、倭・韓遂に帯方に属す」<ref>『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』魏書東夷伝韓条</ref>という朝鮮半島南半の統治体制を築く。郡治とは、その周囲の数十県(城)の軍事・政治・経済を束ねる一大機構であり、個々の県治よりもひときわ大きな城塞都市であった。公孫康はほどなく魏の[[曹操]]に恭順し、その推薦によって後漢の[[献帝]]から左将軍・襄平侯に任ぜられ、帯方郡も後漢の郡として追認された。 公孫康の死後、その子・が幼いために公孫康の実弟・公孫恭が後を継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けた魏朝の文帝(曹操の子・[[曹丕]])により、[[車騎将軍]]・襄平侯に封じられた。しかし、[[太和 (魏)|太和]]2年([[228年]])成長した公孫康の子の[[公孫淵]]は叔父・恭の位を奪い取り、魏の[[曹叡]](明帝)からの承認も取りつけて揚烈将軍・遼東太守に任ぜられる。公孫淵は、祖父以上に自立志向が強く、魏朝の仇敵である[[呉 (三国)|呉]]の[[孫権]]との同盟を画策し、最終的には、魏から受けた大司馬・楽浪公の地位を不足とし、[[景初]]元年(237年)反旗を翻して独立を宣言。遼東の[[襄平城]]で燕王を自称するにいたる。帯方郡も楽浪郡もそのまま燕に属した。 翌年([[238年]])魏の太尉・[[司馬懿]]の率いる四万の兵によって襄平城を囲まれ、長期の兵糧責めにあって公孫淵とその子・修は滅びる。これまで帯方郡は「後漢─魏─燕」と、形式的にはその所属に変遷があったが、実質的は一貫して[[公孫氏 (遼東)|公孫氏]]の領有下にあり、韓や倭といった東夷からの朝貢は公孫氏が受け取っていたと思われる。 ===魏の直轄経営=== 襄平城の攻城戦の最中であろうか、魏は劉昕と鮮于嗣をそれぞれ帯方太守、楽浪太守に任じ、両者を密かに海路で、[[山東半島]]から[[黄海]]を越えて朝鮮半島に派遣。帯方郡と楽浪郡の2郡を掌握させた。帯方郡はこれにより魏の直轄地となる。太守・劉昕は、周辺の東濊・韓族の首長に邑君あるいは邑長の[[印綬]]を賜与し、魏との[[冊封]]関係を改めて結び直した。邪馬台国・卑弥呼も、景初2年([[238年]]。『魏志倭人伝』の記述は誤りで、景初3年が正しいとする説もある)6月に、この新生・帯方郡の地へ、朝貢使の[[難升米]]を派遣したわけである。このとき太守は劉夏であったが、彼は郡の官吏を付けて後漢の都・洛陽まで難升米の一行を送らせた。 [[正始 (魏)|正始]]元年([[240年]])にさらに異動があり、新太守となった[[弓遵]]は、魏の詔書・金印紫綬を配下の梯雋に持たせて[[卑弥呼]]のもとへ送った。ところがこの弓遵は、同6年([[245年]])に嶺東へ遠征して東濊を討った後、それまで帯方郡が所管していた[[辰韓]]八国を楽浪郡へ編入することになり、その決定を現地に伝えた際、通訳が誤訳を犯して臣智激韓を激怒させ<ref>『三国志』魏書東夷伝韓条</ref>郡内の韓族が帯方郡の崎離営を襲った。これを弓遵と楽浪太守の[[劉茂]]が兵を興して討ち、魏軍は韓族を滅亡させたが弓遵は戦死した。 同8年([[247年]])弓遵から引き継いだ太守・[[王頎]]は、倭の使者から[[邪馬台国]]と[[狗奴国]]との交戦の報告を受け、自ら上洛して官の決裁を仰ぐが、魏朝から邪馬台国へ援軍が送られることはなく、魏の[[少帝 (魏)|少帝]]の詔書と黄幢を携えた塞曹掾史(外交官、軍使、軍司令副官など諸説あり)の[[張政]]が派遣されるに留まった。 ここまでの帯方郡の動きは『三国志』からつぶさに知れる。歴代太守の記録を見ると、戦死した弓遵の例を除き、外交官としての非軍事的活動が主であることに気づく。また、その頻繁な人事異動には(8年間で4人の太守)、帯方郡の[[軍閥]]化を防ぎ第2の公孫氏を生まぬようにするための魏の基本方針と推測される ===帯方郡の滅亡=== [[泰始 (晋)|泰始]]元年([[265年]])に魏の重臣であった[[司馬炎]](懿の孫、後の晋の武帝)が魏の[[曹奐]](元帝)から[[禅譲]]を受けて[[晋 (王朝)|晋朝]](西晋)を興すが、その新しい王朝の繁栄も長くは続かず、[[永康 (晋)|永康]]元年([[300年]])身内の[[八王の乱]]ですっかり混迷状態に陥った。