コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
小林正樹のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
小林正樹
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{Otheruses|映画監督の小林正樹|演出家|小林正樹 (演出家)|[[内山田洋とクール・ファイブ]]のメンバー|内山田洋とクール・ファイブ}} {{ActorActress | 芸名 = 小林 正樹 | ふりがな = こばやし まさき | 画像ファイル = | 画像サイズ = | 画像コメント = | 別名 = | 出生地 = {{JPN}}・[[北海道]][[小樽市]] | 国籍 = | 民族 = | 血液型 = | 生年 = 1916 | 生月 = 2 | 生日 = 14 | 没年 = 1996 | 没月 = 10 | 没日 = 4 | 職業 = [[映画監督]] | ジャンル = | 活動期間 = | 活動内容 = | 配偶者 = | 家族 = | 公式サイト = | 主な作品 =[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]<br/>[[切腹 (映画)|切腹]]<br/>[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]<br/>[[上意討ち 拝領妻始末]]<!--皆が認める代表作品を入力--> | カンヌ国際映画祭 = '''[[カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ|審査員特別賞]]'''<br />[[第16回カンヌ国際映画祭|1963年]] 『[[切腹 (映画)|切腹]]』<br />[[第18回カンヌ国際映画祭|1965年]] 『[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]』 | ヴェネツィア国際映画祭 = '''国際映画批評家連盟賞'''<br />1967年 『[[上意討ち 拝領妻始末]]』<br />'''サン・ジョルジュ賞'''<br />1960年 『[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]』 | ベルリン国際映画祭 = '''国際映画批評家連盟賞'''<br />[[第35回ベルリン国際映画祭|1985年]] 『東京裁判』 }} '''小林 正樹'''(こばやし まさき、[[1916年]][[2月14日]] - [[1996年]][[10月4日]])は日本の[[映画監督]]。 なお、『TAKI 183』や『[[時空警察]]』を手がける演出家の小林正樹とは別人である。 ==人物・来歴== [[北海道]][[小樽市]]に会社員の息子として生まれる。女優[[田中絹代]]の[[はとこ|又従弟]]<ref>[http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kinuyo21/kyoukai/kyoukai.htm NPO法人 田中絹代メモリアル協会とは] [http://www.aa.alpha-net.ne.jp/kinuyo21/top.htm NPO法人田中絹代メモリアル協会公式サイト]内</ref><ref>[[倉本聰]]『愚者の旅 わがドラマ放浪』[[理論社]]、2002年、p.137.</ref>に当たる。[[早稲田大学]][[文学部]]哲学科で東洋美術を専攻し、[[会津八一]]に師事する。在学中に田中絹代に誘われて映画「桑の實は紅い」([[清水宏 (映画監督)|清水宏]]監督)のロケ現場に1ヶ月参加する。[[1941年]](昭和16年)[[早稲田大学]]卒業。卒業論文は「[[室生寺]]建立年代の研究」。 同年に[[松竹大船撮影所]][[助監督 (映画スタッフ)|助監督]]部に入社する。同期には[[野村芳太郎]]がいた。入社試験に際しては、親しい間柄であった田中絹代に紹介を頼んだが、「映画界は実力がなければ通用しない」と諭され、田中の縁者であることを隠し通したという。同年、「暁の合唱」(清水宏監督)、「風薫る庭」([[大庭秀雄]]監督)に助監督として就いたのち、応召する。満州においてソ連国境線の警備にあたる。軍務の合間を縫ってシナリオ『防人』を執筆。[[1944年]](昭和19年)に[[宮古島]]へ移動、[[飛行場]]建設作業に従事する。[[1945年]](昭和20年)、宮古島で終戦を迎えるが、労働要員として沖縄本島嘉手納捕虜収容所に収容される。 [[1946年]](昭和21年)に復員して[[松竹]]大船撮影所に戻り、[[1947年]](昭和22年)助監督として[[木下恵介]]監督につく。[[1948年]](昭和23年)の『[[破戒 (小説)#1948年版|破戒]]』から『日本の悲劇』まで11作品でチーフを務め、木下門下の優等生と呼ばれた。[[1952年]](昭和27年)、中編『息子の青春』を監督し、[[1953年]](昭和28年)木下が脚本を手がけた『まごころ』で正式に監督に昇進。同年[[安部公房]]の脚本により、無実の罪で投獄された[[BC級戦犯]]を描いた重厚な作品『壁あつき部屋』を監督するが、アメリカ合衆国への配慮から[[1956年]](昭和31年)まで公開が見送られた。その後、[[プロ野球]]の内幕を暴露した『あなた買います』や、基地の町の退廃を描写した[[1957年]](昭和32年)『[[黒い河]]』などが評価される。 [[1959年]](昭和34年)から[[1961年]](昭和36年)の3年間にかけて公開された『[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]』は、[[五味川純平]]原作の大長編反戦小説「[[人間の條件 (小説)|人間の條件]]」の映画化で、長きに渡る撮影期間と莫大な製作費をつぎ込み、6部作、9時間31分の超大作となった。完成した作品は、戦時中の[[日本軍]]の暴虐と、それに反抗した[[インテリ]]兵の逆境と敗戦、逃亡、死を見事に描ききり、毎日芸術賞、[[毎日映画コンクール]]監督賞、[[ヴェネツィア国際映画祭]][[サン・ジョルジョ賞]]を受賞する。