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島津継豊
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 島津継豊 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[江戸時代]]中期 | 生誕 = [[元禄]]14年[[12月22日 (旧暦)|12月22日]]([[1702年]][[1月19日]]) | 死没 = [[宝暦]]10年[[9月20日 (旧暦)|9月20日]]([[1760年]][[10月28日]]) | 改名 = 鍋三郎(幼名)→忠休(初名)→継豊 | 別名 = 又三郎(通称) | 神号 = 常隆眞秀香彦命 | 戒名 = 宥邦院殿円鑑享盈大居士 | 墓所 = [[鹿児島県]][[鹿児島市]][[池之上町]]の[[福昌寺 (鹿児島市)|島津家墓地]] | 官位 = [[従四位]]上、左近衛中将、[[大隅国|大隅]]守 | 幕府 = [[江戸幕府]] | 主君 = | 藩 = [[薩摩国|薩摩]][[薩摩藩|鹿児島藩]]主 | 氏族 = [[奥州家 (島津氏)|島津氏]] | 父母 = 父:[[島津吉貴]]<br />母:側室・須磨(名越恒渡(右膳)<ref>子孫には[[お由羅騒動]]で遠島の憂き目にあった[[名越左源太]]がいる。</ref>の妹) | 兄弟 = 多数([[島津吉貴]]の項参照) | 妻 = 正室:'''皆姫'''([[毛利吉元]]の娘)<br />継室:'''[[浄岸院|竹姫]]'''([[徳川綱吉]]の養女、[[清閑寺熈定]]の娘) | 子 = '''[[島津宗信|宗信]]'''、[[島津重年|重年]]、[[島津久峰|久峰]]、[[入来院定勝]]、<br />[[眞含院|菊姫]]、娘([[樺山久倫]]室)、娘([[肝付兼伯]]室)、<br />娘([[島津久隆]]室)他 | 特記事項 = }} '''島津 継豊'''(しまづ つぐとよ)は、[[江戸時代]]の[[島津氏]]第22代当主。[[薩摩藩]]の第5代藩主。 == 生涯 == 元禄14年(1701年)12月、[[島津吉貴]]の長男として生まれた。[[正徳 (日本)|正徳]]5年([[1715年]])4月5日、当時7歳の第7代[[征夷大将軍|将軍]]・[[徳川家継]])より、「松平」の名字と偏[[諱]](「継」の一字)を与えられ、初名の'''忠休'''(ただやす)から'''継豊'''(「松平大隅守継豊」)に改名<ref>村川浩平「松平氏下賜の授受具体像と基本的性格」『日本近世武家政権論』185~189頁。尚、(詳しい事情は不明だが)継豊の代からの歴代藩主は最後の藩主・[[島津忠義|茂久(忠義)]]が使用するまで[[通字]]の「久」や「貴」を避けるようになっている。</ref>。[[享保]]6年([[1721年]])6月、父・吉貴の隠居に伴って家督を継ぎ、5代目の藩主となる。同年12月、左近衛少将に叙任する。享保14年([[1729年]])には従四位下。左近衛中将を叙任した。[[元文]]2年([[1737年]])3月、四弟の[[島津忠紀|忠紀]]に[[重富家|越前家]]を再興させた。[[延享]]元年([[1744年]])5月、同じく七弟の[[島津忠卿|忠卿]]に断絶した支族和泉家の門跡を継がせて、再興させた。なお、この家を「今代の和泉家」という意味で[[今和泉島津家|今和泉家]]という。 [[元文]]3年([[1738年]])に藩主が嗣子なくして死去したときに藩主を輩出する[[家格]]として一門家を新設。当時、家格一所持だった同母弟の垂水島津家当主[[島津貴儔]]や、次男の加治木家当主[[島津重年|久門]]をこの家格とする。 当初、継豊は毛利吉元の娘を正室としていたが、彼女が早世した後に第8代将軍・[[徳川吉宗]]の斡旋もあって、第5代将軍・[[徳川綱吉]]の養女・竹姫と再婚した。竹姫は吉宗と恋愛関係があるのではないかという憶測があり、継豊の父・吉貴はじめ薩摩藩では好意的にはとっていなかったという。しかし、吉貴の友人である老中・[[松平乗邑]]の斡旋もあって、継豊には既に側室のお嘉久(渋谷氏)との間に嫡男が生まれていることから、竹姫との間に子が生まれても嫡子としないなど様々な条件をつけた上で受け入れたという。 延享3年([[1746年]])11月、長男・[[島津宗信|宗信]]に家督を譲って隠居したが、その後藩主となった宗信と次男・[[島津重年|重年]]が継豊に先立って死に、孫(重年の子)である[[島津重豪]](初めは忠洪)が11歳で8代目の藩主となったため、自身も病弱の身を押し、その後見を行った。 宝暦10年(1760年)9月、60歳で死去。この年は[[徳川家治]]が第10代将軍となった年(死去から半年ほど前)であり、当時としてはかなりの長寿であったといえる。 == 補注 == {{reflist}} {{島津氏歴代当主||第22代|1721年 - 1746年}} {{薩摩藩主|第5代|1721年 - 1746年}} {{DEFAULTSORT:しまつ つくとよ}} [[Category:奥州島津氏|つくとよ]] [[Category:薩摩藩主|つくとよ]] [[Category:日本の神 (人物神 江戸時代大名)]] [[Category:1702年生]] [[Category:1760年没]]
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