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山本浩二
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{{Otheruses|元広島監督の山本浩二|バスケットボール選手|山本浩二 (バスケットボール)|他の「やまもとこうじ」|Wikipedia:索引 やまも#やまもとこ}} {{Infobox baseball player |選手名 = 山本 浩二 |本名 = 山本 浩司 |所属球団 = |背番号 = |選手写真ファイル名 = Koji Yamamoto on March 8, 2013.jpg |写真のコメント = 2013年WBC日本代表での山本 浩二 |国籍 = {{JPN}} |出身地 = [[広島県]][[広島市]][[佐伯区]] |生年月日 = {{生年月日と年齢|1946|10|25}} |没年月日 = |身長 = 183 |体重 = 82 |守備位置 = [[外野手]] |利き腕 = 右 |打席 = 右 |プロ入り年度 = {{NPBドラフト|1968}} |ドラフト順位 = ドラフト1位 |初出場 = 1969年4月12日 |最終出場 = 1986年10月27日 |経歴 = <nowiki></nowiki> * [[広島県立廿日市高等学校]] * [[法政大学野球部|法政大学]] * [[広島東洋カープ]] (1969 - 1986) |経歴補足題 = 監督・コーチ歴 |経歴補足 = <nowiki></nowiki> * 広島東洋カープ (1989 - 1993, 2001 - 2005) * [[北京オリンピック野球日本代表]](2007 - 2008) * 第3回[[ワールド・ベースボール・クラシック日本代表]](2013) |選出国 = 日本 |選出年 = {{by|2008年}} |得票率 = |選出方法 = 競技者表彰 }} '''山本 浩二'''(やまもと こうじ、[[1946年]][[10月25日]] - )は、[[広島県]][[広島市]][[佐伯区]]出身の元[[プロ野球選手]]([[外野手]])・[[プロ野球監督]]。本名及び旧登録名は「'''山本 浩司'''」([[1974年]]まで)<ref>{{cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/wagamichi_yamamoto/kiji/K20130212005136360.html |title=第13回 改名で開運「浩司」から「浩二」へ|publisher=Sponichi Annex|accessdate=2014-07-02}}</ref>。 現役時代は[[広島東洋カープ]]で長きに渡って活躍した。「'''ミスター赤ヘル'''」の愛称で親しまれ、引退後も広島監督を2度務めた。[[北京オリンピック]][[野球日本代表]]守備走塁コーチ。[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|2013年WBC日本代表]]監督。 == 経歴 == === アマチュア時代 === 1946年、[[広島県]][[佐伯郡]][[五日市町 (広島県)|五日市町]](現・[[広島市]][[佐伯区]])に生まれる。子供の頃、父に連れられ、当時の広島カープの本拠地・[[広島県総合グランド野球場|広島県営球場]]へ[[太田川]]対岸から渡し船で何度も通った。この時代の広島の主力選手であったエース[[投手|ピッチャー]]・[[長谷川良平]]、4番打者・[[小鶴誠]]、韋駄天・[[金山次郎]]に憧れ、これらを全部足した選手になりたいと夢見て野球に打ち込んだ。 16歳の時、自分自身の力で甲子園へ行くため、また大学進学を視野に入れた家族の意向もあって、野球では全くの無名だった[[広島県立廿日市高等学校]]へと進学。入学入部と同時にエース・4番打者となる(県内の同期には[[高橋一三]]、[[小川邦和]]らがいる)。3年時には主将として広島県予選を勝ち抜き、もう少しで甲子園に手が届く所まで勝ち進んだが、準決勝で[[広陵高等学校 (広島県)|広陵高等学校]]に17安打を打たれ涙を飲んだ。 しかし、その評判を人伝に聞いた[[福岡ソフトバンクホークス|南海ホークス]]の[[鶴岡一人]]監督の目に留まる。鶴岡は「今プロに入っても通用しない」と大学進学を勧め、それを受けて[[1965年]]、高校卒業と同時に[[法政大学]]に入学した。鶴岡は後年、当時の山本について「投手としてはともかく、打撃には非凡なものを感じた」と語っている。 大学進学後、投手として野球部に入部したが、1年生部員だけで50人いた当時の法大では台頭できず、すぐにエリートコース(合宿組)に入った[[田淵幸一]]と違い、[[富田勝]]、[[桑原秀範]]らと共に一般部員の立場に甘んじていた。2年生時、[[山中正竹]]の入部をきっかけに外野に[[コンバート (野球)|コンバート]]され、[[松永怜一]]監督に個人特訓を受けて打撃の才能が開花。2年生にして[[クリーンナップ]]に抜擢される。やがて山本は、田淵、富田と共に「'''法政三羽ガラス'''」の異名を取り、法政黄金時代を築き上げる大きな原動力となった。リーグ通算で65試合出場、229打数67安打、打率.293、8本塁打、30打点の成績を残し、ベストナインを2回獲得した。 === 現役時代 === [[1968年度新人選手選択会議 (日本プロ野球)|1968年のドラフト]]1位で[[広島東洋カープ]]に入団。入団当初の背番号は'''27'''だったが、[[山内一弘]]引退後、背番号'''8'''を譲り受けた。 [[1969年]][[4月12日]]の[[開幕戦]]で6番打者・[[中堅手]]としてスタメン出場し、初出場を果たす。