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'''川島 武宜'''(かわしま たけよし、[[1909年]](明治42年)[[10月17日]] - [[1992年]][[5月21日]])は、[[日本]]の[[法学者]]、[[弁護士]]。専門は[[民法]]、[[法社会学]]。1979年[[学士院会員]]、1991年[[文化功労者]]。 == 人物 == [[岐阜県]][[岐阜市]]生まれ。啓蒙的な著作を多く著し、[[丸山眞男]]、[[大塚久雄]]とともに[[戦後民主主義]]、啓蒙主義を代表する論者。[[東京大学|東京帝国大学]]教授、[[スタンフォード大学]]客員教授等を歴任。[[東京大学]]教授退官後は弁護士として活動した。 指導教官は[[末弘厳太郎]]。娘のゆりの夫は、[[外務省]][[事務次官]]や[[宮内庁]]式部長官を歴任し[[侍従長]]となった[[川島裕]]。 == 学説 == 学生時代[[ルドルフ・フォン・イェーリング]]の『法における目的』を読んだことがきっかけで法社会学に興味をもつが、当初は民法の研究者として身を立てようとしていた。ところが、判例民事法研究会の席上において、無権限者が他人の田に種苗を植えた場合の法律問題について報告したところ、師の末弘に「おまえのは[[概念法学]]だ。こんな報告をするくらいなら民法の研究などやめてしまえ。」と激しくしっ責されたことがきっかけで、[[法解釈]]学そのものに対する根本的な疑問をもつようになる。この疑問が後に『科学としての法律学』に結実されることになる<ref>『民法総則』折り込みの[[法律学全集]]No.49</ref>。川島は戦後の日本の法社会学の発展に寄与し、[[入会権]]、[[温泉権]]の研究でも著名になる。また、日本の伝統的な家族制度を封建的として批判するとともに、親分・子分などの前近代的な擬制的家族の問題を追及した。 ===日本人の法意識=== 川島の代表作の一つ『日本人の法意識』では、「伝統的な日本の法意識においては、権利・義務は、あるような・ないようなものとして意識されており、それが明確化され確定的なものとされることは好まれない」(139頁)と説いている。また、「わが国では、西洋ならば当然であるような場合に訴訟をおこす者は、「かわり者」「けんか好き」「訴訟きちがい」等々のことばで烙印をおされる。訴訟を忌避する態度は、ふかくわれわれの心の奥底に沈着しているのである」(141-142頁)とも主張している。 === 著作内容の変容 === 川島は、多数の論文、著書を出版しているが、雑誌・新聞への連載記事や[[新書]]などを一般的な法律書として出版する際に、何度も編集、加筆修正を繰り返した。このため、同一の題名でも同一の内容ではないものや、ほぼ同じ内容であるのに題名が異なる著作が存在するという状況となった。川島は退官後に、今まで執筆、加筆修正したものも含めて全ての著作をまとめ上げ、自身の研究の集大成となる『川島武宜著作集』を岩波書店から出版した。 === 戦争 === [[昭和]]初期から[[第二次世界大戦]]期にかけての[[検閲]]により、師である末弘の著作の大部分が[[伏字]]、削除、[[発禁]]などの処分を受けており、川島自身も「指導」や友人の忠告等により、出版を断念した経緯があった。 当時調査・執筆したものを、第2次世界大戦終結後に編集して出版した「結婚」「日本社會の家族的構成」などの著書は、[[リアルタイム]]で論じているものではないことを各書の序文で断っている。また『ある法学者の軌跡』でも説明している。 === 大学紛争 === 東京大学在職中に発生した[[大学紛争]]の際、学生による大学封鎖によって研究室を荒らされてしまい、収集・保存していた貴重な本や調査メモなどが消失してしまった。法社会学者としては、長年調査した膨大な調査メモを失ったことにより、研究活動や出版などはほとんど不可能となった。さらに、授業中に学生が突入してきて授業を中止させられたり、集団[[カンニング]]が発覚しても反省するどころか開き直りをされるなどして、「学生アレルギー」により精神的に追い込まれたため、辞職を覚悟した。家族の支えにより、なんとか定年退官まで勤め、退官後も私立大学から招聘があったものの、学者としては最早「死んだ」に等しい状況では学術活動を行えないと判断したため、依頼をすべて断り、その後は弁護士として活動した。