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市川崑
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{{ActorActress| | 芸名 = 市川 崑 | ふりがな = いちかわ こん | 画像ファイル = Kon Ichikawa.jpg | 画像サイズ = 200px | 画像コメント = | 本名 = | 別名 = | 出生地 = {{JPN}}・[[三重県]][[伊勢市]] | 国籍 = | 民族 = | 生年 = 1915 | 生月 = 11 | 生日 = 20 | 没年 = 2008 | 没月 = 2 | 没日 = 13 | 職業 = [[映画監督]]、[[アニメーター]] | ジャンル = | 活動期間 = [[1936年]](昭和11年) - [[2008年]](平成20年) | 活動内容 = 劇映画、テレビ映画等の監督、演出 | 配偶者 = [[和田夏十]](脚本家) | 家族 = | 公式サイト = | 主な作品 = <!--皆が認める代表作品を入力--> | アカデミー賞 = | AFI賞 = | 英国アカデミー賞 = | セザール賞 = | エミー賞 = | ジェミニ賞 = | ゴールデングローブ賞 = 外国語映画賞:『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』(1960年) | ゴールデンラズベリー賞 = | ゴヤ賞 = | グラミー賞 = | ブルーリボン賞 = '''監督賞'''<br />[[1959年]]『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』、『[[野火 (小説)|野火]]』<br />[[1960年]]『[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]』<br />[[1962年]]『[[私は二歳]]』、『[[破戒 (小説)|破戒]]』<br />'''特別賞'''<br />[[2008年]] | ローレンス・オリヴィエ賞 = | 全米映画俳優組合賞 = | トニー賞 = | 日本アカデミー賞 = '''優秀監督賞'''<br />[[1978年]]『[[悪魔の手毬唄]]』、『[[獄門島]]』 | その他の賞 = '''[[毎日映画コンクール]]'''<br />'''監督賞'''<br />1960年『[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]』、『[[女経|女経 (第2話)]]』<br />'''監督特別賞'''<br />[[1965年]]『[[前東京オリンピック#記録映画|東京オリンピック]]』<br />'''[[エディンバラ国際映画祭]]'''<br />グランプリ:『[[ビルマの竪琴]]』(1956年)<br />'''[[ロカルノ国際映画祭]]'''<br />グランプリ:『[[野火 (小説)|野火]]』(1959年)<br />'''アジア映画祭'''<br />監督賞:『[[私は二歳]]』(1962年)<br />'''アジア太平洋映画祭'''<br />グランプリ・監督賞:『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』(1983年) | 備考 = }} '''市川 崑'''(いちかわ こん、幼名:市川 儀一、[[1915年]](大正4年)[[11月20日]] - [[2008年]](平成20年)[[2月13日]])は[[日本]]の[[アニメーター]]、[[映画監督]]。 娯楽映画から実験的映画、更にはテレビ[[時代劇]]ドラマまでを幅広く手がけ、昭和の[[日本映画]]黄金期から21世紀初頭まで、第一線で映画制作に取り組んだ。代表作に『[[ビルマの竪琴]]』『[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]』『[[野火 (小説)|野火]]』『[[前東京オリンピック#記録映画|東京オリンピック]]』『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』など。 == 来歴 == === 戦前 === [[1915年]](大正4年)、[[三重県]][[宇治山田市]](現・[[伊勢市]])生まれ。呉服問屋の生まれであったが、父が急死し4歳から伯母の住む[[大阪市]][[西区 (大阪市)|西区]]九条に移り、その後脊椎カリエスで[[長野県]]に転地療養。その後広島市に住む。 出生名は市川儀一という名前で、成人してから市川崑に[[改名]]した。改名の理由は、市川自身が[[漫画家]]の[[清水崑]]のファンであったからとも、姓名判断にこっていた伯父の勧めからとも言われている。 17歳のときに信州での初恋の女性をモデルに書いた「江戸屋のお染ちゃん」を週刊朝日に投稿し当選する。 当初は画家に憧れていたが、当時は財産がないと難しかったのであきらめる。[[1932年]]に公開された[[伊丹万作]]監督の『[[國士無双]]』を見て、感動し志望を映画界に変更。少年時代に見た[[ウォルト・ディズニー]]のアニメーション映画にあこがれ、親戚の伝手で京都の[[J.O.スタヂオ]](のち[[東宝]]京都撮影所)のトーキー漫画部に入り、[[アニメーター]]を務める。アニメの下絵描きからスタートする。そして『[[ミッキー・マウス]]』や『[[シリー・シンフォニー]]』などのフィルムを借りて一コマ一コマを克明に分析研究し、映画の本質を学んだ。召集令状は2度きたが、脊椎カリエス、腹膜炎でともに免除となった。 [[1936年]](昭和11年)には脚本・作画・撮影・編集をすべて一人でおこなった6分の短編アニメ映画『新説カチカチ山』を発表。漫画部の閉鎖とともに会社合併により実写映画の助監督に転じ、[[伊丹万作]]、[[阿部豊]]らに師事。