レギュラーの座を勝ち取ると、シーズン後半には4番打者などの[[クリーンナップ]]を任されるようになり、[[1970年]]は3番打者、[[1971年]]は主に5番打者、[[1972年]]は主に1番打者や5番打者を務めるなど、チームの主力として活躍した。しかし打撃の成績自体は特筆されるようなものがなく、長らく平凡な中距離打者として脇を固めていた。その後、[[根本陸夫]]、[[上田利治]]、[[関根潤三]]、[[広岡達朗]]ら指導者にも恵まれ、徐々に成長を見せる。[[1974年]]には主に3番打者を務め、打率.275、28本塁打、74打点という好成績を残した。同年シーズンオフ、[[姓名判断]]で「浩司という名前は勝負師に向かない」と言われたため、名前を「浩司」から「浩二」に改名した。 翌年の[[1975年]]6月下旬から4番打者に定着。[[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]第1戦では、[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]の3番として4番[[王貞治]]、5番[[田淵幸一]]とクリーンアップを組み、6番に入った[[衣笠祥雄]]と共に二打席連続アベック本塁打を放った。このアベック本塁打は、オールスターゲームの名場面としてよく紹介される。同年シーズンは好調を維持し、[[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]をかつての同僚である中日の[[井上弘昭]]と最後まで争い、首位打者を獲得した。最終的に打率.319、30本塁打、84打点、24盗塁という自己最高の成績を記録し、自身初のシーズン[[打率]]3割とシーズン30[[本塁打]]を達成。チーム初優勝に大きく貢献すると共に、[[最優秀選手 (野球)|シーズンMVP]]に輝いた。優勝を決めた[[10月15日]]の対巨人戦([[後楽園球場|後楽園]])では人目もはばからず男泣きし、広島の人々から郷土の英雄として'''「ミスター赤ヘル」'''の二つ名を送られた。 打者として本格的に才能が開花したのは30代になってからであった。開花したきっかけは、法政大学時代から持病となっていた[[腰痛]]である。年が経つにつれてそれがひどくなり、自らは休養を求めたが、古葉監督が休養を許さなかったため、出場を続けた。そうした中で、山本は腰にできるだけ負担をかけずに球を遠くに飛ばす[[広角打法]]を習得。これにより右翼への流し打ち本塁打の名手になり、長距離打者として開眼した。 [[1977年]]から5年連続40本塁打を記録。この記録を持つのは[[王貞治]]と山本のみである。[[1978年]]、[[1980年]]、[[1981年]]、[[1983年]]と4度の[[本塁打|本塁打王]]に輝き、[[最多打点|打点王]]も3度獲得した。また、強肩巧守の[[中堅手|センター]]としても鳴らし、1972年から1981年まで[[ゴールデングラブ賞]]を10年連続で受賞。通算10回受賞はセ・リーグの外野手としては歴代最多である。外野手として残した通算4637[[刺殺]]、通算154[[補殺]]、通算4830[[守備機会]]は、それぞれセ・リーグ記録であり、日本プロ野球歴代でも2位に位置する。1975年には302守備機会連続無失策のセ・リーグ記録を樹立しており、守備機会の多さの割に通算[[失策]]数も39と少なく、技術の高い捕球や正確無比な送球で知られた。足も速く、11年連続でシーズン2桁盗塁を記録しており、通算でも231個の盗塁を記録している。このように走攻守の三拍子揃った選手として、衣笠祥雄との500本塁打コンビは'''[[YK砲]]'''と呼ばれ、王貞治と[[長嶋茂雄]]のコンビの[[ON砲]](106本塁打)に次ぐ日本プロ野球歴代2位の86本のアベック本塁打を放っている。他に[[水谷実雄]]、[[三村敏之]]らと共に広島黄金時代を築いた。 [[1980年]]頃を境に足や肩に陰りが見え始めたことや、[[長嶋清幸]]と[[山崎隆造]]が台頭してきたこともあり、1983年より[[左翼手]]に[[コンバート (野球)|コンバート]]。同年[[4月30日]]の対[[阪神タイガース|阪神]]戦([[阪神甲子園球場|甲子園]])では[[サイクル安打]]を記録した。[[1984年]]より打撃コーチを兼任し、この年はタイトルを逃したものの好成績を残して日本一に貢献、王貞治(現役最終年の1980年当時)を抜いてこの頃の球界最高額となる年俸8500万円で契約した。[[1985年]]には史上2人目の通算500本塁打・200盗塁を達成(この記録を持つのは[[張本勲]]、山本、衣笠の3人のみ)。 [[1986年]]、リーグ優勝を花道に、40歳で[[現役引退]]した。この年、チームは130試合制の129試合目にリーグ優勝を決め、日本シリーズも第8戦まで行ったため、日本シリーズ第8戦が事実上の引退試合となった。試合には敗れ、[[埼玉西武ライオンズ|西武]]に優勝を譲ったが、広島ナインから惜別の胴上げを受け[[広島市民球場 (初代)|広島市民球場]]は万来の浩二コールに包まれた。翌日の引退会見の際、涙ながらに「山本浩二は幸せな男です」と述べた。 名の通った大選手でも、プロ入り当初や現役晩年は出場が少なかったり成績が振るわなかったりするが、山本は1年目から引退年までほぼ全試合に出場し、成績も極端に下降することはなかった。最終年の1986年にも打率.276を記録し、27本の本塁打を放っている。早すぎる引退に見えるが、持病の[[腰痛]]の悪化が大きかったとされる。 '''大学出身者での通算536本塁打'''は日本最多記録である。