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対馬国
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{{Pathnav|令制国一覧|西海道|frame=1}} {{基礎情報 令制国 |国名 = 対馬国 |画像 = {{令制国地図 (令制国テンプレート用)|対馬国}} |別称 = 対州(たいしゅう) |所属 = [[西海道]] |領域 = [[長崎県]][[対馬市]]([[対馬島]]) |国力 = [[下国]] |距離 = [[遠国]] |郡 = 2郡9郷 |国府 = 長崎県対馬市 |国分寺 = (推定)長崎県対馬市 |国分尼寺 = (未詳) |一宮 = [[海神神社]](長崎県対馬市)<br/>[[厳原八幡宮]](長崎県対馬市) }} '''対馬国'''(つしまのくに)は、かつて[[日本]]の地方行政区分だった[[令制国]]の一つ。[[西海道]]に属する。 == 概要 == 対馬国の初見は、『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』[[魏志倭人伝]]の'''對馬國'''(対馬国)である(三国志のテキストの間でも版によって表記が異なり、現存する最古の版である紹煕〈しょうき〉本では對海國、よりポピュラーな版である紹興〈しょうこう〉本では對馬國となっている)。倭人伝の「今、使訳を通ずるところ三十国」のうちの一国。日本では'''津島'''とも書かれたが、[[7世紀]]に[[律令制]]の地域区分として対馬国が設けられると、「対馬」の表記に定まった。 『[[古事記]]』の建国神話には、最初に生まれた島々(「[[大八島|大八洲]]」)の1つとして「津島」と記されている。『[[日本書紀]]』の[[国産み|国産み神話]]のなかには「対馬洲」「対馬島」の表記で登場する。古くから[[ユーラシア大陸]]との交流があり、歴史的には[[朝鮮半島]]と[[倭国]]・[[倭人]]・[[ヤマト王権|ヤマト]]をむすぶ交通の要衝であった。 対馬国は[[律令制]]下で'''対馬島'''とも呼ばれ、その国司は島司とも呼ばれた。[[701年]]([[大宝 (日本)|大宝]]元年)の[[大宝律令]]では「対馬島」と改称され、のちに再び「対馬国」に復している。 国内には[[上県郡]]、[[下県郡]]の2郡が置かれた。上県(かみあがた)郡は伊奈(いな)、久須(くす)、向日(むかい)、三根(みね)、佐護(さご)の5郷、下県(しもあがた)郡は豆酘(つつ)、鶏知(けち)、賀志(かし)、与良(よら)、玉調(たまつき)の5郷から成った。[[大化]]以前は上県、下県の両[[国造]]の領域であった。 『[[延喜式]]』によれば、[[大宰府]]からの海路行程は4日、正税3,920束、[[庸]]と中男作物は免除され、特産品としては[[銀]]を納めることとなっていた。 == 歴史 == {{main|対馬#歴史}} === 先史時代 === 魏志倭人伝には「対馬国」が[[倭国]]の1国として登場し、[[邪馬台国]]に服属したことが記されている。「対馬国」の地誌については、同書は以下のように説明している。 {{quotation| 始度一海千余里 至対馬国 其大官曰卑狗 副曰卑奴母離。所居絶島 方可四百余里。土地山険 多深林 道路如禽鹿径。有千余戸。無良田 食海物自活 乗船南北市糴。 }} :訳;はじめて一つ海を渡る。一千余[[里]]ある。対馬国に至る。そこの大官(長官)は卑狗(ひこ、ひく)といい、副官は卑奴母離(ひなもり)という。住んでいるところは海に囲まれた島で、広さは四方四百余里ばかりである。その土地は山が険しく、深い森が多く、道路はけものや鹿の通り道のようである。また人家は千余戸がある。良い田がなく、海の物を食べて自活し、船に乗り南や北に海を渡って穀物を買い入れている。 [[弥生時代]]の対馬北部の集落遺跡[[塔の首遺跡]](対馬市[[上対馬町]])では、[[石棺]]の内外に[[朝鮮半島]]系および[[中国]]系のもの(方格規矩文鏡・銅釧・陶質土器など)と[[北九州]]系のもの(広鋒銅矛・玉など)が一緒に副葬されており、『魏志』における「南北市糴」の記載を裏づけている<ref>新川(1998)p.23</ref>。 4世紀になると対馬にも本格的に[[古墳時代]]が到来する。