京都撮影所の閉鎖にともなって東京撮影所に転勤する。この東宝砧撮影所は、以後、短い[[新東宝]]時代、10年程度の[[日活]]・[[大映]]時代を除き、没後の「お別れの会」に至るまで終世のホームグラウンドとなった。 1970年代以降の東宝は自社制作が極端に少なくなったが、そのうちのかなりの本数を市川に委ねており、絶対の信頼関係があった。東宝および直系子会社が主に出資した作品を東宝映画とみなした場合、製作分離した1970年代以降で16本を市川が監督。現在までのところ10本以上撮っている監督は他にいない。これ以外に他社主導出資や製作委員会方式で東宝撮影所使用の作品が多数ある。 === 戦後 === 広島にいた母を含む家族8人全員が1945年8月6日被爆したが全員無事であった。[[1945年]](昭和20年)には[[人形劇]]『娘道成寺』を制作したがお蔵入りした。終戦を29歳で迎え、その時には実写の助監督に戻っていた。その後市川は実写映画に活動の場を移し、1948年の『[[花ひらく]]』で監督デビュー。市川はアニメーションから実写映画に転身して成功を収めた数少ない映画人である。 東宝東京撮影所から[[東宝争議]]のなかで新東宝撮影所に転じ[[1951年]](昭和26年)、[[藤本真澄]]に誘われ東宝に復帰した<ref>『時代の証言者①日本を描く―平山郁夫&市川崑』[[読売新聞社]]、2005年、p48</ref>。この時期は『[[プーサン]]』や『億万長者』などの異色風刺喜劇や早口演出の『結婚行進曲』、大胆な映像処理の『盗まれた恋』などの実験的な作品で話題を呼んだが、『三百六十五夜』のようなオーソドックスなメロドラマの大ヒット作品も撮っている。 [[1955年]](昭和30年)にはその前年映画制作を再開したばかりの日活に移籍。『[[ビルマの竪琴]]』で一躍名監督の仲間入りを果たし、さらに大映に移籍。映画会社を転々とする中で[[文芸]]映画を中心に『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』、『[[野火 (小説)|野火]]』、『[[炎上 (映画)|炎上]]』、『[[破戒 (小説)|破戒]]』、『[[黒い十人の女]]』、『[[日本橋 (戯曲)|日本橋]]』、『[[ぼんち (小説)|ぼんち]]』、『[[私は二歳]]』、『[[雪之丞変化]]』など名作を毎年のように発表して地位を確立した。とりわけ[[1960年]](昭和35年)の『[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]』は大正時代を舞台にした姉弟の愛を[[宮川一夫]]のカメラで美しく表現、自身初の[[キネマ旬報]]ベストワンに輝く作品となった。 また[[石原裕次郎]]主演で『[[太平洋ひとりぼっち]]』([[1962年]](昭和37年))を撮るなど、意欲的な映像活動に取り組んでいたのもこの時期のことである。 === 東京オリンピック論争 === [[1965年]](昭和40年)には総監督として製作した『[[前東京オリンピック#記録映画|東京オリンピック]]』が、当時の興行記録を塗り替えた一大センセーションを起す。市川はオリンピックは筋書きのない壮大なドラマに他ならないとして、開会式から閉会式に至るまでの緻密な脚本を[[和田夏十]]・[[谷川俊太郎]]・[[白坂依志夫]]とともに書き上げ、これをもとにこのドキュメンタリー映画を撮りあげた。 しかも冒頭に競技施設建設のため旧来の姿を失ってゆく東京の様子を持ってきたり、一つのシーンを数多くのカメラでさまざまなアングルから撮影したり、望遠鏡のような2000ミリ望遠レンズを使って選手の胸の鼓動や額ににじむ汗を捉えたり、競技者とともに観戦者を、勝者とともに敗者を、歓喜とともに絶望を描いたりするなど、従来の「記録映画」とは全く性質の異なる極めて芸術性の高い作品に仕上げた。 だが、完成前の試写を見たオリンピック担当大臣の[[河野一郎]]が「記録性に欠ける」と批判したことから<ref>河野はその後[[高峰秀子]]の依頼を受けて崑と面談し、最終的に映画を容認した。詳細は『東京オリンピック』の項目を参照。</ref><ref>後に崑は『[[朝日新聞]]』とのインタビューで「要するに河野さんは、馬とかマラソンにうんちくのある方だったんですが、その辺の競技を映画で見たかったのにそれが十分入っていないのが気に食わなかった。作品を全面否定されたわけでも何でもないんです。今から言えば笑い話ですがね」と当時を振り返っている([[1985年]](昭和60年)[[8月27日]]付朝刊)。</ref>、「『東京オリンピック』は記録映画か芸術作品か」という大論争を呼び起こすことになった<ref>『東京オリンピック』はその芸術性が高く評価されて、同年度の[[カンヌ国際映画祭]]でドキュメンタリー作品としては異例の国際批評家賞を受賞している。また同作は映画館以外にも日本各地の学校や公民館などで上映会が開かれたことから、その観客動員数では事実上日本映画史上最多であるといわれている。</ref>。この作品を最後に妻は脚本の筆を置いた後、乳癌を発病した。後に「細雪」の最後のシーンの脚本が遺作となった。 === テレビ映像への挑戦 === テレビ放送の開始で、映画が全盛期から斜陽期へと向かう時代が忍び寄る中、映画関係者の中にはテレビに敵対意識を持ったり、蔑視する者が少なくなかった。そんな中、市川はテレビを新メディアとしての可能性に注目し、映画監督としてはいち早く[[1959年]]よりこの分野に積極的に進出。フィルム撮りのテレビ映画や[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル・フィルム]]に始まり、生放送ドラマ、ビデオ撮りのドラマから実験期の[[ハイビジョン]]カメラを使ったドラマまでを手掛け、テレビ史においても先駆的な役割を果たした。 1965年から1966年にかけて放送された『[[源氏物語]]』([[MBSテレビ|毎日放送]])では、美術や衣装を白と黒に統一するなど独特の演出を手がけ、演出指導を務めた「夕顔の巻」では[[エミー賞#国際エミー賞|国際エミー賞]]にノミネートされた。