7度にわたる打点・本塁打のタイトルはいずれも30歳以降であり、通算本塁打の7割を30代以降で放つなど、典型的な大器晩成型の選手であった。その功績を讃え、[[野球の背番号|背番号]]「'''8'''」は広島球団史上初の[[野球界の永久欠番|永久欠番]]となっている。 === 引退後・監督時代 === 引退後は[[1987年]]から[[日本放送協会|NHK]][[野球解説者]]・[[日刊スポーツ]][[野球評論家]]を務め、[[1989年]]、広島監督に就任する。1989年、[[1990年]]はリーグ2位、[[1991年]]にはリーグ優勝、日本シリーズでは西武に3勝4敗で敗れる。しかし[[1992年]]に4位(10年ぶりのBクラス)、[[1993年]]に19年ぶりとなる最下位となり、その責任をとる形で辞任した。1993年はサヨナラ負け14回(ワーストタイ)を記録している。 その後、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]・[[広島テレビ放送|広島テレビ]]で解説者をしていたが、球団の要請で[[2001年]]再び広島監督に就任。在任中に一度もAクラスになることなく、[[2005年]]に成績不振(12年ぶりの最下位)により2度目の辞任。監督としての在任期間(第1期・第2期合わせて)は10年間で[[古葉竹識]]、[[白石勝巳]]の11年に次ぐ。 監督時代、第一期では[[前田智徳]]や[[緒方孝市]]、[[江藤智]]など、第二期には[[新井貴浩]]や[[嶋重宣]]、[[栗原健太]]を打線の主力として育成した。 [[2006年]]より、日本テレビ・広島テレビ解説者に復帰。また[[2007年]]、[[星野仙一]]監督の下、[[北京オリンピック]]野球代表チームの守備走塁コーチに就任し、結果は4位に終わった。[[2008年]]、[[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り。[[2010年]]、[[日本プロ野球名球会]]の[[副会長]]に就任する。[[2012年]]、[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック|第3回WBC]]の[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表]]の監督に就任。 == 特筆 == === 人物 === のんびり屋の性格で、後に妻になる鏡子夫人が、神宮球場に憧れの山本本人を見に来ているのを見ながら、「あれ(鏡子夫人のこと)、誰の彼女じゃろか?」と感じていたほど呑気であったという。 現役時代、王貞治、田淵幸一、[[星野仙一]]、[[平松政次]]、[[松岡弘]]と共に、[[細川たかし]]の「六つの星」という歌にバックコーラスで参加したことがある。しかし [http://www.c-5.ne.jp/~usan11/gif/sentoralu.jpg この曲のジャケット写真] では、なぜか山本だけがビジター用のユニフォームを着ていた。その理由は現在でも不明である。 現役時代の移動時に着用していた黒[[背広|スーツ]]([[縞模様|ストライプ]]入り等)、[[パンチパーマ]]など、[[衣笠祥雄]]、[[江夏豊]]らと[[新幹線]]の[[プラットホーム|ホーム]]に立つと迫力があった。[[西崎幸広]]や[[阿波野秀幸]]、[[水上善雄]]や[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]の選手らがお洒落な髪型にしたり、[[DCブランド]]を着始める前まで、プロ野球選手の私服や移動時はこうした[[ファッション]]が主流だった。[[鼠先輩]]([[岡山県]][[赤磐市]]出身)も自身のパンチパーマに[[ヤクザ]]風のスーツファッションは、現役時代の山本と衣笠を意識したものと話している<ref>[[週刊プレイボーイ]]、[[集英社]]、2008年7月7日号、159頁</ref>。 [[山崎製パン|ヤマザキ]]の「エイトドーナツ」の袋に描かれている野球選手である。 === 野球 === 現役時代は投手の配球を読むのが上手く、「読みのコージ」とも呼ばれた。 山本は29歳で首位打者をとるまでは3割を一度も打ったことがなく、本塁打も30本を超えたことはなかった。しかし31歳となる1977年に44本塁打を放つと、以降は3割以上の打率をコンスタントに残すようになり、更に本塁打を量産するようになった(37歳となる1983年にも、36本塁打で4度目の本塁打王に輝いている)。通算536本塁打のうち30歳を過ぎてから367本を放ち、[[大器晩成]]型の[[スラッガー]]として有名な打者である。 [[腰痛]]の有名なエピソードとして次のようなものがある。1975年[[8月7日]]、[[東京ヤクルトスワローズ|ヤクルト]]戦の試合前の練習中に山本は[[ぎっくり腰]]になってしまい、試合への欠場を古葉監督に願い出た。しかし、古葉監督は聞き入れず、4番センターで山本をスタメン出場。腰の激痛で、山本は打席に立っても、ほとんどバットを振れなかった。試合は混戦に突入し、8回の時点で7対7の同点。そしてその回にランナーを3塁に置いて、山本に打席が回ってきた。山本は腰の痛みをこらえ、外角にきた直球をミートすると、打球は右翼席まで飛んでいき、9対7とする勝ち越し本塁打となった。 現在、球場でファンが選手の名前で大声援することを「○○コール」と呼ばれているが、これは山本が「ミスター赤ヘル」としてチームを引っ張るようになってから、打席に立つたびに「浩二! 浩二!」というファンからの大声援が起こるようになり、マスコミがそれを「浩二コール」と名付けて広めたためである、といわれている。