[[4世紀]]後半以降、東海岸の鶏知浦周辺に畿内型の前期古墳で島内最大の[[出居塚古墳]](対馬市[[美津島町]])が出現し、つづいて[[前方後円墳]]をふくむ[[根曽古墳群]](対馬市美津島町)がつくられ、[[5世紀]]から[[6世紀]]後半におよんでいる<ref name=shin29>新川(1998)p.28-29</ref>。4世紀後半代には北部に[[大将軍山古墳]](対馬市[[上県町]])がつくられたものの、全体からみれば、古墳分布は、旧来の[[浅茅湾]]周辺の社会集団と関係を結びながら、[[ヤマト王権]]との連絡に好適な東海岸鶏知浦付近に[[王権]]と直接つながるような[[首長]]層が成立してきたことを物語る<ref name=shin29/>。 === 古代 === [[白村江の戦い]]ののち対馬には[[防人]]と[[烽火|烽]]が置かれ、山城も築かれて外寇の防備としたが、8世紀から9世紀にかけての[[新羅の入寇]]、11世紀の[[刀伊の入寇]]などしばしば戦火をこうむった。 ==== 飛鳥時代 ==== 島の首長について、『[[先代旧事本紀]]』の「国造本紀」では「津島県直」と伝える。[[古墳時代]]にはヤマト王権がたびたび朝鮮半島に出兵しており、こうした状況は『[[日本書紀]]』、『[[広開土王碑文]]』、『[[宋書]]』倭国伝、『[[三国史記]]』の記載でも認められる。このなかで対馬の具体的な地名が登場するのは、『日本書紀』における[[神功皇后]]の[[新羅]]征討伝承であり、それにかかわって「和珥津(わにのつ)」の地名が登場し、対馬に[[屯倉]]を設置したと記述される。朝鮮側の記録としては、『三国史記』に新羅王[[実聖尼師今]]の治世7年([[408年]])に、倭人が新羅を襲撃するため対馬島内に軍営を設置していたことが記されている。 [[645年]]の[[大化改新]]ののち[[律令制]]が施行されると、対馬は[[西海道]]に属する[[令制国]]すなわち対馬国として現在の[[厳原]](いづはら)に[[国府]]が置かれ、[[大宰府]]の管轄下に入った。[[推古天皇]]における[[600年]](推古8年)と[[607年]](推古15年)の[[遣隋使]]も、また[[630年]]([[舒明天皇|舒明]]2年)の[[犬上御田鍬]]よりはじまる初期の[[遣唐使]]もすべて航海は[[壱岐]]と対馬を航路の寄港地としていた。 [[663年]]([[天智天皇|天智]]2年)の[[白村江の戦い]]以後、[[倭国]]は、[[唐]]・[[新羅]]の侵攻に備え、[[664年]]には対馬には防人(さきもり)が置かれ、烽(とぶひ)が8ヶ所に設置された。防人はおもに[[東国]]から徴発され、『[[万葉集]]』には数多くの[[防人歌]]がのこっている。[[667年]](天智6年)には浅茅湾南岸に山城[[金田城]]を築いて国境要塞とし、[[674年]]([[天武天皇|天武]]3年、[[白鳳]]2年)には厳原が正式な[[国府]]の地に定まって、同年、対馬[[国司]]守[[忍海造大国]](おしみのみやつこのおおくに)が対馬で産出した[[銀]]を[[ヤマト王権#大和朝廷|朝廷]]に献上した。これが日本で初めての銀の産出となった。([[対馬銀山]]) [[701年]]([[文武天皇|文武]]5年)、対馬で産出したと称する[[金]]を朝廷に献上したところ、これを慶んだ朝廷によって「[[大宝 (日本)|大宝]]」の[[元号]]が建てられた。ただし、これは現在では偽鋳であるといわれている。なお、同年制定の[[大宝律令]]において対馬国は「対馬島」と表記されている<ref>[[池上裕子]]、[[小和田哲男]]、[[小林清治]]、[[池享]]、[[黒川直則]]編『クロニック 日本全史』([[講談社]]、[[1995年]])111頁参照。</ref>。 ==== 奈良時代 ==== 防人の制は、3年交代で東国から派遣された兵士2,000余人によって成り立っていたが、[[737年]](天平9年)にはこれを止め、九州本土の筑紫国人を壱岐・対馬に派遣することに改めたが再び東国防人の制が復活し、[[757年]]([[天平宝字]]元年)にはそれも廃して西海道のうち7国([[筑前国]]・[[筑後国]]・[[肥前国]]・[[肥後国]]・[[豊前国]]・[[豊後国]]・[[日向国]])の兵1,000人をもってこれに代えることとした<ref name=kenshi43>新川(1998)p.43-44、池上裕子前掲『クロニック 日本全史』(講談社、1995年)123頁参照。</ref>。[[741年]]([[天平]]13年)、「[[鎮護国家]]」をめざした聖武天皇の国分寺建立の詔により対馬にも府中厳原の地に島分寺が建立されたが、講師はいったん廃された。 