テレビコマーシャルでは、[[大原麗子]]を起用した[[サントリー]]レッド([[ウイスキー]])がシリーズ化され、長年に渡って放映された。 [[1972年]]に監督・監修を手がけた連続テレビ時代劇『市川崑劇場・[[木枯し紋次郎]]シリーズ』([[フジテレビジョン|フジテレビ]])は、市川自身による斬新な演出と迫真性の高い映像から今日では伝説的な作品となっており、その後のテレビ時代劇に大きな影響を与えたと言われている。 また、全民間テレビ放送局で同時放送された『[[ゆく年くる年]]』の[[1979年]](昭和54年) - [[1980年]](昭和55年)([[テレビ東京|東京12チャンネル]]制作)で総監督も務めている。 === 昭和後期から平成へ === [[1969年]](昭和44年)には[[黒澤明]]、[[木下惠介]]、[[小林正樹]]と4人で「[[四騎の会 (映画監督)|四騎の会]]」を結成し、『どら平太』の脚本を共同で執筆、当初は4人共同監督で映画化と発表されたが市川の撮影シーンをどの部分にするかでもめて中止。後年、3人が亡くなったのちに自身で監督している。この前後の約10年ほどは作品活動も沈滞気味で、1973年の『股旅』が高評価を得たりTVの『木枯らし紋次郎』がヒットしたりを例外として、スランプや衰弱が囁かれたこともあった。 [[1970年代]]に入り、[[横溝正史]]の「[[金田一耕助]]シリーズ」を手掛けたことで市川の快進撃が再開された。絢爛豪華な映像美と快テンポの語り口で全作が大ヒットとなった。これを機に横溝正史ブームが始まる。さらに『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』、『おはん』、『[[鹿鳴館 (戯曲)|鹿鳴館]]』などの文芸大作、海外ミステリーを翻案した『[[幸福 (1981年の映画)|幸福]]』、時代劇『[[忠臣蔵 四十七人の刺客|四十七人の刺客]]』、『[[どら平太]]』、『かあちゃん』など、多彩な領域で成果を収める。 [[2003年]](平成15年)には[[東京国立近代美術館#フィルムセンター|フィルムセンター]]にて初期作品も含めた65本を上映する大特集が組まれ、前後して初期・中期の作品が相次いで[[DVD]]化されるなど、前半生の作品の再評価も進んでいった。 90歳を超えても現役で活躍したという点では[[新藤兼人]]に次ぐ長老監督に位置し、日本映画界においては受賞歴と興行実績をあわせたキャリアにおいて比肩する者のない存在となったが、[[2006年]](平成18年)には30年前に監督した『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』をセルフリメイクするなど、老いてなおその実験精神は衰えなかった。 [[2008年]](平成20年)2月13日午前1時55分、[[肺炎]]のため東京都内の病院で死去。{{没年齢|1915|11|20|2008|2|13}}。 [[2008年]](平成20年)[[3月11日]]、[[日本政府]]は[[閣議]]に於いて市川に対し、彼の長年の映画界への貢献及び日本文化の発展に尽くした功績を評価し、逝去した[[2008年]](平成20年)2月13日に遡って[[正四位]]に叙すると共に、[[旭日重光章]]を授与することを決定した。 [[2008年]](平成20年)[[3月30日]]、お別れの会が成城の東宝撮影所第9ステージで開かれ、映画関係者や俳優ら850人が参列した。[[石坂浩二]]、[[岸惠子]]、[[吉永小百合]]、[[山田洋次]]ら18人が発起人となり、石坂・岸が弔辞を読んだ。その他、[[松岡功]]、[[高井英幸]]、[[角川春樹]]、[[角川歴彦]]、[[日枝久]]、[[黒鉄ヒロシ]]、[[篠田正浩]]、[[三谷幸喜]]、[[谷川俊太郎]]、[[西岡善信]]、[[原正人]]、[[和田誠]]、[[野上照代]]、[[浅丘ルリ子]]、[[佐久間良子]]、[[富司純子]]、[[島田陽子]]、[[浅野ゆう子]]、[[鈴木京香]]、[[松嶋菜々子]]、[[野田秀樹]]、[[岩城滉一]]、[[長塚京三]]、[[草笛光子]]、[[中村メイコ]]、[[藤村志保]]、[[萬田久子]]、[[中井貴惠]]、[[風吹ジュン]]、[[岸部一徳]]、[[うじきつよし]]、[[石橋蓮司]]、[[横山通乃]]、[[三条美紀]]、[[佐々木すみ江]]、[[岡本信人]]、[[渡辺篤史]]、[[尾藤イサオ]]、[[石倉三郎]]、[[清水紘治]]、[[辻萬長]]、[[三谷昇]]、[[大滝秀治]]、[[神山繁]]、[[加藤武]]、[[林隆三]]、[[杉葉子]]、[[中村敦夫]]、[[役所広司]]、[[あおい輝彦]]、[[中井貴一]]、[[豊川悦司]]、[[司葉子]]らが参列した。 なお、60年の監督生活を長期間特定の会社に専属することなく過ごし、なおかつ低落し続ける日本映画界でほとんどブランクなく撮り続けた実績は驚異的であるが、これだけ各社を飛び回りながら、大手映画会社では[[松竹]]とだけ縁がなかった([[東映]]では東横映画時代に1本撮っている)。1980年代に[[半村良]]の「妖星伝」映画化が同社製作で発表され、そのほか[[池波正太郎]]作品映画化(池波が市川を高く評価していた)やシネマジャパネスクでも名前があがったが、いずれも実現しなかった。 また、市川は1970年代から1980年代にかけて、6本の東宝映画をプロデューサー兼任で監督している。日本映画史上、いかなる巨匠といえども、自ら出資することなく大手の映画に兼任プロデューサーで迎えられ続けた例は後にも先にも例がなく(あっても1本限りの特例である)、特にプロデューサーシステムの厳しさで有名な東宝でこの待遇を得たことは、彼の築いた地位の未踏ぶりを示している。 == 作風 == === ジャンルと演出 === 市川の作品には、「文芸作品」「[[時代劇]]」「[[アニメーション]]」「[[ドキュメンタリー]]」「[[コメディ]]」「[[メロドラマ]]」「[[ミステリー]]」など、非常に多くの分野が含まれ、どの分野でも野心的な作品を撮った。 