この時代、帯方郡に属する県は、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県であった(『晋書地理志』)。 [[建興 (晋)|建興]]元年([[313年]])遼東へ進出した[[高句麗]]が南下して楽浪郡を占領すると、朝鮮半島南半に孤立した帯方郡は晋の手を離れ情報も途絶した。元の帯方郡や楽浪郡南部に残された漢人の政権や都市は、東晋を奉じて5世紀初頭までの存続が確認されているが、5世紀前半には百済によって征服され、5世紀後半に入ると南下した高句麗が百済を駆逐して支配下へ置いた。 ==倭との関係== 帯方郡の滅亡後も地理的概念として帯方の名は残っていたようで、[[広開土王碑文]]によると[[404年]]に倭から[[百済]][[援軍]]の形で北侵し、'''帯方界'''(旧帯方郡の境界?)に進入して高句麗と戦ったが無数の将兵を失ったという<ref>[[池上裕子]]、[[小和田哲男]]、[[小林清治]]、[[池享]]、[[黒川直則]][[編集|編]]『クロニック 日本全史』([[講談社]]、[[1995年]])69頁参照。</ref>。 ==帯方郡治はどこにあったか== 楽浪郡の所在地が、現在の[[平壌]]の郊外、市街地とは[[大同江]]を挟んだ対岸にある楽浪土城(平壌市楽浪区域土城洞)にあったことに異論はない。土塁で囲まれた東西700m、南北600mの遺構に、当時のさまざまな遺物のほか、官印「楽浪太守章」の封泥(封印の跡)までもが出土し、考古学的に明らかにされた状態といえる。これに対して、帯方郡治の比定地については決め手がなく、現代の[[38度線]]を挟んで諸説ある(東潮「古代朝鮮との交易と文物交流」『日本の古代3』1986年)。『魏志倭人伝』では、帯方郡が邪馬台国への旅の出発点であるだけに、かの邪馬台国論争からの関心も厚い(安本美典「魏志倭人伝を読む その3」邪馬台国の会・第232回講演記録)。 ;(a) 黄海北道鳳山郡説 :平壌から南へ50km、[[黄海北道]]鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡治に比定する説(那珂通世、白鳥庫吉、榎一雄、今西竜、井上光貞、井上秀雄、鳥越憲三郎など)。楽浪郡址と同時代の瓦・塼(煉瓦)・銭などが出土しているほか、1912年に付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた[[塼槨墓]]が見つかるなど考古学的な発見は多い。 ;(b) 黄海南道安岳郡説 :平壌の南西60km、安岳郡に比定する説。付近には「元康5年(295)」銘塼のある下雲洞古墳、「太康9年(288年)」銘塼出土の柳雲里北洞があり、楽浪墓制と同じく、漢人の塼槨墓がこの地にも数多く営まれたことを窺わせる。大同江河口の入江を扼する位置にあり、中国[[遼東半島]]、山東半島のどちらにも近いという海上交通の要地でもある。が、当地へ帯方郡を誘致する論拠としてならよいが、これらをもって帯方郡治がここにあったと断ずる根拠は薄かろう。むしろ、(a)説の鳳山郡も含め、安岳郡、信川郡など[[載寧江]]流域の一帯には、他国からの流入者・亡命者などを含めた中国人社会が形成されていたという見解(東潮・前掲書)が、これらの地に塼槨墓が存在する理由を合理的に説明しうるものとして注目される。 ;(c) 京畿道ソウル説 :現在の[[ソウル特別市|ソウル]]に帯方郡治があったとする説(関野貞、小田省吾、白崎昭一郎、坂田隆、江上波夫など)。『[[漢書]]地理志』には、[[前漢]]時代の楽浪郡25県の1つとして帯方県が記され、「帯水、西して帯方に至り海に入る」とある。この「帯水」とはどの川かとなるが、同書には明らかに大同江を指し示す「列水」がある以上、「帯水」を大同江のことと解する余地はない。最有力なのは中部を西流する大河の[[漢江]]であり、その河口部のソウルこそが帯方郡治であったという論法になる。このような文献解釈としての説得性が当説の強みであるが、考古学的には郡治があった痕跡は希薄である。ソウルを中心として風納里土城、夢村土城、石村洞古墳群などの発掘が行なわれたものの、めぼしい発見は未だない。 ;(d) 京畿道広州説 :ソウルの東南40kmの[[広州市|広州]]を帯方郡治に比定する説(岡田英弘、ソウルか広州のどちらかだろう〈前掲書〉)。