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'''嵯峨根 遼吉'''(さがね りょうきち、[[1905年]][[11月27日]] - [[1969年]][[4月16日]])は、[[東京都]]出身の[[物理学者]]。[[長岡半太郎]]の五男として生まれ、嵯峨根家の養子となった。父・半太郎は[[箕作麟祥]]の娘婿だが、母は半太郎の後妻・登代なので[[箕作家]]の血は流れていない(半太郎の先妻が麟祥の三女・操子)。元[[ニコン|日本光学]]社長・[[長岡正男]]の異母弟にあたり、共に[[東京都立日比谷高等学校|東京府立一中]]の同窓。専門は[[実験物理学]]。 ==略歴== *[[1929年]]:[[東京大学|東京帝国大学]][[理学部]]物理学科を卒業。 *[[1935年]]:[[イギリス|英国]]、[[アメリカ合衆国|米国]]に留学。 *[[1938年]]:帰国。[[理化学研究所]]研究員となり、[[仁科芳雄]]の下で[[原子核物理学]]の研究に従事。小型[[サイクロトロン]]を運用。大型[[サイクロトロン]]を建設。 *[[1940年]]:東京大学より[[理学博士]]。論文の題は「人工放射能について」<ref>博士論文書誌データベース</ref>。 *[[1943年]]:東京帝国大学教授に就任。 *[[1945年]][[8月9日]]:[[長崎市への原子爆弾投下]]の際、旧知の[[ルイ・アルヴァレ]]らが[[ラジオゾンデ]]に嵯峨根あての手紙を入れる<ref>原爆の威力について理解できるはずの嵯峨根から日本政府に降伏を働きかけるようにとの勧めが書かれていた。しかし、この手紙が嵯峨根博士に渡ったのは終戦後の9月になってからであった。 檜山良昭の閑散余録 [http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/kansanyoroku/200708090922-9592430.html 「第141回 原爆投下秘話 一通の手紙」] (2007年8月9日 手紙の写真あり)</ref>。 *[[1949年]]:渡米。アイオワ大学。カリフォルニア大学。 *[[1950年]][[12月11日]]:父・長岡半太郎死去。 *[[1955年]]:[[東京大学]]教授を辞職。 *[[1956年]]:帰国。その後[[日本原子力研究所]]理事、副理事長、[[日本原子力発電]]取締役、副社長、[[産業計画会議]]委員(議長・[[松永安左ヱ門]])を歴任。 ==業績== *戦後[[日本]]の学術研究体制の整備、[[日本学術会議]]の創設に尽力した。 ==関連項目== *[[ルイ・アルヴァレ]] ==脚注== <references/> {{DEFAULTSORT:さかね りようきち}} [[Category:日本の物理学者]] [[Category:東京大学の教員]] [[Category:理化学研究所の人物]] [[Category:日本原子力研究開発機構の人物]] [[Category:東京都出身の人物]] [[Category:1905年生]] [[Category:1969年没]]
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