なお、[[759年]](天平宝字3年)に藤原仲麻呂が新羅征討を準備したとき、東国の船団編成に肥前国2,400人、対馬島200人の水手(かこ)が含まれていたという<ref name=kenshi43/>。 ==== 平安時代 ==== [[平安時代]]に入って[[桓武天皇]]の時代には防人制は広く廃止され、[[軍団制]]に改められたが、壱岐・対馬の両国に関しては例外として防人を残した<ref name=kenshi43/>。度々起こった[[新羅の入寇]]では、[[813年]]([[弘仁]]4年)の[[新羅の入寇#弘仁の韓寇|弘仁の韓寇]]は対馬を襲撃したものではなかったが、入寇ののち対馬には新羅語の通訳を置いた。[[841年]]([[承和 (日本)|承和]]8年)には、大宰府の属官(曹)104人が対馬の防人にあてられた。 律令制の弛緩は対馬国においても例外ではなかった。『[[日本文徳天皇実録]]』[[天安 (日本)|天安]]元年([[857年]])六月条に対馬国守として立野正岑の名がみえるが、同年に上県郡主擬主帳卜部川知麻呂、下県郡擬大領直浦主らが率いる300余の島民が国守立野正岑の館を襲撃し、国司を惨殺した事件が起こっている<ref name=sakimori>[http://members.jcom.home.ne.jp/ochozt-t/ikihtm/Historyiki.htm 防人の島-壱岐・対馬の歴史]</ref>。 [[870年]]([[貞観 (日本)|貞観]]12年)には対馬に選士50人が配され、[[874年]](貞観16年)には新羅人が対馬に漂着したものの帰国させられた。[[894年]]([[寛平]]6年)には新羅の賊船大小100隻、約2,500人が[[佐須浦]](さすうら)に襲来したが国守[[文屋善友]]が撃退している([[新羅の入寇#寛平の韓寇|寛平の韓寇]])。 [[936年]]([[承平 (日本)|承平]]6年)、朝鮮半島を[[高麗]]が統一し、対馬に高麗の[[南原府]]の[[咸吉兢]]が対馬に漂着したという。また、10月15日には[[金海府]]の[[李純達]]が大宰府に到着の報が届いたが国交成立に至らなかったとされる<ref>池上裕子前掲『クロニック 日本全史』(講談社、1995年)173頁参照。</ref>。 [[1019年]]([[寛仁]]3年)、正体不明の賊船50隻が対馬を襲撃した。記録されているだけで殺害された者365名、拉致された者1,289名で、有名な対馬銀鉱も焼損した。これは、[[奴隷]]にすることを目的に日本人を略奪したものであり、被害は対馬のみならず壱岐・北九州におよんだ。のちに賊の正体が刀伊([[女真]]族)であることが判明し、この事件は「[[刀伊の入寇]]」と呼ばれるようになる。女真族は、このとき対馬の判官代[[長岑諸近]]とその一族を捕虜にしており、諸近は1度は逃亡できたものの妻子をたずねて高麗にわたり、日本人捕虜の悲惨な境遇を見聞して帰国したという記録がのこっている<ref name=tbs>田中健夫(1974)</ref>。 対馬国は、古代後半にあっては[[阿比留氏]]などの[[在庁官人]]による現地支配がなされていた。 [[1094年]]([[嘉保]]2年)[[5月25日 (旧暦)|5月25日]]、[[大宰帥|前大宰権帥]]の[[正二位|正二位行]][[権官|権]][[中納言]][[藤原伊房]]が[[国司|前対馬守]][[藤原敦輔]]と謀り、[[国禁]]の[[私貿易]]をおこない発覚。伊房は[[従二位]]に降格の上、敦輔は[[従五位|従五位下]]の位階を剥奪された<ref>池上裕子前掲『クロニック 日本全史』([[講談社]]、[[1995年]])201頁参照。</ref>。 [[1101年]]([[康和]]3年)[[7月7日 (旧暦)|7月7日]]、対馬守[[源義親]]が現地で大宰府の命をきかず、官物を横領し、人民を苦しめるとの報が太宰権帥[[大江匡房]]より朝廷にもたらされ、義親追討の官符が発せられる。源義親は天下第一武勇の士として名高い[[河内源氏]]の棟梁・[[源義家|八幡太郎義家]]の次男にして[[源氏嫡流]]の後継者であった。義親の追討以降、源氏の[[嫡流]]は勢力が衰え、義親に追討に功のあった平氏が台頭する契機となった<ref>池上裕子前掲『クロニック 日本全史』(講談社、1995年) 202頁参照。</ref>。 === 中世 === [[1274年]]([[文永]]11年)と[[1281年]]([[弘安]]4年)の2度に渡って[[元寇]]の襲来を受け、[[宗助国]]は迎撃したが戦死。