漢江を河口から遡ると、ソウルを過ぎて北上する[[北漢江]]と南東に向かう[[南漢江]]に分かれる。「帯水、西して帯方に至り海に入る」の「帯水」を(c)説よりも長く捉えて南漢江と解すれば、帯方郡治を広州と考えることも可能である。広州はいまでこそ目立たぬ小村であるが、百済の最初の王都・[[尉礼城]]とはここであった。古代の邑城が、海からはやや離れ、少し河口を遡った小高い地に多く存在することを考えると、むしろソウルよりも相応しい場所といえる。考古学的裏付けが乏しいのは、(c)説同様である。 (a)・(b)両説に共通して、黄海北道や黄海南道では、帯方郡に近すぎて2つに郡を分けた意味が無いという批判がある。また(a)・(b)説では「韓、帯方の南にあり……方四千里ばかり」(『魏志韓伝』)という1辺4,000里の正方形にはならず、縦長の長方形になってしまい記述に合わない。この2つを掲げるソウル説、広州説論者は日本や韓国や中国に多い。さらに、中国の歴代の史書では百済の起源について帯方郡との関係をいう場合が多く、(c)・(d)説では馬韓伯済国(京畿道広州)が帯方郡(京畿道広州)の跡地に存在していたか、近隣の帯方郡(京畿道ソウル)に進出したと解釈されているが、(a)・(b)説では百済の発祥の地と帯方郡が離れすぎて説明が不可能になってしまうという問題がある。 ところで、「公孫康、屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為す」(『魏志韓伝』)とあるように当初は帯方郡に属していた屯有県であるが、『晋書地理誌』の掲げる帯方郡の7県には入っていない。岡田英弘は、帯方郡は黄海南道から京畿道にかけての交易路に沿って、回廊状に7県がならんでいたと推定している。 ==北帯方・南帯方== 『[[三国遺事]]』によると帯方郡には南北の二つがあるという。実際の位置は北帯方が南、南帯方が北になる。南帯方は本来の帯方郡からみて南なので理解できるが、北帯方はどこから見て・なにと比べて「北」というのか不明。『三国遺事』が南北を逆に誤記しているとも考えられる<ref>実際には北帯方にせよ南帯方にせよ前後漢魏晋の時代に存在したことはない。</ref>。 *'''北帯方''' :[[前漢]]が楽浪郡と同時に設置([[紀元前108年]])した郡で、その郡治は今の[[全羅南道]][[羅州市]]にあった。これが正しいとすると漢四郡(楽浪・玄菟・臨屯・真番)は実は漢五郡だったことになる。その後([[紀元前82年]]?)独立国を自称('''帯方国''')していたが、[[37年]]に[[高句麗]]に滅ぼされたという<ref>北帯方とは実は[[百済]]滅亡後に唐が設置した帯方州([[全羅南道]][[羅州市]])と古代の帯方郡を混同したものであって、史実ではない。三品彰英『三国遺事考証』塙書房、1975年</ref>。 *'''南帯方''' :[[魏 (三国)|魏]]([[220年]] - [[265年]])の時代に今の[[全羅北道]][[南原市]]に郡治が置かれたという。これが正しいとすると魏が遼東の公孫氏を滅ぼしその楽浪郡と帯方郡を接収した[[238年]]以降のある時、魏は一時的にせよ帯方郡を大きく南へ移動させたことになる。このような史実は仮にあったとしても瞬間風速的なもので永続的なものではなく、候補として考えられる事件としては、魏が馬韓の反乱を鎮圧した245/[[246年]]の出来事かとも思われる<ref>南帯方とは実は[[1309年]]に設置された[[高麗]]時代の帯方郡([[全羅北道]][[南原市]])と古代の帯方郡とを混同したものであって、史実ではない。三品彰英『三国遺事考証』塙書房、1975年</ref>。 == 脚注 == <div class="references-small"><references/></div> ==参照文献== *池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 日本全史』(講談社、1995年) {{漢朝の行政区分}} {{DEFAULTSORT:たいほうくん}} [[Category:朝鮮の歴史]] [[Category:かつて存在した中国の郡]] [[Category:漢朝の行政区分]] [[Category:魏晋南北朝]]
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