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'''尊良親王'''(たかよししんのう / たかながしんのう、[[1310年]]([[延慶 (日本)|延慶]]3年)? - [[1337年]][[4月7日]]([[延元]]2年 / [[建武 (日本)|建武]]4年[[3月6日 (旧暦)|3月6日]]))は、[[鎌倉時代]]後期から[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]にかけての[[皇族]]。[[後醍醐天皇]]の[[皇子]]。母は[[二条為世]]の娘・為子。[[宗良親王]]の同母兄。名前の読みが2種類あることについては、[[後醍醐天皇#皇子の読み|後醍醐天皇の皇子の読み]]を参照。 == 経歴 == [[File:Deathplace of Prince Takayoshi.jpg|thumb|尊良親王が自刃した地とされる金ヶ崎城跡の尊良親王陵墓見込地]] 幼少時は[[吉田定房]]に養育された。[[1326年]]([[嘉暦]]元年)に元服し、中務卿に任じられた。[[1331年]]([[元徳]]3年)1月には一品に叙任されたことから、一品中務卿親王と称された。[[元弘の乱]]では父と共に[[笠置山 (京都府)|笠置山]]に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、[[土佐国]]に流された。しかし脱出して翌年には[[九州]]に移り、その後、[[京都]]に帰還した。[[1335年]](建武2年)、[[足利尊氏]]が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として[[新田義貞]]と共に討伐軍を率いたが、敗退した。翌年、九州に落ちた尊氏が力を盛り返して上洛してくると、義貞と共に北陸に逃れた。しかし1337年(延元2年/建武5年)3月6日、尊良親王が拠った[[越前国]][[金ヶ崎城]]に足利軍が攻めて来る([[金ヶ崎の戦い (南北朝時代)|金ヶ崎の戦い]])。尊良親王は義貞の子・[[新田義顕]]と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、3月6日に義顕や他の将兵と共に自害した。 自害の寸前、義顕は尊良親王に落ち延びることを勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げることはできないと述べて拒絶したという。 == 皇子・皇女 == *第一皇子・[[守永親王]](母は[[右大臣]][[西園寺公顕]]の女・藤原清子、後醍醐天皇猶子・纂集御系図) *第二皇子・基良親王(母は同上、[[二条良基]]の養子となる。後、僧籍に入り、良玄法親王、宮崎山伝正院開基) == 外部リンク == *[http://www.burari2161.fc2.com/takayosisinnou.htm 尊良親王] *[http://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/kyoto/sakyo/016.htm 尊良親王墓] *[http://kanegasakigu.jp/yuisho.html 金崎宮] == 関連項目 == *[[北陸朝廷]] *[[後醍醐天皇]] *[[興国天皇]] *[[大覚寺統]] *[[太平記]] {{DEFAULTSORT:たかよししんのう}} [[Category:日本の親王]] [[Category:鎌倉時代の男性皇族]] [[Category:室町・安土桃山時代の男性皇族]] [[Category:南北朝時代の人物 (日本)]] [[category:日本の神 (人物神 建武中興)]] [[Category:1310年生]] [[Category:1337年没]]
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