大作『東京オリンピック』の後に人形劇『[[トッポ・ジージョのボタン戦争]]』を手がけたり、[[横溝正史]]のおどろおどろしい『[[獄門島 (1977年の映画)|獄門島]]』と『[[女王蜂 (1978年の映画)|女王蜂]]』との間に[[アニメ]]合成を駆使した漫画の神様である[[手塚治虫]]の原作を映画化した、ファンタジー映画『[[火の鳥 (漫画)|火の鳥]]』を製作するなどその活動の幅は広く、作風は多彩である。これら、その美的センスを活かした映像美と独特の鋭いカット繋ぎは'''コン・タッチ'''と呼ばれ、今なお熱狂的ファンを持つに至る。 キャスト・スタッフのクレジットにおいて、「画面に沿って直角に曲げて表記する」という独特の表記法が有名で、『[[新世紀エヴァンゲリオン]]』(こちらはサブタイトル並びにオープニングクレジットでの監督・[[庵野秀明]]の表記)ではオマージュが見られた。 晩年では[[黒鉄ヒロシ]]のマンガによる紙人形で全編を撮影した『新選組』がファンの度肝を抜いた。また、30年ぶりにセルフリメイクした『[[犬神家の一族 (2006年の映画)|犬神家の一族]]』では、まったく同じ脚本を用い同じ主演俳優を起用してみたりもした。カット割や構図も前作を踏襲したものが多いが、前作では飄然と汽車に向かう金田一が今回は画面に向かってお辞儀するラストとなっている。 === 脚本 === 脚本はすべて同志でもあった和田に委せることが多かったが、和田の病気引退後は大部分の作品に自らが執筆参加している。ミステリ映画脚本の際に用いられるペンネーム「'''[[久里子亭]]'''」(くりすてい、[[アガサ・クリスティー]]のもじり)は当初は和田と市川の、後年は[[日高真也]]と市川の共同名義である。「日本文学全集」(石上三登志)と揶揄気味に評されるほど純文学の映画化が多い市川だが、このネーミングに示されるようにミステリーへの造詣も非常に深い。『犬神家の一族』では脚本第一稿からオカルト色を排除して謎解きドラマを押し出し、同時期の『[[八つ墓村 (1977年の映画)|八つ墓村]]』([[1977年]](昭和52年)、松竹、監督:[[野村芳太郎]])と好対照を成した。その他の[[金田一耕助]]シリーズでも、派手なスプラッタ場面などを織り込みつつも、毎回同じキャラクターなのに違う役名で現れる[[加藤武]]演ずる警部には、当初金田一を邪魔者扱いしながらも後半には微かな友情が芽生えるが、毎回リセットされてしまう(次作ではまた初対面)など、日本人好みのホームドラマ趣味を逆手にとった知的な遊びの要素が際立っていた。 脚本を完全単独執筆することは殆ど無かった。『女王蜂』の脚本を共同執筆した[[桂千穂]]は、市川から突然「海辺を疾駆する白い馬の絵が撮りたい」と言われ、それはストーリーとどう結びつくのかと尋ねたところ、そこを君が考えてくださいと返されたエピソードを賛嘆を込めて記している。インタビュー等でも作品論を理論づけたりすることは得意ではなく、来日した評論家あがりの[[フランソワ・トリュフォー]]を苛々させたこともあった。和田夏十、谷川俊太郎、日高真也、[[長谷部慶治]]らがブレーンとして支えたとはいえ、極度に感覚的で、批評家泣かせであったといえる。 === キャスティングとスタッフ === 『犬神家の一族』以降、[[石坂浩二]]は多くの作品で重用。石坂とは年少の友人として公私にわたるつき合いだった。また、[[岸恵子]]は期間、本数、役柄の多彩さ、いずれも抜群で同志的とも言える結びつきがあり、『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』では当初予定していた[[山本富士子]]が舞台と重なった代わりにオファーを受けている。岸は後年の市川への弔辞では、この際に直接国際電話を受けて代役であることも告げられ「仕方ないからあんたに」「ミスキャストもいいところ」と言われながらも即答で引き受けたエピソードを語り、強い信頼関係をうかがわせた。多くの大映作品で主演した[[船越英二]]と、50年にわたって要所要所で招かれた[[仲代達矢]]らも重要なパートナーである。脇役では、[[岸田今日子]]は大映時代より長きにわたり起用。他に、[[浜村純]]、[[北林谷栄]]、加藤武、[[岸部一徳]]らを上手く用いた。[[尾藤イサオ]]、[[石倉三郎]]などは市川に名バイプレイヤーとしての素質を発掘されている。 長期間現役を貫いたこともあり、親子二代・三代にわたって仕事を共にした人々も少なくない。師匠にあたる伊丹万作の息子・[[伊丹十三]]は常連出演者となり影響を強く受けつつ監督デビュー、さらにその子・[[池内万作]]もリメイク版『犬神家の一族』に出演した。その他には作曲家の[[山本直純]]と[[山本純ノ介]]、脚本家の[[八住利雄]]と白坂依志夫らが親子、詩人で多くの脚本を書いた谷川俊太郎、その子で晩年作品のほとんどで音楽監督をつとめたジャズピアニストの[[谷川賢作]]らでスタッフとなっている。 == 影響 == 市川の独特の映像表現は、後輩の[[映画監督]]に多大な影響を与えている。 * 「岩井美学」とまで呼ばれる映像手法を確立した[[岩井俊二]]が崇拝、[[1976年]](昭和51年)の『犬神家の一族』を「自分の映画作りの教科書」と呼んでいる。[[2006年]](平成18年)には『[[市川崑物語]]』を製作した。 * [[伊丹十三]]は『お葬式』製作発表の記者会見で「師匠は市川崑さんです」と明言している。その後も、完成したシナリオは、必ず市川のもとに届けられたという。 * [[三島由紀夫]]は、市川と和田夏十との共著『成城町271番地』の序文で「日本映画の一観客として、どの監督の作品をいちばん多く見ているか、と訊かれたら、私は躊躇なく市川崑氏の作品と答える。」と寄稿している。 * [[久世光彦]]は、「日本映画は市川作品だけを観ていればよい。