続く[[1962年]](昭和37年)、[[滝口康彦]]の小説「異聞浪人記」を原作にした[[橋本忍]]の脚本を得、自身でも「自作の中で最も密度が高い」と豪語した初の時代劇『[[切腹 (映画)|切腹]]』で[[カンヌ国際映画祭]]審査員特別賞を受賞。続いて[[小泉八雲]]の原作『[[怪談 (小泉八雲)|怪談]]』を[[オムニバス]]方式で映画化した初のカラー作品『[[怪談 (1965年の映画)|怪談]]』は3時間の大作で、2度目のカンヌ国際映画祭審査員特別賞を受けたほか、[[アカデミー賞]]外国語映画賞にノミネートされ、日本映画史上屈指の傑作と絶賛された。撮影は廃屋となっていた航空機の格納庫に大規模なセットを組んで行われ、ホリゾントに描かれた空の絵などに、美術を担当した[[戸田重昌]]の才気が光り、[[武満徹]]による音楽は、画や演技との掛け合いを行う音響のような効果を存分に発揮し、幻想的な世界を作り上げた。しかし、大規模なセット、長期に亘る撮影、スタッフ・キャストほか800名にもおよぶ大編成のため、製作費が大幅に膨らみ、多くの名作を世に送ってきた独立プロダクション「[[文芸プロダクションにんじんくらぶ]]」は、多額の負債を抱えて倒産するという憂き目に合う。 [[1965年]](昭和40年)松竹を退社して[[東京映画]]と契約し、[[1967年]](昭和42年)[[三船プロ]]第1作となる『[[上意討ち 拝領妻始末]]』を監督して、ヴェネツィア国際映画祭で国際映画批評家連盟賞を受賞、[[キネマ旬報#キネマ旬報ベスト・テン|キネマ旬報ベスト・ワン]]となった。[[1968年]](昭和43年)の『日本の青春』のあとフリーとなり、[[1969年]](昭和44年)には[[黒澤明]]、木下恵介、[[市川崑]]とともに「[[四騎の会]]」を結成。[[1971年]](昭和46年)にはカンヌ国際映画祭で25周年記念として世界10大監督の1人として功労賞を受賞。同年から俳優座映画放送製作『[[いのちぼうにふろう]]』を監督や[[井上靖]]の長編小説をテレビドラマ化と同時に映画も製作した[[1975年]](昭和50年)の『化石』などといった話題作を発表。 [[1982年]](昭和57年)には足掛け5年の歳月をかけて米国国防総省の保管フィルムや内外のニュース映像などをつなぎ合わせ、[[極東国際軍事裁判]]の長編記録映画『東京裁判』を完成させた。『東京裁判』は、[[立花隆]]などから肯定的な評価を得た一方、[[南京大虐殺|南京事件]]に関する映像に中国・国民政府が作成した信憑性の低い『[[中国之怒吼]]』のフィルムを挿入した事が批判を受けるなど、評価が分かれた。この間、井上靖原作の「[[敦煌 (小説)|敦煌]]」の映画企画を長年温め、脚本も完成していたが、製作を決定した新生[[大映]]社長の[[徳間康快]]とのあいだで方針の食い違いを生じ、断念せざるをえなかった。[[1985年]](昭和60年)[[円地文子]]原作の[[連合赤軍]]事件を題材にした『[[食卓のない家]]』を監督。これが最後の映画監督作品になる。 小林は、癌を患っていた又従姉である女優・田中絹代の晩年の面倒を看た。身寄りがない田中は借金をしており、邸宅が抵当に入っていた。そのため、小林は田中の法的な相続権もなく賃貸借の証文もないまま、田中のために奔走し、小林は自らが借金をして抵当権を解除、田中の入院費をも負担した<ref>倉本聰『愚者の旅 わがドラマ放浪』理論社、2002年、pp.137-139.</ref>。田中の死後の1985年(昭和60年)に小林自身が病気で倒れた際には急遽、彼の働きで[[毎日映画コンクール]]に[[田中絹代賞]]が創設され、[[日本映画]]界の発展に貢献した女優に授与されることとなった。晩年は大学時代の恩師会津八一の[[伝記映画]]の準備をしていたが、[[1996年]](平成8年)10月4日、[[心筋梗塞]]のため[[東京都]][[世田谷区]]の自宅で80歳で死去。遺骨は、[[神奈川県]][[鎌倉市]]の[[円覚寺]]と、絹代の出生地であり墓がある[[山口県]][[下関市]]の市営下関中央霊園に分骨されている。 ==監督作品== *[[息子の青春]](1952年) *[[まごころ (1953年の映画)| まごころ]](1953年) *[[この広い空のどこかに]](1954年) *[[三つの愛]](1954年) *[[美わしき歳月]](1955年) *[[壁あつき部屋]](1956年) *[[あなた買います]](1956年) *[[泉(1953年の映画)|泉]](1956年) *[[黒い河]](1957年) *[[人間の條件 (映画)|人間の條件]]・第一・第二部(1959年) *人間の條件・第三・第四部(1959年) *人間の條件・完結篇(1961年) *[[からみ合い]](1962年) *[[切腹 (映画)|切腹]](1962年) *[[怪談 (1965年の映画)|怪談]](1965年) *[[上意討ち 拝領妻始末]](1967年) *[[日本の青春]](1968年) *[[いのちぼうにふろう]](1971年) *[[化石 (映画)|化石]](1975年) *[[燃える秋]](1978年) *[[東京裁判 (1983年の映画)|東京裁判]](1983年) *[[食卓のない家]](1985年) == 脚注 == <references /> {{毎日芸術賞}} {{毎日映画コンクール監督賞}} {{デフォルトソート:こはやし まさき}} [[Category:日本の映画監督]] [[Category:松竹の人物]] [[Category:北海道出身の人物]] [[Category:1916年生]] [[Category:1996年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:ActorActress
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Otheruses
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:毎日映画コンクール監督賞
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:毎日芸術賞
(
ソースを閲覧
)
小林正樹
に戻る。
検索
検索
小林正樹のソースを表示
話題を追加