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[[File:Mythen (ganz).JPG|thumb|right|250px|スイス・アルプスの巨大な山塊。17世紀・18世紀には多くのイギリス人が[[グランド・ツアー]]でアルプスを越え、荒々しい風景を目の当たりにした。山塊は、当時の自然の美の観念からはかけ離れた存在であり、むしろ恐ろしいものであった。しかし安全な場所から見ている限り、巨大な山や雲から感じる恐怖は、むしろそれに対する抵抗心を起こしたり精神を高揚させたりするものだった。これにより感じる「崇高」は、当初は「美」とは異なる観念だった]] '''崇高'''(すうこう)とは美的範疇であり、巨大なもの、勇壮なものに対したとき対象に対して抱く[[感情]]また心的イメージをいう[[美学]]上の[[概念]]である。計算、測定、模倣の不可能な、何にも比較できない偉大さを指し、[[自然]]やその広大さについていわれることが多い。 == 概要 == 崇高について初めて論じたのは[[ロンギヌス]]であるとされる。フランスで[[ニコラ・ボアロー=デプレオー|ボワロー]]が1674年に伝[[ロンギノス]]『崇高について』を翻訳したことから注目され、[[詩学]]の中心概念のひとつとなった。 18世紀になるとアイルランドの[[エドマンド・バーク]](1756年の『崇高と美の観念の起源』)、ドイツの[[イマヌエル・カント]](1764年の『美と崇高の感情に関する観察』;1790年の『判断力批判』)が崇高を主題的に論じた。両者の場合、崇高と美が対立するものであるとみなして、崇高の側に与している。巨大な自然災害である[[1755年リスボン地震]]も、自然の恐ろしさをヨーロッパの精神に刻み、崇高の概念を発達させた。その後はむしろ崇高を美の一種とみなす傾向がある。 19世紀のロマン主義以降は崇高はあまり注目されなくなった。[[リヒャルト・ワーグナー]]はベートーベン論『ドイツ音楽の精神』において、自己の音楽とベートーベンの音楽を、美に崇高が優越するそれだとしているが例外的であった。[[アドルノ]]はその『美の理論』で、圧倒的に大いなるもの、圧倒的な力、に対する精神の抵抗が崇高には必要だとしている。しかしその際、カントも同じように捉えているとしているが、それは事実に反していて、カントにとって崇高が抵抗しているのは感覚的興味に対してのみである。 しかし、[[ジャン=フランソワ・リオタール|フランソワ・リオタール]]の1994年の著書『崇高論』で取り上げるなど再び議論されつつある。自身のユダヤ主義的崇高観---多様性を限定していく精神のふるまいに対して衝撃を加えていくという挑戦的姿勢のうちに崇高を見る---から[[ハイデッガー]]の技術主義を批判したリオタールの姿勢は、結果的にそれによって、同じく技術主義のアメリカ合衆国系の崇高観に対しても批判的に対峙することになった。このリオタールの崇高論をラカンの想像界主義の展開なのだと[[キャサリン・ベルシー]]は見ている。 == 参考資料== * [[桑島秀樹]] 『崇高の美学』 [[講談社]]〈[[講談社選書メチエ]]〉、2008年 ISBN 978-4-06-258413-5 == 関連項目 == * [[センス・オブ・ワンダー]] * [[タウマゼイン]] {{DEFAULTSORT:すうこう}} [[category:美意識]]
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