『おとうと』には映画のすべて、芝居のすべてがある」と発言している。 * 北野武(=[[ビートたけし]])は、市川の『東京オリンピック』に強い影響を受けたと語っている。また、いまだにフィルムで編集する理由に「フィルムを光にかざしてフィルムを焦がすのがかっこよかった」と語っている。 * [[ソウル・バス]]は、「グラン・プリ」のタイトル・バックに『東京オリンピック』の影響があると語っている。 * フランソワ・トリュフォーら外国の監督にも市川の崇拝者は多い。 * いわゆる「市川組」出身の映画監督には、東宝の[[古沢憲吾]]・[[橋本幸治]]・[[手塚昌明]]、日活の[[舛田利雄]]・[[江崎実生]]、大映の[[増村保造]]・[[田中徳三]]・[[池広一夫]]らがいる。 なお[[和田誠]]・[[森遊机]]編の『光と嘘 真実と影 市川崑監督作品を語る』([[河出書房]]新社、[[2001年]](平成13年))では[[塚本晋也]]、[[井上ひさし]]、[[小西康陽]]、[[橋本治]]、[[椎名誠]]、[[宮部みゆき]]など各界の市川ファンが賛辞を寄せている。[[浦崎浩實]]は没後の「[[キネマ旬報]]」に「多様な様式を一人でカバーした“超”のつく巨匠だった」との一文を寄せた。小説家・[[安達瑶]]の片方である安達Oが熱烈な信奉者で、日本大学芸術学部映画学科卒業後に助監督を務めた。 日本映画の巨匠としてはヒット作や大衆的人気にめぐまれたが、錚々たる授賞歴の一方で、[[キネマ旬報社]]の叢書「世界の映画作家」では最後まで採り上げられなかった。初期には東宝争議のしこりが原因で左翼系の批評家から目の敵にされ、後期には巨匠らしからぬ変幻自在な作風や、テレビや娯楽映画も厭わずにこなす姿勢への批評家側の戸惑いがあった。「ビルマの竪琴」「幸福」や50年代の風刺喜劇に若干の例外的要素は見られるものの、この年代の巨匠としては社会的テーマを前面に打ち出した作品がほとんど存在しないのも稀有である。[[蓮實重彦]]、[[山根貞男]]らが全く認めようとしなかった。 == 人物 == 温和な性格。演出に際して声を荒げたりすることはなかったと、指導を受けた多くの俳優陣は述懐する。直截に政治的な発言をすることもあまりなかった。こうした温厚な性格は、長年出演を重ねる常連俳優の多さに現れているが、一方でまったくソリの合わなかった一人に『股旅』の主演者・萩原健一がいる。聞き書き形式の近著 『日本映画[監督・俳優]論』では、既に40年近くが経過しているにもかかわらず、遠まわしな批判から始めて話しているうちに怒りが高まり「大嫌い、市川崑」と呼び捨てで結ぶという激昂ぶりを示している。 映画関係者は、市川に教えを乞いに行くことを「[[南平台]]」といっていた。 名実共に映画界のヒットメーカーであり重鎮でもあったが、そんな彼を「おい、崑」と呼び捨てに出来たのが、助監督時代から知る[[黒澤明]]だけだったという。 「肉しか食べない」という逸話が流布されるような偏食家。[[2008年]](平成20年)[[5月30日]]に放送された『[[スタジオパークからこんにちは]]』([[日本放送協会|NHK]])に出演した石坂浩二の話によると、ある日油分が多い[[牛丼]]を食べている市川を見て石坂が注意したところ「こんな年になってそう食生活なんて変えられないよ」と笑っていたという。 大変な[[喫煙|ヘビースモーカー]]として有名。[[チェリー (たばこ)|チェリー]]と[[キャメル (たばこ)|キャメル]]のどちらかを、一日に100本は欠かさずに吸っており、手を使わずに喫煙できるように、抜歯した歯の隙間に挟んで喫煙していた事でも知られ、撮影中はもちろんインタビューを受ける時もくわえたばこがトレードマークだった。[[文化功労者]]に選出された[[1994年]](平成6年)には『[[NHK紅白歌合戦]]』に審査員として出演したが、司会の[[古舘伊知郎]]から「場内は禁煙でございますので」と忠告され頭をかいていた。 編集する際もたばこを咥えていたため、フィルムをライトに透かした際にフィルムを焦がすこともあったという。 実母が広島の[[原爆ドーム]]そばで[[広島市への原子爆弾投下|被爆]]しながら90歳を越える大往生をし、また実姉も100歳を越えるまで生きたことで、「[[ニコチン]]くらいたいしたものではない」と公言していたが、晩年には、健康に気を使うようになり始めたことに加え[[吉永小百合]]のアドバイスもあり、亡くなる5~6年前からは禁煙していたという<ref>[[東京スポーツ]]・2008年2月15日付 19面</ref>。 幼少期から母・姉たち共に親戚間を渡り歩いて育ったため、[[石坂浩二]]は「市川監督は[[広島弁]]と[[京都弁]]と[[和歌山弁]]混じりの言葉だった」と話している<ref>『市川崑大全』[[映画秘宝]]編集部編、2008年、p20、38</ref>。 == 和田夏十 == {{Main|和田夏十}} 妻は[[脚本家]]の[[和田夏十]]。東宝撮影所で知り合い、[[1948年]](昭和23年)に結婚した。和田は40年近くにわたって市川の生活を支えるかたわら、生涯でほとんどの市川作品の脚本を手がけるという、文字通り公私における市川のパートナーだった。そもそも「和田夏十」<small>(わだなっと)</small>という名は東宝撮影所時代に2人が共同執筆するための[[ペンネーム]]として使っていたもので、[[1951年]](昭和26年)の『[[恋人 (1951年の映画)|恋人]]』で「脚本の才能ではとても妻に及ばない」と市川がこれを妻に譲り、以後彼女専用のペンネームになったという経緯がある。 == 受賞 == === 映画賞 === * [[1956年]](昭和31年) 『'''ビルマの竪琴'''』で :* [[エディンバラ国際映画祭]]グランプリ :* [[ヴェネツィア国際映画祭]]サン・ジョルジョ賞 :* [[アカデミー賞]]外国語映画賞ノミネート :* リスボン国際映画祭審査員特別賞 * [[1959年]](昭和34年) 『'''野火'''』で :* [[ロカルノ国際映画祭]]グランプリ :* バンクーバー国際映画祭カナダ映画協会賞 * [[1960年]](昭和35年) 『'''鍵'''』で :* [[カンヌ国際映画祭]]審査員賞 :* [[ゴールデングローブ賞]]外国語映画賞 * [[1961年]](昭和36年) 『'''おとうと'''』で :* カンヌ国際映画祭フランス映画高等技術委員会賞スペシャルメンション * [[1962年]](昭和37年) 『'''私は二歳'''』で :* アジア映画祭監督賞 * [[1965年]](昭和40年) 『'''東京オリンピック'''』で :* カンヌ国際映画祭青少年向映画賞 :* UNICRIT賞 :* [[英国アカデミー賞]]長編記録映画賞 :* 国連平和賞 :* [[モスクワ国際映画祭]]スポーツ連盟賞 * [[1983年]](昭和58年) 『'''細雪'''』で :* アジア太平洋映画祭グランプリ :* 同・監督賞 * [[1984年]](昭和59年) 『'''おはん'''』で :* アジア太平洋映画祭審査員特別賞 * [[1994年]](平成6年) 『'''四十七人の刺客'''』で :* [[東京国際映画祭]]審査員特別賞 * [[2000年]](平成12年) [[ベルリン国際映画祭]]特別功労賞 * [[2001年]](平成13年) [[モントリオール世界映画祭]]功労賞、第19回[[川喜多賞]] * [[2007年]](平成19年) 東京国際映画祭黒澤明賞 === 叙位・叙勲 === * [[1982年]](昭和57年) - [[紫綬褒章]] * [[1988年]](昭和63年) - [[勲等|勲四等]]/[[旭日小綬章]] * [[1994年]](平成6年) - [[文部科学省|文部省]][[文化功労者]]選出 * [[2008年]](平成20年) - [[正四位]]/[[旭日重光章]] == 監督作品 == === 映画 === * 『[[弱虫珍選組]]』(1935年)<ref>{{cite web|url=http://www.asahi.com/articles/DA3S11099149.html|title=市川崑監督の幻アニメ発見 「弱虫珍選組」 米にフィルム|work=朝日新聞デジタル|date=2014年4月23日|accessdate=2014年4月23日}}</ref> * 『[[新説カチカチ山 (映画)|新説カチカチ山]]』(1936年完成=公開年月日不詳、J・Oトーキー漫画部育映画 *短編アニメーション)※演出ほか * 『[[娘道成寺 (映画)|娘道成寺]]』(1945年=未公開、東宝教育映画 *短編人形劇映画)※演出 * 『[[東宝千一夜]]』(1947年、[[新東宝]])※構成 *以下が実質的な監督昇進後作品 * 『[[-「眞知子」より- 花ひらく]]』(1948年、新東宝) * 『[[三百六十五夜|三百六十五夜 東京篇・大阪篇]]』(1948年、新東宝) * 『[[人間模様]]』(1949年、新東宝) * 『[[果てしなき情熱]]』(1949年、新世紀プロ=新東宝) * 『[[銀座三四郎]]』(1950年、新東宝=青柳プロ)※再公開・短縮版では「銀座の猛者」と改題 * 『[[熱泥地]]』(1950年、新東宝))※再公開・短縮版では「現金と美女と三悪人」と改題 * 『[[暁の追跡]]』(1950年、田中プロ=新東宝)※再公開・短縮版では「警察官と暴力団」と改題 * 『[[夜来香 (映画)|夜来香]]』(1951年、新東宝=昭映プロ) * 『[[恋人 (1951年の映画)|恋人]]』(1951年、新東宝=昭映プロ) * 『[[無国籍者 (映画)|無国籍者]]』(1951年、昭映プロ=東横映画) * 『[[盗まれた恋]]』(1951年、新東宝=青柳プロ) * 『[[ブンガワンソロ]]』(1951年、新東宝) * 『[[結婚行進曲 (映画)|結婚行進曲]]』(1951年、[[東宝]]) * 『[[ラッキーさん]]』(1952年、東宝) * 『[[若い人]]』(1952年、東宝) * 『[[足にさわった女]]』(1952年、東宝) * 『[[あの手この手]]』(1952年、[[大映|大映京都]]) * 『[[プーサン]]』(1953年、東宝) * 『[[青色革命]]』(1953年、東宝) * 『[[天晴れ一番手柄 青春銭形平次]]』(1953年、東宝) * 『[[愛人 (映画)|愛人]]』(1953年、東宝) * 『[[わたしの凡てを]]』(1954年、東宝) * 『[[億万長者 (映画)|億万長者]]』(1954年、青年俳優クラブ) * 『[[女性に関する十二章 (映画)|女性に関する十二章]]』(1954年、東宝) * 『[[青春怪談]]』(1955年、日活) * 『[[こころ(1955年の映画)|こころ]]』(1955年、日活) * 『[[ビルマの竪琴|ビルマの竪琴 第一部]]』(1956年、日活) * 『[[ビルマの竪琴|ビルマの竪琴 第二部]]』(1956年、日活)※現存するフィルムは監督自身によって編集された「総集編」 * 『[[処刑の部屋]]』(1956年、大映東京) * 『[[日本橋 (戯曲)|日本橋]]』(1956年、大映東京) * 『[[満員電車]]』(1957年、大映東京) * 『[[東北の神武たち]]』(1957年、東宝) * 『[[穴 (映画)|穴]]』(1957年、大映東京) * 『[[炎上 (映画)|炎上]]』(1958年、[[大映|大映京都]]) * 『[[あなたと私の合言葉・さようなら、今日は]]』(1959年、大映東京) * 『[[鍵 (1959年の映画)|鍵]]』(1959年、大映東京)※内容の妖艶さから国会でも物議をかもした * 『[[野火 (小説)|野火]]』(1959年、大映東京) * 『[[女経]]』(1960年、大映東京)※オムニバス作品。第2話「物を高く売りつける女」の監督を担当。 * 『[[ぼんち (小説)|ぼんち]]』(1960年、大映京都) * 『[[おとうと (1960年の映画)|おとうと]]』(1960年、大映東京) * 『[[黒い十人の女]]』(1961年、大映東京) * 『[[破戒 (小説)|破戒]]』(1962年、大映京都) * 『[[私は二歳]]』(1962年、大映東京) * 『[[雪之丞変化]]』(1963年、大映京都) * 『[[太平洋ひとりぼっち]]』(1963年、日活・[[石原プロモーション|石原プロ]]) * 『[[ど根性物語 銭の踊り]]』(1964年、大映東京) * 『[[前東京オリンピック#記録映画|東京オリンピック]]』(1965年、東京オリンピック映画協会)※総監督 * 『[[トッポ・ジージョ#映画|トッポ・ジージョのボタン戦争]]』(1967年、[[東宝東和]]) * 『[[第50回全国高校野球選手権大会 青春]]』(1968年、[[朝日新聞]]=[[朝日テレビ|朝日テレビニュース]])※総監督 * 『[[愛ふたたび]]』(1971年、東宝) * 『[[時よとまれ、君は美しい/ミュンヘンの17日]]』(1973年、デビッド・ウォルパー・プロダクション)※男子100Mを担当 * 『[[股旅]]』(1973年、崑プロ=[[日本アート・シアター・ギルド|ATG]])脚本:市川崑・[[谷川俊太郎]] * 『[[吾輩は猫である (映画)#1975年版|吾輩は猫である]]』(1975年、芸苑社) * 『[[妻と女の間]]』(1976年、東宝=芸苑社)※[[豊田四郎]]と共同監督 * 『[[犬神家の一族 (1976年の映画)|犬神家の一族]]』(1976年、[[角川映画|角川春樹事務所]]) * 『[[悪魔の手毬唄 (1977年の映画)|悪魔の手毬唄]]』(1977年、東宝) * 『[[獄門島 (1977年の映画)|獄門島]]』(1977年、東宝) * 『[[火の鳥 (漫画)#映画(実写版)|火の鳥]]』(1978年、火の鳥プロ=東宝) * 『[[女王蜂 (1978年の映画)|女王蜂]]』(1978年、東宝) * 『[[病院坂の首縊りの家 (1979年の映画)|病院坂の首縊りの家]]』(1979年、東宝) * 『[[銀河鉄道999 (アニメ)# 銀河鉄道999 (The Galaxy Express 999)|銀河鉄道999 (The Galaxy Express 999)]]』(1979年、東映)※監修 * 『[[古都 (1980年の映画)|古都]]』(1980年、東宝=[[ホリプロ|ホリ企画]]) * 『[[幸福 (1981年の映画)|幸福]]』(1981年、フォーライフ=東宝) * 『[[細雪 (1983年の映画)|細雪]]』(1983年、東宝) * 『[[おはん]]』(1984年、東宝) * 『[[ビルマの竪琴]]』(1985年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]=[[博報堂]]=キネマ東京) * 『[[鹿鳴館 (戯曲)#映画|鹿鳴館]]』(1986年、MARUGEN-FILM) * 『[[映画女優 (1987年の映画)|映画女優]]』(1987年、東宝) * 『[[竹取物語 (1987年の映画)|竹取物語]]』(1987年、東宝=フジテレビ) * 『[[つる -鶴-]]』(1988年、東宝) * 『[[天河伝説殺人事件 (映画)|天河伝説殺人事件]]』(1991年、東映=『天河伝説殺人事件』製作委員会) * 『[[帰って来た木枯し紋次郎]]』(1993年、フジテレビ=[[C.A.L]]) * 『[[忠臣蔵 四十七人の刺客|四十七人の刺客]]』(1994年、東宝)※「忠臣蔵 四十七人の刺客」という表記は誤り。 * 『[[八つ墓村 (1996年の映画)|八つ墓村]]』(1996年、東宝) * 『[[どら平太]]』(2000年、『どら平太』製作委員会=日活) * 『[[新選組 (2000年の映画)|新選組]]』(2000年、フジテレビ=メディアポックス) * 『[[かあちゃん]]』(2001年、映像京都=日活=イマジカ=シナノ企画) * 『[[犬神家の一族 (2006年の映画)|犬神家の一族]]』(2006年、角川映画) * 『[[ユメ十夜]]』(2007年、バイオタイド=日活)※第二夜を担当 === 主なテレビ作品 === * 『[[恋人 (1959年のテレビドラマ)|恋人]]』(1959年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * 『冠婚葬祭』(1959年、日本テレビ) * 『恋飛脚大和往来・封印切の場』(1959年、日本テレビ) * 『隣の椅子』(1959年、日本テレビ) * 『足にさわった女』(1960年、日本テレビ) * 『駐車禁止』(1960年、日本テレビ) * 『檸檬』(1961年、日本テレビ) * 『破戒』(1961年、日本テレビ) * 『プロ』(1963年、日本テレビ) * 『[[源氏物語]]』(1965年 - 1966年、[[MBSテレビ|毎日放送]])※3話分を監督、その他は演出指導 * 『[[木枯し紋次郎]]』(1972年 - 1973年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]=[[C.A.L]])※第1、2、3、18話を監督、その他多くを監修 * 『ただいま浪人』(1972年、フジテレビ) * 『[[追跡 (テレビドラマ)|追跡]]』(1973年、[[関西テレビ放送|関西テレビ]]) * 『丹下左膳』(1974年、[[讀賣テレビ放送|読売テレビ]]) * 『われらの主役 男の詩・長嶋茂雄』(1977年、[[テレビ東京|東京12チャンネル]]) * 『われらの主役 金田一登場・石坂浩二』(1977年、東京12チャンネル) * 『[[ゆく年くる年]]・その愛』(1979年、東京12チャンネル制作・全民放同時放送)※総監督 * 『御存知!鞍馬天狗』(1989年、フジテレビ) * 『[[戦艦大和 (テレビドラマ)|終戦45年ドラマスペシャル 戦艦大和]]』(1990年8月10日、フジテレビ=東宝) * 『その木戸を通って』(1995年、フジテレビ)※日本初の長編[[ハイビジョン]]ドラマ * 『[[刑事追う!]]』