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寺内寿一
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{{基礎情報 軍人 | 氏名 = 寺内寿一 | 各国語表記 = | 生年月日 = [[1879年]][[8月8日]] | 没年月日 = [[1946年]][[6月12日]] | 画像 = TerauchiH.jpg | 画像サイズ = 150px | 画像説明 = | 渾名 = | 生誕地 = {{JPN}}、[[山口県]] | 死没地 = {{MAS1896}}、レンガム | 所属政体 = [[ファイル:Merchant flag of Japan (1870).svg|20px]][[大日本帝国]] | 所属組織 = {{IJARMY}} | 軍歴 = [[1899年]] - [[1945年]] | 最終階級 = [[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]] | 指揮 = [[第5師団 (日本軍)|第5師団長]]<br/>[[第4師団 (日本軍)|第4師団長]]<br/>[[台湾軍 (日本軍)|台湾軍]][[司令官]]<br/>[[陸軍大臣]]<br/>[[教育総監]]<br/>[[北支那方面軍]]司令官<br/>[[南方軍 (日本軍)|南方軍]][[総司令官]] | 部隊 = | 戦闘 = [[日露戦争]]<br/> | 戦功 = | 賞罰 = [[伯爵]]<br/>[[勲一等旭日大綬章]] | 除隊後 = | 廟 = }} '''寺内 寿一'''(てらうち ひさいち、{{旧字体|寺內壽一}}、[[1879年]]([[明治]]12年)[[8月8日]] - [[1946年]]([[昭和]]21年)[[6月12日]])は、[[日本]]の[[大日本帝国陸軍|陸軍]][[軍人]]、[[政治家]]。[[元帥 (日本)|元帥]][[陸軍大将]][[従二位]][[勲一等旭日大綬章|勲一等]][[功一級]][[伯爵]]。[[山口県]]出身。 第18代[[内閣総理大臣]]などを歴任した元帥陸軍大将[[寺内正毅]]の長男で、[[皇族]]以外では唯一[[日本軍|陸海軍]]を通して親子2代で元帥府に列せられた人物。 [[陸軍大臣]]在任時は、[[厚生労働省|衛生省]](現・厚生労働省)の設立を提唱。[[太平洋戦争]]([[大東亜戦争]])期には、[[編成]]時から一貫して[[南方]]戦線の全陸軍部隊を統括する[[総軍]]である[[南方軍 (日本軍)|南方軍]][[総司令官]]を務めた。 == 経歴 == [[File:1938 terauchi hisaichi.jpg|250px|thumb|right|1938年当時の寺内寿一(右)。[[中支那派遣軍]]司令官[[畑俊六]]陸軍大将(左)とともに]] * [[1897年]]([[明治]]30年)3月 [[東京高等師範学校|高等師範学校]]附属[[尋常中学校]](現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])卒業 * [[成城学校]]<!--記録にはっきり出てないのですが…-->を経て * [[1899年]](明治32年)11月 [[陸軍士官学校_(日本)|陸軍士官学校]](11期)卒業 * [[1904年]](明治37年)3月 [[日露戦争]]に出征 * [[1909年]](明治42年)12月 [[陸軍大学校]](21期)を卒業 * [[1919年]](大正8年)7月 [[大佐]]に昇進 * 1919年(大正8年)12月 [[伯爵]]を襲爵 * [[1924年]](大正13年)2月 [[少将]]に昇進 * [[1926年]](大正15年)9月 [[山陽本線特急列車脱線事故]]に遭遇。34名も死亡した事故であったが、寺内は無傷であった。 * [[1927年]](昭和2年) [[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]][[参謀長]] * [[1929年]](昭和4年)8月 [[中将]]に昇進 * [[1930年]](昭和5年) [[第5師団_(日本軍)|第5師団長]] * [[1932年]](昭和7年)[[1月9日]] [[第4師団 (日本軍)|第4師団長]] * [[1933年]](昭和8年)[[6月17日]] [[ゴーストップ事件]] * [[1934年]](昭和9年) [[台湾軍_(日本軍)|台湾軍]][[司令官]] * [[1935年]](昭和10年)10月 [[大将]]に昇進 * [[1936年]](昭和11年)[[3月9日]] [[広田内閣]]において[[陸軍大臣]]に就任 * [[1937年]](昭和12年)1月 [[政友会]]の代議士[[浜田国松]]と[[腹切り問答]] * [[1937年]](昭和12年)2月 [[教育総監]] * [[1937年]](昭和12年)8月 [[北支那方面軍]]司令官 * [[1938年]](昭和13年) [[勲一等旭日大綬章]] * [[1941年]](昭和16年)11月 [[南方軍 (日本軍)|南方軍総司令官]] * [[1943年]](昭和18年)6月 [[元帥_(日本)|元帥]] * [[1945年]](昭和20年)[[9月12日]] シンガポールで降伏文書に調印 * [[1946年]](昭和21年) [[マレーシア]]の[[レンガム]]で拘留中に病死。シンガポールの日本人墓地に記念墓がある。 == 事績・性格等 == [[File:Hirota_and_Terauchi_during_the_Kappuku-mondou.jpg|thumb|right|200px|「[[腹切り問答]]」の際に壇上から[[浜田国松]]議員を睨みつける寺内、奥が[[広田弘毅|広田]]総理]] * [[1933年]](昭和8年)[[6月17日]]、[[大阪市]]の[[天神橋筋]]で、第4師団の一等兵と曽根崎警察署の巡査が信号無視をめぐり乱闘を起こした、[[ゴーストップ事件]]当時の師団長である。