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岩国藩
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[[ファイル:Iwakuni castle 05-03.jpg|280px|right|thumb|[[岩国城]]天守閣(復元)]] '''岩国藩'''(いわくにはん)は、[[周防国]][[大島郡 (山口県)|大島郡]]の一部(鳴門村・神代村)及び[[玖珂郡|玖珂郡南部]]を領地とした[[藩]]。藩庁は[[岩国城|岩国陣屋]](現在の[[山口県]][[岩国市]])<ref>岩国領の支配拠点は当初岩国城だったが、[[元和 (日本)|元和]]元年(1615年)の[[一国一城令]]で破却されて岩国陣屋となった。慶応4年(1868年)まで岩国領は「藩」ではないと長州藩によって主張されていたため、正式な「藩庁」としては岩国陣屋となる。</ref>。[[江戸時代]]を通じて[[長州藩]][[毛利氏]]一門の[[吉川氏]]が領主だったため、'''吉川藩'''(きっかわはん)という通称もある。 長州藩の[[支藩]]とみなされるが、長州藩では幕府に'''岩国領'''(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の[[陪臣]]であるによって[[諸侯]]に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは6万石の[[外様大名]]格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、[[大政奉還]]後の[[慶応]]4年(1868年)3月、[[明治政府|新政府]]によってのことである。 本項では、岩国藩とその前身である岩国領について合わせて述べる。 == 沿革 == [[毛利元就]]の次男[[吉川元春]]を祖とし、元春の長男[[吉川元長]]と続いて、元長没後に元春の次男[[吉川広家]]が初代領主となる。石高は当初[[表高]]3万石だったが、[[寛永]]11年(1634年)、毛利家からの独立を画策して[[実高]]である6万石を公称し、幕府からもこれを認められた。 === 吉川広家の入封と岩国領の地位 === [[慶長]]5年(1600年)、[[関ヶ原の戦い]]で広家は東軍方に内通し、毛利勢の動きを封じ、関ヶ原の戦いに参加させなかった。当初、[[黒田長政]]を通じて[[徳川家康]]より所領安堵の密約を取りつけていたが、戦後家康は大坂における[[毛利輝元]]の行為を理由として毛利家を取り潰し、吉川家を取り立てようとした。これに対して広家は事態収拾のために奔走し、結果として毛利氏は改易は免れたものの、[[長門国]]・[[周防国]]2カ国に大幅に減封された。広家は[[豊臣政権|豊臣時代]]には[[出雲国]]富田で14万石を領していたが、毛利宗家が120万5000石から36万9411石余に減封されたのに伴い、[[毛利輝元]]より東の守りとして、岩国に3万石(長州藩の内高に含まれる)を与えられた。広家は同年(1600年)、岩国へ着任した。 その後毛利宗家の歴代当主は吉川家当主を[[陪臣]]として扱い<ref>元々輝元の養嗣子でありながら、輝元の嫡子誕生によって豊臣政権から分知を認められて大名としての資格を得ており、宗家継承権も有していた秀元の長府藩や、輝元の実子である[[毛利就隆]]の[[徳山藩]]の両藩と輝元の従兄弟である広家との血縁の親疎を考えた場合、輝元の子を祖とする長府・徳山と庶家の1つでしかない岩国の間に処遇の違いが発生する余地はあり、岩国藩吉川家が冷遇されたというより長府藩毛利家の家格が上昇したと見た方が適切という説がある(参照: 脇正典「萩藩成立期における両川体制について」(藤野保先生還暦記念会編『近世日本の政治と外交』(1993年、雄山閣) ISBN 4639011954))。</ref>、[[徳川将軍家|将軍]]に直接目通りすることを許さなかった。しかし[[江戸幕府]]からは[[外様大名]]格として扱われ、[[参勤交代]]の義務を負い、当初は居城の築城許可まで与えられていた。ただし[[伺候席]]は定められておらず、従五位下の叙位もなかったため、守名乗りもできないという、極めて変則的な状態が江戸時代を通じて続くこととなった。 === 岩国領の経営 === [[Image:Kintaikyo and Iwakuni castle.JPG|250px|thumb|錦帯橋と岩国城山]] 初代当主・広家によって当家の基礎は固められた。[[寛永]]2年(1625年)に広家が没すると、第2代当主・[[吉川広正]]は親政を行ない、[[寛永]]11年(1634年)には本家の[[長州藩]]主・[[毛利秀就]]と不仲になった[[長府藩]]主・秀元と共に本家から独立しようとしたが失敗する。広正は製紙業を起こし、寛永17年(1640年)には紙を専売化している。 第3代当主・[[吉川広嘉]]は文化事業に尽力し、[[延宝]]元年(1673年)に有名な[[錦帯橋]]が完成している。第4代当主・[[吉川広紀]]も藩営による干拓事業の拡張を行い、岩国領は全盛期を迎えた。