コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
少弐貞経のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
少弐貞経
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
'''少弐 貞経'''(しょうに さだつね、[[文永]]9年([[1272年]]) - [[建武 (日本)|建武]]3年/[[延元]]元年[[2月29日 (旧暦)|2月29日]]([[1336年]][[4月11日]]))は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[武将]]。[[少弐氏]]の第5代当主。 父は[[少弐経資]]の子・[[少弐盛経]](もりつね)。子に[[少弐頼尚]]、[[馬場経員|経員]](つねかず、[[馬場氏|少弐馬場氏]]祖)がいる。[[鎌倉幕府]]の[[執権]]・[[北条貞時]]より[[偏諱]]を受けて'''貞経'''と名乗る。 == 生涯 == [[元弘]]3年/[[正慶]]2年([[1333年]])3月、[[菊池武時]]が[[鎮西探題]]の[[北条英時]]を攻めたとき、英時側について武時を敗死に追い込んだ。しかし[[六波羅探題]]が[[足利尊氏|足利高氏]]によって落とされたことを知ると、英時を裏切って、今度はこれを敗死に追い込んだ。その功績を賞されて[[建武の新政]]下では[[筑前国|筑前]]・[[豊前国|豊前]]・[[筑後国|筑後]]の[[守護]]に任じられた。建武2年([[1335年]])の[[中先代の乱]]を契機として尊氏(高氏)が[[後醍醐天皇]]に反逆するとこれに応じ、翌[[建武 (日本)|建武]]3年/[[延元]]元年([[1336年]])2月には息子の[[少弐頼尚|頼尚]]を援軍として派遣した。ところが、主力軍が留守になったのを見て[[菊池武敏]]や[[阿蘇惟直]]といった後醍醐天皇方の一派が攻め込んでくる。貞経は懸命に戦ったが、同年2月29日に有智山城にて自害することを余儀なくされてしまった。[[享年]]65。法号は妙恵高鑑。後を頼尚が継いだ。 {{少弐氏当主}} {{DEFAULTSORT:しように さたつね}} [[Category:少弐氏|さたつね]] [[Category:鎌倉時代の武士|鎌倉時代の武士]] [[Category:室町・安土桃山時代の武士]] [[Category:1272年生]] [[Category:1336年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:少弐氏当主
(
ソースを閲覧
)
少弐貞経
に戻る。
検索
検索
少弐貞経のソースを表示
話題を追加