これ以降の川島の研究内容は、弟子の北條浩が2000-2001年に[[御茶の水書房]]から出版した『入会の法社会学』『温泉の法社会学』で論じている。 ==経歴== * 1925年 大阪府立北野中学校(現[[大阪府立北野高等学校]])卒業 * 1928年 [[大阪高等学校 (旧制)|大阪高等学校]](現[[大阪大学]])卒業 * 1932年 [[東京大学|東京帝国大学]](現[[東京大学]])法学部卒業 * 1932年 東京帝国大学法学部助手(民法) * 1933年 [[高等文官試験]]司法科合格 * 1934年 東京帝国大学法学部助教授 * 1945年 東京帝国大学法学部教授 * 1969年 東京大学法学博士「所有権法の理論」 * 1970年 東京大学名誉教授(定年退官) * 1970年 弁護士登録 == 著作 == *『日本社會の家族的構成』(學生書房、1948年) *『債權法講義』(近代思想社、1948年) *『所有権法の理論』([[岩波書店]]、1949年) *『債權法總則講義』(岩波書店、1949年) *『民法解釋學の諸問題』(弘文堂、1949年) *『法社會學に於ける法の存在構造』(日本評論社、1950年) *『民法講義』(岩波書店、1951年) *『民法』([[有斐閣]]、1951年) *『科學としての法律學』(弘文堂、1955年) *『近代社会と法』(岩波書店、1959年) *『総論・物権』(有斐閣、1960年) *『民法総則』(有斐閣、1965年) *『結婚』([[岩波新書]]、1979年) *『日本人の法意識』(岩波新書、1978年) ISBN 4-00-410043-7 *『ある法学者の軌跡』(有斐閣、1979年) *『川島武宜著作集 第1巻 法社会学 1 生ける法と国家法』(岩波書店、1982年) *『川島武宜著作集 第2巻 法社会学 2 法社会学の一般理論』(岩波書店、1982年) *『川島武宜著作集 第3巻 法社会学 3 争いと法』(岩波書店、1982年) *『川島武宜著作集 第4巻 法社会学 4 法意識』(岩波書店、1982年) *『川島武宜著作集 第5巻 法律学 1 法律学の方法と課題』(岩波書店、1982年) *『川島武宜著作集 第6巻 法律学 2 法的構成、法律学、法律家』(岩波書店、1982年) *『川島武宜著作集 第7巻 所有権』(岩波書店、1981年) *『川島武宜著作集 第8巻 慣習法上の権利 1 入会権』(岩波書店、1983年) *『川島武宜著作集 第9巻 慣習法上の権利 2 入会権・温泉権』(岩波書店、1986年) *『川島武宜著作集 第10巻 家族および家族法 1 家族制度』(岩波書店、1986年) *『川島武宜著作集 第11巻 家族および家族法 2 家族と法』(岩波書店、1986年) *『「科学としての法律学」とその発展』(岩波書店、1987年) == 脚注 == <references /> == 門下生 == 主な弟子として、[[内山尚三]]、[[渡辺洋三]]、[[北條浩(法学者)]]、[[石村善助]]、[[唄孝一]]、[[広中俊雄]]、[[平井宜雄]]、[[石田穣]]、[[淡路剛久]]、[[六本佳平]]、[[棚瀬孝雄]]、[[松村良之]]がいる。 ==関連項目== * [[戒能通孝]] * [[小室直樹]] * [[札幌大学]] 川島の蔵書を寄贈して作られた川島文庫がある *[[日本における検閲]] == 外部リンク == * [http://www.sapporo-u.ac.jp/lib/ 札幌大学図書館] {{DEFAULTSORT:かわしま たけよし}} [[Category:日本の法学者]] [[Category:民法学者]] [[Category:法社会学者]] [[Category:日本の思想家]] [[Category:日本の弁護士]] [[Category:文化功労者]] [[Category:日本学士院会員]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:岐阜県出身の人物]] [[Category:1909年生]] [[Category:1992年没]]
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