(1996年、[[テレビ東京]]) * 『[[盤嶽の一生]]』(2002年、フジテレビ=[[映像京都]]) * 『[[逃亡 (松本清張)#2002年版|逃亡]]』(2002年、[[日本放送協会|NHK]])※第1、2話演出。その他は監修。 * 『[[水戸黄門 (パナソニック ドラマシアター)|水戸黄門]]』(TBS)※第29部・第30部OPタイトルバック === 主なCM作品 === * ホワイトライオン([[ライオン (企業)|ライオン歯磨 (現・ライオン)]]、1966年) * ディスカバー・ジャパン([[日本国有鉄道]] (現・[[JRグループ]])、1971年) * 新幹線岡山開業 汽車会見篇(日本国有鉄道、1972年) * ブリヂストン([[ブリヂストン]]、1973年) * 本造り黄桜 桜踊り篇([[黄桜|黄桜酒造 (現・黄桜)]]、1973年) * トヨタスターレット([[トヨタ自動車]]、1975年) * HOYA バリラックス([[保谷硝子]]、1976年) * サントリーオールド([[サントリー]]、1977年) * カネボウ シルクレディ([[クラシエホームプロダクツ|カネボウホームプロダクツ (現・クラシエホームプロダクツ)]]、1977年) * クボタ 業容篇([[クボタ|久保田鉄工 (現・クボタ)]]、1977年) * アクアフィルター([[アメリカンドラッグ・コーポレーション]]、1978年) * ニチレイ コーンポタージュ([[ニチレイ|日本冷蔵 (現・ニチレイ)]]、1978年-1980年) * 味の素 ハイ・ミー([[味の素]]、1979年) * ぺんてるシャープ([[ぺんてる]]、1979年) * オールトヨタ・セール(トヨタ自動車、1980年) * サントリーレッド、オールド(サントリー、1980年-1990年) * フジ ビデオカセット([[富士フイルムホールディングス|富士写真フイルム (現・富士フイルム)]]、1981年) * ナショナルαデジタル 「甲子園の詩」シリーズ([[パナソニック|松下電器産業 (現・パナソニック)]]、1982年)計15本 * 龍角散 エチケット([[龍角散]]、1983年) * 三洋証券 がんばれ!ニッポン! 山下篇([[三洋証券]]、1983年) * 日本中央競馬会 少年と馬篇([[日本中央競馬会]]、1983年) * ナショナル 全自動洗濯機“愛妻号” 単身赴任物語(松下電器産業、1986年) * 日本高速通信 0070 涙篇([[日本高速通信]]、1988年) * ナショナルのあかり おかえりなさい神戸のあかり篇(松下電器産業、1995年)<ref>[http://www.toei-cm.co.jp/mt_fame/2006/09/1996acccmcm.html 1995 テレビ広告電通賞 「松下電器産業 ナショナルのあかり おかえりなさい神戸のあかり篇」(演出:市川崑)] 東映CMの記憶に残る作品、2006年9月7日</ref> === ドキュメンタリー === * 『銀座100年』([[資生堂]]=宣映、1967年)監修 * 『京』([[オリベッティ]]、1968年)製作・監督 * 『太陽のオリンピア MEXICO 1968』(メキシコ・オリンピック組織委員会、1969年)日本版監修 * 『日本と日本人』(東宝、1970年)総監督 ※日本万国博・日本館で公開された8面マルチスクリーン作品 * 『つる』(デスクK、1970年)演出 ※日本万国博・住友童話館で公開 * 『バンパの活躍』(デスクK、1970年)演出 ※日本万国博・住友童話館で公開 * 『長江』([[さだ企画]]=[[中国中央電視台]]、1981年)総監修 * 『やすらぎ』([[泉放送制作]]、1985年)監修 * 『子猫物語』(フジテレビジョン、1986年)協力監督 === 舞台 === * 『弥次喜多・東海道中膝栗毛』([[東京宝塚劇場]]、1968年) * 『情婦 -検察側の証人-』([[PARCO劇場]]、1980年) === 書籍 === * 『成城町271番地』(白樺書房)和田夏十との共著 * 『市川崑の映画たち』(ワイズ出版)森遊机との共著 * 『KON』(光琳社出版)※劇場公開作品73作品の名場面を収録した大判写真集 == 参考 == *映画『市川崑物語』(2006年) == 注釈 == {{reflist}} == 関連項目 == {{wikinews|訃報 市川崑監督}} * [[三重県出身の人物一覧]] * [[日本の映画監督一覧]] * [[私の履歴書]] == 外部リンク == * [http://www.konichikawa.com 市川崑ウェブサイト] - 崑プロ * [http://firecracker.mods.jp/dvd_shin_1.html 株式会社ファイヤークラッカー] - DVD-BOX『黎明 市川崑初期作品集』発売会社 * {{imdb name|id=0406728|name=Kon Ichikawa}} * [http://www.jmdb.ne.jp/person/p0154990.htm Kon Ichikawa] at the Japanese Movie Database {{市川崑}} {{毎日芸術賞}} {{ブルーリボン賞監督賞}} {{毎日映画コンクール監督賞}} {{デフォルトソート:いちかわ こん}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:CMディレクター]] [[Category:日本のアニメーション監督]] [[Category:ドキュメンタリー映画の監督]] [[Category:特撮スタッフ]] [[Category:紫綬褒章受章者]] [[Category:文化功労者]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:1915年生]] [[Category:2008年没]]
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