また、トランペットなどの楽器(鳴り物)による応援は、山本の打席で行われたのが最初だといわれている(昔は声での応援しか行なわれていなかった。[[広島東洋カープ#応援の先駆者|広島東洋カープ]]も参照のこと)。 オールスターゲームに強く、打率・本塁打・打点・得点がそれぞれ歴代3位以内に入っている。また、本塁打数は歴代最多である。 「[[宇野ヘディング事件|ヘディング事件]]」といえば元中日の[[宇野勝#伝説のヘディング事件|宇野勝]](1981年8月26日)が有名であるが、これより前に山本も同年4月19日の巨人戦でセンターフライを頭に当てて落球したことがある。 2007年、[[北京オリンピック野球日本代表|オリンピック野球日本代表]]守備走塁コーチに就任し、三塁[[ベースコーチ]]を務める。三塁ベースコーチの経験がないので、それを不安視する声に対し、「俺は現役時代守備や走塁に人一倍気をつけてきた」といい、「500本以上本塁打を打っている選手で、守備や走塁を教えることができるのは、俺だけじゃないか」と不安説を一蹴した。ただ、練習試合では監督からのサインを見落としたことを認めることがあった。 === 交友関係 === 大学の同期であった[[田淵幸一]](後の[[福岡ソフトバンクホークス|ダイエー]]監督)、[[東京六大学野球連盟|六大学リーグ]]で何度となく対戦した[[星野仙一]](後の[[中日ドラゴンズ|中日]]・阪神・[[楽天イーグルス|楽天]]監督)とは、大学時代から同学年の親友として有名である。大学入学後、田淵が山本に東京の案内をしたのがきっかけで二人が仲良くなったあと、あまりに二人が仲がいいので大学は違うが星野が妬いて入ってきたという。 プロ入り後、みな家庭を持った後も、シーズン中に対戦があると良く互いの家に泊まりあっていた。敵チームの選手宅に泊るのは好ましいことではないが、ファンも彼らのことは黙認していたという。また、山本が現役引退を決意した時、最初に打ち明けたのも田淵と星野であり、星野が阪神の監督辞任を決意し、田淵に「次(監督)お前やれ」と伝えた(田淵は固辞)のも、広島の山本宅に向かう途中のタクシーの中だったという。 === ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)関係 === 2012年10月10日、2013年ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)に出場する[[2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表|日本代表監督]]に就任。過去3回中最高の成績で決勝ラウンドまで通過するも、準決勝で1対3でプエルトリコに敗れた。 準決勝の8回裏の重盗失敗に関しては、その条件にかかわらず重盗を試みること自体高いリスクを伴うものの、[[橋上秀樹]]戦略コーチは「データ的には100パーセント可能だった」としており、山本自身も試合直後の会見で「[[井端弘和|井端(弘和)]]のスタートが遅れて、ああいう結果になった」と分析した<ref>{{Cite news |title=山本監督 相手の投手陣に勢いあった |url=http://www3.nhk.or.jp/news/html/20130318/k10013276141000.html |date=2013-03-18 |newspaper=NHKニュース |publisher=日本放送協会 |accessdate=2013-03-23 |archiveurl=http://megalodon.jp/2013-0323-1722-34/www3.nhk.or.jp/news/html/20130318/k10013276141000.html |archivedate=2013-03-23}}</ref>。 なお、代表監督としては、大会前の早い段階から大会中にかけて、自らの構想と考えられる情報を国内マスコミに漏らす<ref>{{cite web|url= http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2012/12/15/kiji/K20121215004776300.html |title=侍ジャパン2番に稲葉内定 浩二監督「状況に応じた打撃できる」|publisher=スポーツニッポン|accessdate=2013-03-29}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.nikkansports.com/baseball/wbc/2013/news/p-bb-tp0-20130315-1097761.html|title=侍ダブル1番鳥谷、長野/WBC |publisher=日刊スポーツ|accessdate=2013-03-29}}</ref> ことが多々あった。 == 詳細情報 == === 年度別打撃成績 === {| {{年度別打撃成績|リーグ=日本プロ野球}} |- |style="text-align:center;"|{{by2|1969}} |rowspan="18" style="text-align:center;"|[[広島東洋カープ|広島]] |120||404||366||37||88||20||1||12||146||40||9||5||8||1||23||1||6||74||7||.240||.295||.399||.694 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1970}} |128||514||461||67||112||8||4||22||194||56||21||12||4||0||41||1||8||77||7||.243||.316||.421||.737 