一時[[元 (王朝)|元]][[軍]]に占領された。その際、住民の男性は虐殺され、女性は手に穴を開けられ紐を通して繋がれ連れ去られたと史書には記されている。 [[倭寇]]の主要根拠地の1つとされ、この倭寇討伐を目的として[[李氏朝鮮|李氏朝鮮]]の軍が[[1419年]](応永26年)に大規模な侵攻を行い、宗氏との1ヶ月にわたる戦闘の後撤退した([[応永の外寇]])。その後、宗氏は[[嘉吉]]3年([[1443年]])に朝鮮と[[嘉吉条約]]を結んで、以後日朝間の窓口となった。 しかし、[[文明 (日本)|文明]]2年([[1470年]])、朝鮮国王 [[世祖 (朝鮮王)|世祖]]が対馬守護 宗氏に使節を派遣し、日本の密航者の取り締まりを求めた<ref>池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年) 81頁参照。</ref>。[[1509年]]([[永正]]6年)[[4月 (旧暦)|4月]]、朝鮮は[[対馬島主]]・[[宗材盛]]に在留期限を超えた[[恒久倭]]の帰国を求める使節の派遣を予定していたが、材盛の急逝で使節派遣を延期するという<ref>池上裕子編前掲『クロニック 戦国全史』(講談社、1995年) 186頁参照。</ref>。翌1510年(永正7年)には現地在住の対馬の民などにより三浦の乱が発生している。 また、同年、朝鮮で[[三浦の乱]]が発生。宗氏は日朝貿易への影響力拡大を狙い救援軍を派遣するも鎮圧され、在留日本人は追放。対馬と朝鮮の関係も[[1512年]](永正9年)まで途絶する。 また、この頃少弐氏が[[大内氏]]によって大宰府を追われると、宗貞盛は九州に出兵して大内氏と戦った。しかし、少弐氏が滅亡したので対馬に戻った。 === 近世以降 === [[1592年]]([[文禄]]元年)、[[豊臣秀吉]]が[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]を行った。貿易収入が失われることを恐れた宗氏は戦争回避のため奔走した。開戦後は[[釜山広域市|釜山]]と[[名護屋城]]との中継地となった。 [[関ヶ原の戦い]]では宗氏は西軍に付いたものの、領土を安堵された。 {{Main|対馬府中藩}} 宗氏を藩主とする[[対馬府中藩]](10万石格)が幕末まで支配した。 江戸初期対馬藩は[[李氏朝鮮]]との国交再開のために尽力。幕府と李氏朝鮮との関係を保つため、しばしば双方の国書を改竄した。それを有力家臣の柳川氏が告発、[[柳川一件]]に発展した。 なお江戸時代には[[鎖国]]政策がとられていたが朝鮮とは正式な国交があり、対馬藩は[[朝鮮通信使]]の先導役を勤め、現在の釜山市に[[倭館]]を置き交易をおこなった。 [[明治維新]]後の[[廃藩置県]]によって[[厳原県]]となり、さらに[[伊万里県]]、[[佐賀県]]、[[三潴県]]を経て[[1876年]](明治9年)、[[長崎県]]に編入された。 == 国内の施設 == === 国府 === [[国府]]は下県郡にあった。現在の[[対馬市]]厳原町国分の対馬市役所(旧[[厳原町]]役場)付近と推測されているが、未だ[[遺跡]]は見つかっていない。 === 島分寺・島分尼寺 === [[File:Tsushima Kokubunji Bonsho2.jpg|280px|right|thumb|対馬国分寺梵鐘の拓本[[1500年]](明応9年)]] [[聖武天皇]]が[[741年]](天平13年)に発布した「[[国分寺建立の詔]]」ののち[[大日如来]]を本尊として対馬島分寺(とうぶんじ)が下県郡の国府付近に建てられた記録があり、のちの[[金石城]](厳原城)の位置がこれに比定される。金石城跡の[[発掘調査]]によって島分寺の[[伽藍]]配置などが解明されつつある。[[755年]]([[天平宝字]]7年)、国・島講師(正確には国・島師)が廃され、復されて島分寺に講師が置かれたのは[[855年]](斉衡2年)であった<ref name=shinkawa55>新川(1998)p.55</ref>。その財源は、九州本土の諸国に依存するところが大きかったという<ref name=shinkawa55/>。[[857年]](天安元年)の国司[[立野正岑の乱]]では島分寺を焼失し、翌天安2年、国府嶽山麓に本尊大日如来を移して大日堂が建立された。これはのちに大日寺と称された。