しかしこれが財政難で苦しむ本家長州藩の妬みを買い、本家と対立するようになる。 第5代当主・[[吉川広逵]]と第6代当主・[[吉川経永]]時代には家格問題が絡まって本家と対立し、さらに岩国内部でも家臣団の対立が起こっている。第7代当主・[[吉川経倫]]時代になると諸侯に列するための運動や凶作により財政が悪化、製紙業の生産高も半減し、倹約が励行されるようになった。[[寛政]]年間(1789–1801年)より財政再建に着手し[[天保]]年間(1830–44年)には一通りの成功をみた。 第8代当主・[[吉川経忠]]は財政改革に失敗。第10代当主・[[吉川経礼]]は干拓事業などを行なって財政改革に成功を収めた。 === 幕末から立藩・廃藩まで === 幕末にあっては、三士と呼ばれる[[東沢瀉]]、[[栗栖天山]]、[[南部五竹]]の尊王活動はあったが、藩自体は佐幕的態度を示していた。[[元治]]元年(1864年)から[[慶応]]元年(1865年)にかけての2度にわたる[[長州征討]]に際しては、第12代当主・[[吉川経幹]]が長州藩と幕府の間に立って周旋を行い、幕府方の派兵の延期を取り付けたものの、[[高杉晋作]]などのようにこれを宗家である長州藩への背信行為と見なした長州藩士もおり、この戦争で功績のあった[[清末藩]]に岩国領を加増すればよいとまで言われた。しかし[[四境戦争]]においては芸州口で幕府軍と交戦い、これを撃破することに貢献した。 吉川経幹は慶応3年(1867年)3月20日死去するが、[[毛利敬親]]の命令でその死が隠された。[[大政奉還]]後の慶応4年(1868年)3月13日、新政府によって岩国藩は独立した藩として正式に認められた。経幹は生存しているものとして城主格兼正式な藩主として認められ、岩国藩初代藩主となった。経幹は明治元年12月28日(1869年2月9日)に長男・[[吉川経健|経健]]に家督を譲って隠居した形となった。 [[明治]]4年(1871年)7月14日、[[廃藩置県]]により岩国県となり、同年11月15日、山口県に編入された。 吉川家は明治2年に[[華族]]に列し、明治17年(1884年)の[[華族令]]で[[子爵]]に叙せられた。 == 歴代当主 == [[画像:Kin-un-kaku.JPG|250px|thumb|「土居」跡に建つ錦雲閣と水堀]] ;吉川家 3万石 → 6万石 # [[吉川元春|元春]](もとはる) # [[吉川元長|元長]](もとなが) # [[吉川広家|広家]](ひろいえ)(従四位下・民部少輔、侍従) # [[吉川広正|広正]](ひろまさ) # [[吉川広嘉|広嘉]](ひろよし) # [[吉川広紀|広紀]](ひろのり) # [[吉川広逵|広逵]](ひろみち) # [[吉川経永|経永]](つねなが) # [[吉川経倫|経倫]](つねとも) # [[吉川経忠|経忠]](つねただ) # [[吉川経賢|経賢]](つねかた) # [[吉川経礼|経礼]](つねひろ) # [[吉川経章|経章]](つねあきら) # 初代藩主 [[吉川経幹|経幹]](つねまさ)(従五位下・駿河守) # 2代藩主 [[吉川経健|経健]](つねたけ)(正四位・駿河守) == 幕末の領地 == * [[周防国]] ** [[大島郡 (山口県)|大島郡]]のうち - 2村 ** [[玖珂郡]]のうち - 84村 == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == * [[児玉幸多]]・[[北島正元]]監修『藩史総覧』[[新人物往来社]]、[[1977年]] * [[中嶋繁雄]]『大名の日本地図』[[文春新書]]、[[2003年]] * [[八幡和郎]]『江戸三00藩 バカ殿と名君 うちの殿さまは偉かった?』[[光文社新書]]、[[2004年]] == 関連人物 == * [[井上光]] * [[宇都宮遯庵]] * [[岡研介]] * [[沖原光孚]] * [[香川景継]] * [[香川正矩]] * [[香川景晃]] * [[片山久安]] * [[玉乃世履]] * [[独立性易]] * [[有坂長次]] * [[有坂成章]] == 関連項目 == * [[陰徳太平記]] * [[片山伯耆流]] * [[疋田陰流]](岩国領では愛洲陰流と呼ばれていた) {{s-start}} {{s-bef|before=([[周防国]])|表記=前}} {{s-ttl|title=行政区の変遷 |years=[[1868年]] - [[1971年]]<br>|years2=岩国藩→岩国県}} {{s-aft|after=[[山口県]]|表記=次}} {{end}} {{江戸時代の藩}} {{DEFAULTSORT:いわくにはん}} [[Category:藩|いわくに]] [[Category:周防国]] [[Category:長州藩の支藩|いわくに]] [[Category:吉川氏|藩]] [[Category:山口県の歴史]] [[Category:岩国市]] [[Category:岩国藩|*]]
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