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1971}} |123||484||431||42||108||19||0||10||157||52||25||10||4||4||39||1||6||56||7||.251||.319||.364||.683 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1972}} |'''130'''||557||485||73||125||'''27'''||0||25||227||66||18||11||10||5||52||1||5||55||9||.258||.333||.468||.801 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1973}} |126||526||449||68||121||24||1||19||204||46||10||12||12||3||59||1||3||75||10||.269||.356||.454||.810 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1974}} |127||529||476||74||131||23||2||28||242||74||18||8||6||2||41||5||4||72||18||.275||.337||.508||.845 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1975}} |'''130'''||526||451||'''86'''||144||21||0||30||255||84||24||9||1||5||67||6||2||39||6||'''.319'''||.406||.565||.971 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1976}} |129||535||464||79||136||26||3||23||237||62||14||7||3||2||62||2||4||57||13||.293||.380||.511||.890 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1977}} |'''130'''||552||448||102||138||24||4||44||302||113||22||4||0||6||94||6||4||64||12||.308||.428||.674||1.102 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1978}} |'''130'''||563||473||'''114'''||153||28||0||'''44'''||'''313'''||112||12||4||0||4||84||9||2||74||10||.323||.425||'''.662'''||'''1.086''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1979}} |'''130'''||556||467||90||137||20||0||42||283||'''113'''||15||5||0||6||81||'''10'''||2||71||8||.293||.496||.606||1.002 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1980}} |'''130'''||539||440||'''91'''||148||28||3||'''44'''||'''314'''||'''112'''||14||12||0||7||'''87'''||11||5||52||13||.336||'''.445'''||'''.714'''||'''1.159''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1981}} |'''130'''||553||473||'''102'''||156||21||0||'''43'''||'''306'''||'''103'''||5||3||0||4||73||7||3||56||12||.330||.420||'''.647'''||'''1.066''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1982}} |'''130'''||544||448||84||137||21||0||30||248||90||8||3||0||7||'''87'''||9||2||56||14||.306||.415||.554||.969 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1983}} |129||558||462||86||146||19||2||'''36'''||277||101||5||6||0||8||'''85'''||11||3||62||11||.316||'''.419'''||.600||'''1.019''' |- |style="text-align:center;"|{{by2|1984}} |123||508||437||64||128||15||0||33||242||94||5||4||0||5||64||2||2||59||12||.293||.382||.554||.936 