現在の[[臨済宗]]西山寺である<ref>[http://www.tsushima-seizanji.com/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%88/%E3%81%AF%E3%81%98%E3%82%81%E3%81%AB%EF%BC%8F%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%AF%BA%E3%81%AE%E7%94%B1%E6%9D%A5.html 対馬鶴翼山西山寺]</ref><ref>[http://www.kyuhaku-db.jp/souke/yukari/index_06.html 対馬宗家文書の世界「西山寺」] - [[九州国立博物館]]</ref>。史料では、[[貞観 (日本)|貞観]]年間([[859年]] - [[877年]])には、対馬島分寺の島内における財源補強の努力が確認される<ref name=shinkawa55/>。 いっぽう、[[1468年]](応仁2年)、対馬府中に居をかまえた[[宗貞国]]が弟の甫庵宗睦に[[国分寺]]復興を命じ、古代島分寺跡の山際に再建されたと推定されている。これは、[[江戸時代]]に入って[[1665年]](寛文5年)に宗義真が金石城を拡張した際に日吉へ移された。さらに[[1863年]](文久3年)になって、以酊庵と振り替わって厳原町天道茂の現在地に移されたのが[[釈迦如来]]を本尊とする現存国分寺である。現存寺は、[[曹洞宗]]天徳山国分寺と称し、かつては宗家の[[菩提寺]]だったこともあり、江戸時代中・後期には[[朝鮮通信使]]来聘に際して、その客館として使用された<ref>[http://www.hinocatv.ne.jp/~w-suzuki/tushima.htm 対馬国分寺]</ref><ref>[http://www.kyuhaku-db.jp/souke/yukari/index_04.html 対馬宗家文書の世界「国分寺」] - 九州国立博物館</ref>。 なお、島分尼寺(国分尼寺)については詳細不明である。 === 神社 === ; [[延喜式内社]] : 『[[延喜式神名帳]]』には、大社6座6社・小社23座23社の計29座29社が記載されている。大社6社は以下に示すもので、全て[[名神大社]]である。 * [[上県郡]] [[和多都美神社]] - 和多都美神社(対馬市豊玉町)または[[海神神社]](対馬市峰町木坂)に比定。 * 上県郡 和多都美御子神社 - [[和多都美御子神社]](対馬市豊玉町)ほか論社3社。 * [[下県郡]] [[高御魂神社]] (対馬市厳原町) * 下県郡 和多都美神社 - [[厳原八幡宮神社|八幡宮神社]](対馬市厳原町)または[[乙和多都美神社]](対馬市厳原町)に比定。 * 下県郡 [[太祝詞神社]] (対馬市美津島町) * 下県郡 [[住吉神社 (対馬市)|住吉神社]] (対馬市美津島町け知) - [[住吉神社]]は元来[[大阪湾]]周辺の海神であったと考えられるが、対馬の住吉神社もまた神功皇后の新羅出兵伝承と不可分なかたちで語り継がれてきたものである<ref>新川(1998)p.29</ref>。 ; [[総社]]・[[一宮]] * 総社 不詳 * 一宮 '''[[海神神社]]''' 二宮以下は存在しない。 === 安国寺利生塔 === * 安国寺跡 - 長崎県対馬市上県町佐護。 == 地域 == === 郡 === *[[上県郡]] **伊奈郷、久須郷、向日郷、三根郷、佐護郷 *[[下県郡]] **豆酘郷、鶏知郷、賀志郷、与良郷、玉調郷 === 江戸時代の藩 === *[[対馬府中藩]]、[[宗氏|宗家]](2万石格 → 10万石格) == 人物 == === 国司 === ==== 対馬守 ==== *[[忍海大国]] - [[674年]]([[天武天皇]]3年)3月7日見 *[[立野正岑]] - 857年、郡司・百姓らによって惨殺された。 *[[源義親]] - 太宰府の命に服さず、官物横領及び住民を苦しめた罪で追討を受ける。 *[[藤原親光]] - [[源頼朝]]の外戚であったため平氏より追討を受ける(『[[吾妻鏡]]』)<ref>佐伯(1998)p.77</ref>。 === 守護 === ==== 鎌倉幕府 ==== *[[河内義長]]:[[1185年]](文治元年) -? *[[少弐資能]]:[[1230年]](寛喜2年) -? *[[少弐貞経]]:[[1323年]](元亨3年) -? ==== 室町幕府 ==== *[[少弐頼尚]]:[[1344年]](南朝:興国5年、北朝:康永3年) -? *[[宗澄茂]]:[[1378年]](南朝:天授4年、北朝:永和4年)-? *[[宗頼茂]]:[[1392年]](明徳3年) - [[1398年]](応永5年) *[[宗貞茂]]:[[1400年]](応永7年) - [[1403年]](応永10年) *[[宗貞盛]]:[[1414年]](応永21年) - [[1452年]](享徳元年) *[[宗成職]]:[[1468年]](応仁2年) *[[宗貞国]]:1468年 - [[1492年]](明応元年) *[[宗材盛]]:1492年 - [[1508年]](永正5年) *[[宗義盛]]:[[1510年]](永正7年) - [[1520年]](永正17年) *[[宗盛長]]:1520年 - [[1521年]](大永元年) *[[宗晴康]]:[[1542年]](天文11年) - [[1554年]](天文23年) *[[宗義調]]:[[1555年]](弘治元年) - [[1560年]](永禄3年) === 戦国大名 === *[[宗氏]] === 武家官位としての対馬守 === {{節stub}} *[[山内一豊]]:[[1585年]](天正13年) - [[1603年]](慶長8年) === 対馬国に関連の深い歴史的人物 === 近代以降は[[対馬市#対馬市出身の著名人]]を参照のこと。 ==== 対馬国出身者 ==== *[[長岑諸近]] - 刀伊の入寇の際の対馬判官代 *[[宗助国]] - [[元寇]]の際の対馬守護代 *[[宗義智]] - [[対馬府中藩]]初代藩主 *[[宗義真]] - 好学の藩主 *[[陶山鈍翁]] - 対馬藩郡奉行 *[[賀島兵介]] - 対馬藩士で[[肥前国]]田代副代官 *[[中庭茂山]] - 対州焼の名工 *[[平山東山]] - 『津島紀事』の著者 *[[大島友之允]] - [[外交官]] *[[半井桃水]] - [[小説家]] ==== 対馬国に関係の深い人物 ==== *[[武藤資頼]] - [[源頼朝]]により対馬国[[守護]]に任じられる。 *[[島清興]] - [[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の武将。対馬に墓がある。 *[[雨森芳洲]] - 対馬府中藩の儒講。厳原の長寿院に墓所がある。 == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist}} == 参考文献 == * [[新川登亀男]]「1章 海と山野の歴史を開く」[[児玉幸多]]監修『県史42 長崎県の歴史』[[山川出版社]]、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2 * 新川登亀男「2章 東アジアのなかの古代統一国家」『県史42 長崎県の歴史』山川出版社、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2 * [[佐伯弘次]]「3章 荘園公領と武士団」『県史42 長崎県の歴史』山川出版社、1998年5月。ISBN 4-634-32420-2 * 池上裕子、小和田哲男、小林清治、池享、黒川直則編『クロニック 日本全史』(講談社、1995年)ISBN 406203994X == 関連項目 == *[[対馬]] *[[対馬市]] *[[令制国一覧]] *[[新羅の入寇]] *[[刀伊の入寇]] *[[元寇]] *[[応永の外寇]] *[[対馬歴史民俗資料館]] *[[対馬 (防護巡洋艦)]] ==外部リンク== * [http://www.pref.nagasaki.jp/sima/island/tsushima/history.html 長崎のしま紹介 対馬と韓国の交流史] * [http://tsmzen.com/ 対馬全カタログ] * [http://www.kyuhaku-db.jp/souke/ 対馬宗家文書の世界](九州国立博物館) {{令制国一覧}} {{対馬国の郡}} [[Category:対馬国|*]] [[Category:西海道|国つしま]] [[Category:日本の旧国名|つしま]] [[Category:対馬市の歴史|*国つしま]] [[Category:宗氏|*つしまのくに]] {{DEFAULTSORT:つしまのくに}}
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