この事件では寺内と[[縣忍]]大阪府知事の会談も決裂、軍部と警察の権限のあり方について世論も沸騰した。その後[[陸軍省]]と[[内務省 (日本)|内務省]]の協議により、制服を着た兵に違法行為があった場合には憲兵に引き渡すことが決定されたが、軍部の強大さを世間に示す結果となった。 *[[二・二六事件]]の後、陸相として[[皇道派]]の追放(粛軍)を主導し、「追放された連中が陸相になれないように」との口実で[[軍部大臣現役武官制]]を復活させる等、軍部の影響力を増大させている。また、[[1937年]](昭和12年)[[1月21日]]、「[[腹切り問答]]」後に議会解散を要求し、二日間の議会停会の後、[[広田内閣]]を総辞職に追い込んだ。 *広田内閣総辞職後、[[宇垣一成]]に組閣の大命が降下されるが、[[湯浅倉平]]内大臣の事前打診に「もういい時分だ」と確言したにもかかわらず、陸軍中堅将校の猛反対を背景に陸相を推挙せず、宇垣内閣を流産に導く。宇垣は陸相在任時、予備役編入が内定した寺内の「母の胎内にいる時から陸軍に育った私です。任地は由良でも澎湖島の要塞でも結構ですから、どうか一生陸軍に置いて頂きたい」との言葉にほだされ、彼を現役に留めた恩人であった<ref>渡邊行男「宇垣一成」1993年 中公新書</ref>。 *南方軍総司令官在任時、無謀な[[インパール作戦]]を黙認したり、現地司令官の反対を押し切って[[ルソン島]]から[[レイテ島]]への作戦転換を指示した結果、多大の犠牲者を出すに至ったとされる。同時期に寺内はサイゴンの旧フランス総督官邸から一歩も移動しなかったばかりか、愛人の赤坂芸者を軍属にして軍用機で日本からサイゴンに乗せて、現地で豪遊した<ref>佐治芳彦「太平洋戦争-封印された真実」219~220頁 日本文芸社</ref>。 *[[東條内閣]]瓦解後、一時は後継首班に目されたものの、戦時司令官(南方軍総司令官)たる寺内は動かせないとの理由で、[[朝鮮総督]]の[[小磯国昭]]に組閣の大命が降下した。状況によっては、最初の親子2代の[[内閣総理大臣]]となる可能性もあった。 *育ちがいい割には部下に細密な気配りができ、陸軍では[[下士官]]や兵に人気があった。ただ、幼少時は同級生に鉄拳を振るうなど荒っぽい性格だったとも伝えられる。[[作家]][[永井荷風]]とは[[師範学校|高等師範学校]]附属尋常中学校(現・[[筑波大学附属中学校・高等学校]])時代の同窓生だが、[[山田風太郎]]の回想によると、軟派学生だった永井を看過出来なかった寺内は、永井に対して鉄拳制裁を加えたこともあったという<ref>山田風太郎 『[[人間臨終図巻]]』 [[徳間書店]]</ref>。 *[[松前重義]]が[[東條英機]]によって懲罰召集され、二等兵として南方に送られて来た際には、総司令官名での辞令を連発して事実上スーツ姿で軍政顧問として働くようにしてしまった。陸軍の最長老で、元帥でもある寺内には、さすがの東條も手が出せずそのままになったが、そもそも松前が南方に送られたのは東条失脚の後である。長州閥に敵愾心を燃やした東條と長州閥のボスだった寺内正毅を父に持つ寺内との関係は微妙なものがあった。 *戦時中は[[埼玉県]]にある[[盆栽村]]の庇護者でもあり、[[ホテル]]のマネージャーをやってみたいと語ったこともある。なお、旧日本軍最後の[[軍歌]]『壮行譜』は寺内が収監された時に贈られた曲である。 == 脚注 == <references /> == 関連文献 == *『元帥寺内寿一』 同刊行会・[[上法快男]]編 「昭和軍事史叢書」芙蓉書房 1978年 == 関連項目 == * [[筑波大学附属中学校・高等学校の人物一覧]] == 外部リンク == * [http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/137.html 寺内正毅 | 近代日本人の肖像] * [http://rnavi.ndl.go.jp/kensei/entry/terauchimasatake1.php 寺内寿一関係文書 | 国立国会図書館 憲政資料室] * [http://www.c20.jp/p/thisaici.html 寺内 寿一 / クリック 20世紀] {{先代次代|[[第5師団_(日本軍)|第5師団長]]|1930年 - 1932年|[[原口初太郎]]|[[二宮治重]]}} {{先代次代|[[第4師団_(日本軍)|第4師団長]]|1932年 - 1934年|[[阿部信行]]|[[東久邇宮稔彦王]]}} {{先代次代|[[台湾軍_(日本軍)|台湾軍]]司令官|1934年 - 1935年|[[松井石根]]|[[柳川平助]]}} {{先代次代|[[陸軍大臣]]|1936年 - 1937年|[[川島義之]]|[[中村孝太郎]]}} {{先代次代|[[教育総監]]|1937年|[[杉山元]]|[[畑俊六]]}} {{先代次代|[[北支那方面軍]]司令官|1937年 - 1938年|-|[[杉山元]]}} {{先代次代|[[南方軍 (日本軍)|南方軍]]総司令官|1941年 - 1946年|-|(代理)[[木下敏]]}} {{陸軍大臣}} {{DEFAULTSORT:てらうち ひさいち}} [[Category:大日本帝国陸軍将官]] [[Category:日本の元帥]] [[Category:日本の伯爵]] [[Category:日本の閣僚経験者]] [[Category:日露戦争の人物]] [[Category:太平洋戦争の人物]] [[Category:捕虜となった人物]] [[Category:山口県出身の人物]] [[Category:1879年生]] [[Category:1946年没]]
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