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1985}} |113||460||382||57||110||15||1||24||199||79||2||2||0||6||71||5||1||55||14||.288||.396||.521||.917 |- |style="text-align:center;"|{{by2|1986}} |126||501||439||48||121||13||0||27||215||78||4||2||0||4||58||6||0||69||10||.276||.367||.490||.847 |- !colspan="2"|通算:18年 |2284||9409||8052||1364||2339||372||21||536||4361||1475||231||119||48||79||1168||94||62||1123||193||.290||.381||.542||.923 |} * 各年度の'''太字'''はリーグ最高 === 年度別監督成績 === {| class="wikitable" style="text-align: right; font-size: small;" !年度!!順位!!試合数!!勝利!!敗戦!!引分!!勝率!!ゲーム差!!チーム<br>本塁打!!チーム<br>打率!!チーム<br>防御率!!年齢!!球団</th></tr> |- |[[1989年]]||2位||130||73||51||6||.589||9||101||.271||3.01||43歳||rowspan="10" |広島 |- |[[1990年]]||2位||132||66||64||2||.508||22||140||.267||3.57||44歳 |- |[[1991年]]||1位||132||74||56||2||.569||―||88||.254||3.23||45歳 |- |[[1992年]]||4位||130||66||64||0||.508||3||122||.260||3.60||46歳 |- |[[1993年]]||6位||131||53||77||1||.408||27||155||.253||4.29||47歳 |- |[[2001年]]||4位||140||68||65||7||.511||―||155||.269||3.82||55歳 |- |[[2002年]]||5位||140||64||72||4||.471||21||154||.259||4.36||56歳 |- |[[2003年]]||5位||140||67||71||2||.486||20||153||.259||4.23||57歳 |- |[[2004年]]||5位||138||60||77||1||.438||20||187||.276||4.75||58歳 |- |[[2005年]]||6位||146||58||84||4||.408||29.5||184||.275||4.80||59歳 |- !colspan="2"|通算:10年 |1358||648||681||29||.488||colspan="6" style="text-align: center;"|Aクラス3回、Bクラス7回 |} ; ※1 1989年から[[1996年]]までは130試合制 ; ※2 2001年から2004年までは140試合制 ; ※3 2005年から146試合制 === タイトル === * [[首位打者 (日本プロ野球)|首位打者]]:1回(1975年) * [[最多本塁打 (日本プロ野球)|本塁打王]]:4回(1978年、1980年、1981年、1983年) * [[最多打点 (日本プロ野球)|打点王]]:3回(1979年 - 1981年) * [[最高出塁率 (日本プロ野球)|最多出塁数]]:3回(1979年、1980年、1983年) === 表彰 === * [[最優秀選手 (野球)|MVP]]:2回(1975年、1980年) * [[ベストナイン (日本プロ野球)|ベストナイン]]:10回 (1975年、1977年 - 1984年、1986年) * [[ゴールデングラブ賞|ダイヤモンドグラブ賞]]:10回 (1972年 - 1981年)※外野手としての通算10回受賞・10年連続受賞は、ともに[[セントラル・リーグ|セ・リーグ]]記録。 * [[日本選手権シリーズ|日本シリーズ]]敢闘賞:1回 ([[1975年の日本シリーズ|1975年]]) * 日本シリーズ優秀選手賞:1回 ([[1984年の日本シリーズ|1984年]]) * [[月間MVP (日本プロ野球)|月間MVP]]:5回(1975年8月、1978年8月、1980年6月、1983年4月、1986年4月) * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]MVP:2回 ([[1975年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1975年]] 第1戦、[[1979年のオールスターゲーム (日本プロ野球)|1979年]] 第3戦) * [[野球殿堂 (日本)|野球殿堂]]入り (競技者表彰:2008年) === 記録 === ;節目の記録 *100本塁打:1974年6月13日、対[[阪神タイガース]]11回戦([[阪神甲子園球場]])、6回表に[[江夏豊]]から左越ソロ ※史上79人目 *150本塁打:1976年5月7日、対[[横浜DeNAベイスターズ|大洋ホエールズ]]5回戦([[川崎球場]])、7回表に[[田中章 (野球)|田中章]]から中越2ラン ※史上41人目 *1000試合出場:1976年10月5日、対阪神タイガース25回戦(広島市民球場)、4番・中堅手で先発出場 ※史上187人目 *1000本安打:1977年5月22日、対読売ジャイアンツ6回戦([[後楽園球場]])、9回表に[[定岡正二]]から右前安打 ※史上101人目 *200本塁打:1977年8月11日、対阪神タイガース16回戦(広島市民球場)、8回裏に[[宮田典計]]から左中間へ3ラン ※史上27人目 *250本塁打:1978年9月6日、対中日ドラゴンズ19回戦(ナゴヤ球場)、1回表に[[青山久人]]から中越2ラン ※史上15人目 *300本塁打:1980年4月8日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(広島市民球場)、1回裏に[[遠藤一彦]]から右越先制2ラン ※史上12人目 *1500本安打:1980年9月7日、対阪神タイガース19回戦(広島市民球場)、2回裏に[[山本和行]]から中前安打 ※史上40人目 *1500試合出場:1980年9月11日、対中日ドラゴンズ23回戦([[ナゴヤ球場]])、4番・中堅手で先発出場 ※史上64人目 *350本塁打:1981年4月28日、対中日ドラゴンズ4回戦(広島市民球場)、1回裏に[[三沢淳]]から左越先制2ラン ※史上10人目 *3000塁打:1981年6月18日、対読売ジャイアンツ15回戦(広島市民球場)、6回裏に定岡正二から ※史上16人目 *1000打点:1981年8月2日、対中日ドラゴンズ19回戦(広島市民球場)、1回裏に[[都裕次郎]]から左越先制2ラン ※史上13人目 *1000得点:1981年8月20日、対読売ジャイアンツ24回戦(広島市民球場)、1回裏に[[水谷実雄]]の先制決勝2点適時二塁打で生還 ※史上14人目 *400本塁打:1982年6月25日、対読売ジャイアンツ11回戦(広島市民球場)、6回裏に[[鹿取義隆]]から左中間へソロ ※史上8人目 *300二塁打:1982年7月14日、対横浜大洋ホエールズ13回戦([[横浜スタジアム]])、4回表に[[竹内広明]]から右中間二塁打 ※史上21人目 *3500塁打:1983年5月18日、対中日ドラゴンズ4回戦(ナゴヤ球場)、2回表に[[小松辰雄]]から左前安打 ※史上11人目 *450本塁打:1983年10月3日、対読売ジャイアンツ25回戦([[浜松球場]])、7回表に[[堀内恒夫]]から左越ソロ ※史上7人目 *2000本安打:1984年5月5日、対読売ジャイアンツ4回戦(後楽園球場)、4回表に[[槙原寛己]]から左前安打 ※史上19人目 *2000試合出場:1984年8月1日、対横浜大洋ホエールズ16回戦(広島市民球場)、4番・[[左翼手]]で先発出場 ※史上18人目 *1000三振:1985年5月5日、対横浜大洋ホエールズ5回戦(広島市民球場)、1回裏に遠藤一彦から ※史上9人目 *350二塁打:1985年6月5日、対横浜大洋ホエールズ11回戦(広島市民球場)、1回裏に[[関根浩史]]から ※史上14人目 *4000塁打:1985年6月13日、対阪神タイガース9回戦(広島市民球場)、3回裏に[[伊藤文隆|伊藤宏光]]から左前安打 ※史上8人目 *500本塁打:1985年7月26日、対中日ドラゴンズ12回戦(ナゴヤ球場)、2回表に[[杉本正 (野球)|杉本正]]から左中間へソロ ※史上4人目 ; その他の記録 * シーズン40本塁打以上:5回(1977年 - 1981年)※歴代3位タイ * シーズン30本塁打以上:9回(1975年、1977年 - 1984年)※歴代3位タイ * シーズン100打点以上:6回(1977年 - 1981年、1983年)※歴代3位 * 5年連続シーズン40本塁打以上(1977年 - 1981年)※歴代2位 * 8年連続シーズン30本塁打以上(1977年 - 1984年)※歴代3位 * 13年連続シーズン20本塁打以上(1974年 - 1986年)※歴代3位タイ * 5年連続シーズン100打点以上(1977年 - 1981年)※歴代3位タイ * 17年連続シーズン100安打以上(1970年 - 1986年)※歴代4位タイ * [[サイクル安打|サイクルヒット]]:1983年4月30日、対阪神タイガース4回戦(阪神甲子園球場) ※史上36人目 * 9打数連続安打(1972年7月6日 - 7月8日) * 302守備機会連続無[[失策]](1975年4月5日 - 9月24日)※外野手としてのセ・リーグ記録 * 872試合連続出場(1976年10月22日 - 1983年8月28日)※歴代11位 * 入団の年から引退の年まで規定打席到達(1969年 - 1986年) * 通算500本塁打・200盗塁達成(1985年7月26日)※史上2人目 * 通算満塁本塁打:11本(1972年、1974年、1977年、1978年、1980年、1981年、1982年、1983年、1984年)※歴代9位タイ * 通算[[長打率]]:.5416(1969年 - 1986年)※歴代10位 * 通算外野手[[刺殺]]:4637 ※歴代2位、セ・リーグ記録 * 通算外野手[[補殺]]:154 ※歴代2位、セ・リーグ記録 * 通算外野手[[守備機会]]:4830 ※歴代2位、セ・リーグ記録 * [[オールスターゲーム (日本プロ野球)|オールスターゲーム]]出場:14回(1973年 - 1986年) * オールスターゲーム通算打率:.316 ※100打数以上では歴代3位 * オールスターゲーム通算本塁打:14本 ※歴代1位 * オールスターゲーム通算打点:27 ※歴代3位タイ === 背番号 === * '''27''' (1969年 - 1970年) * '''8''' (1971年 - 1986年、2001年 - 2005年) * '''88''' (1989年 - 1993年) === 登録名 === * '''山本 浩司'''(やまもと こうじ)(1969年 - 1974年) * '''山本 浩二'''(やまもと こうじ)(1975年 - ) == 関連情報 == === レコード === * 『[[ひとり (山本浩二の曲)|ひとり]]』([[ソニー・ミュージックエンタテインメント (日本)|CBSソニーレコード]]/[[1975年]]) === 著書 === * 「栄光の背番号8 これがオレの野球人生だ」(1986年、交通タイムス社) * 「浩二の赤ヘル野球」(1989年 文藝春秋) 1987~88年週刊文春に連載されたコラムを加筆修正し収録 === 漫画・アニメ === * [[野球狂の詩]] * [[ミラクルジャイアンツ童夢くん]]-声は[[沢木郁也]] === 野球解説者としての出演 === ;NHK時代 *[[NHKプロ野球]] *[[サンデースポーツ|サンデースポーツスペシャル]](1986年11月-1988年10月) ;日本テレビ・広島テレビ時代 *[[Dramatic Game 1844]](現行題名) === ドラマ === * [[最後のストライク]]([[フジテレビ]]、2000年7月28日)[[津田恒実]]を題材にしたドラマ。ホテルのイベントチーフ役で出演した。 === 映画 === * [[BADBOYS#実写映画(2011年)|BADBOYS]](2011年、全力エージェンシー)特別出演 === バラエティ === * [[中井正広のブラックバラエティ]]([[日本テレビ]]) 不定期出演 === CM === ;現役時代 * ヒロウン「リーグスター野球用品」 * ますやみそ 味噌(広島ローカル。『'''麹'''の良さが決め手』がキャッチフレーズで、[[津田恒実]]に「ウチのチームと一緒ですね! ねぇ、'''浩二'''さん!」とギャグを言われる) * ゴールドもみじ(広島ローカル。『ゴールドもみじはお菓子のホームラン王です』というフレーズを言う) ;引退後 * [[味の素]]「ほんだし いりこだし」 * [[ロート製薬]]「新V・ロート」(1987-1988年) * [[ブリヂストン]] 自転車([[浅野ゆう子]]と共演) * [[サントリー]]「モルツ」 * [[ハウス食品]] “カレーはハウス”キャンペーン(1994年)、“カレーでファイト!”キャンペーン(2008年)(いずれも田淵幸一・星野仙一と共演) * [[興和]]「バンテリン」(2000年代) ==脚注== <references /> == 関連項目 == * [[広島県出身の人物一覧]] * [[法政大学の人物一覧]] * [[広島東洋カープの選手一覧]] == 外部リンク == * [http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kennsyou/1168843964558.html 県民栄誉賞 山本浩二(やまもと・こうじ) - 広島県ホームページ] * [http://www.sponichi.co.jp/baseball/yomimono/wagamichi_yamamoto/index.html 山本浩二監督「我が道」特別版 ― スポニチ Sponichi Annex 野球] * [http://www.yakyutsuku-online.com/hangame/library/special/vol19/ 山本 浩二|プロ野球チームをつくろう!ONLINE 2] {{Navboxes|title=野球日本代表 |list1= </span> {{2013 ワールド・ベースボール・クラシック日本代表}} {{北京オリンピック野球日本代表}} }} {{Navboxes|title=監督歴 |list1= </span> {{ワールド・ベースボール・クラシック日本代表監督}} {{広島東洋カープ歴代監督|広島東洋カープ|1989 - 1993, 2001 - 2005}} }} {{Navboxes|title=業績 |list1= </span> {{名球会}} {{セントラル・リーグ優勝監督}} {{日本シリーズ優秀選手}} {{日本シリーズ敢闘賞}} {{日本プロ野球オールスターゲームMVP}} {{セントラル・リーグMVP}} {{セントラル・リーグ首位打者}} {{セントラル・リーグ本塁打王}} {{セントラル・リーグ打点王}} {{セントラル・リーグ最高出塁率|最多出塁数}} {{セントラル・リーグ ベストナイン (外野手)}} {{セントラル・リーグ ゴールデングラブ (外野手)|ダイヤモンドグラブ}} }} {{広島東洋カープ1968年ドラフト指名選手}} {{DEFAULTSORT:やまもと こうし}} [[Category:日本の野球選手]] [[Category:法政大学野球部の選手]] [[Category:広島東洋カープ及び広島カープの選手]] [[Category:首位打者 (NPB)]] [[Category:本塁打王 (NPB)]] [[Category:打点王 (NPB)]] [[Category:最優秀選手 (NPB)]] [[Category:広島東洋カープ及び広島カープの監督]] [[Category:野球監督]] [[Category:野球解説者]] [[Category:名球会]] [[Category:野球に関する記事]] [[Category:日本の野球殿堂表彰者]] [[Category:日本の歌手]] [[Category:広島市出身の人物]] 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山本浩二
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