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'''宮部 長房'''(みやべ ながふさ、[[天正]]9年([[1581年]])- [[寛永]]11年[[11月18日 (旧暦)|11月18日]]([[1635年]][[1月6日]]))は、[[安土桃山時代]]の[[武将]]・[[大名]]。[[宮部継潤]]の嫡男(養子とも)。[[宮部長邑]]の父。[[諱]]は'''長煕'''(ながひろ)、'''定行'''とも。[[従五位下]]。[[兵部省|兵部少輔]]。 == 経歴 == [[豊臣秀吉]]に仕え信任を受け、[[1586年]]には[[従五位下]][[兵部省|兵部少輔]]に叙任され、[[豊臣氏|豊臣姓]]を与えられた<ref>村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。</ref>。[[文禄・慶長の役|朝鮮出兵]]にも参加したが、彼の陣で饗応を受けた[[加藤光泰]]がその直後に吐血して急死するという事件もおきている。[[慶長]]元年([[1596年]])、父の隠居により家督を継ぐ。 === 関ヶ原の戦い === 慶長5年(1600年)の会津征伐には500人を率いて従軍。 その途中、上方で三成が挙兵した報を受けて反転して西上した。鳴海まで来たところで、小舅の[[池田秀氏]]が飛脚を寄こして西軍に付くよう言ってきた。 与力の[[木下重堅]]、[[垣屋恒総]]がすでに西軍に走ったこともあり、家中の大将格の七人衆に相談したところ、[[三田村太郎右衛門]]と[[高坂清兵衛]]は西軍に付くよう進言してきたが、[[宮部市兵衛]]、[[宮部采女]]、[[福永弥五右衛門]]、[[国友興左衛門]]らは反対する。しかし長房の心は西軍に動いていたため、熱田の渡しから桑名に行こうとしたが、見張りがいて船の往来ができないため、夜に渡ろうと船を一艘借り出し銀二百枚を渡し約束した。一艘に大勢は乗れないので上下の者十三人で夜中に陣中を抜け出し熱田に向かったが、約束の船がいなく辺りを捜しまわった。その頃家臣らは、陣中に長房が見えなくなったことにより、長房は西軍に走ったに違いないと考えたが、これに追いつく方法もなく、また、総大将が居なくなったことにより宮部家臣らはどうしようもなくなり、昔からの縁故がある[[田中吉政]]に皆で掛合ってその軍勢に加わった。 結局、長房らは船は見つからず夜明けを迎えてしまい、空となった自陣へ戻ってきて呆然としていたところを、騒動を聞きつけた徳川の目付けが長房を拘束、[[岡崎城]]に押し込められてしまった。 西軍の敗戦後、居城の鳥取城は[[亀井茲矩]]、[[斎村政広]]の攻撃を受け開城し、鳥取5万石の所領は没収されてしまった。 戦後、敵味方の処分詮議の際、長房は死罪となりかけたが、田中吉政が自分の旧主で昔の恩義が忘れられない、と助命嘆願をしてくれたため、七人衆で西軍加担を進言した三田村と高坂の二人は切腹させられたが、長房は当分の間、田中吉政に預け置かれることとなった。翌年12月17日にその身柄を[[南部利直]]に預けられ、現米123駄70人扶持(約460石)を給されて暮らした。 その後、剃髪して長令と号し、寛永11年(1634年)盛岡で没した。 晩年の寛永7年([[1630年]])、寝返り行為を行ったのは、田中吉政に騙されてのことであるとする文書を幕府に提出した。しかし、吉政ほか既に多くの検証できる人物が死んでしまった後のことであり、真偽を定かにすることはできず、沙汰止みとなってしまった。現在も真相は不明なままである。 == 子孫 == [[長男]][[宮部長之|宮部左衛門尉長之]]は母方の縁で[[津藩]][[藤堂氏|藤堂家]]に仕官、その後[[尾張徳川家]]に仕えるが嗣子がなく断絶したといわれる。次男[[宮部長邑|宮部兵蔵長邑]]は盛岡で生まれ、[[寛文]]4年([[1664年]])に没し、その子の[[宮部長興|宮部図書長興]](幼名、千勝)は、寛文7年([[1667年]])、7歳の時に将軍[[徳川秀忠]]の17回忌の大赦により赦免、南部家に出仕して666石を給された。また、その子[[宮部長官|宮部頼母長官]]の代に多賀姓に改姓し、長官の子[[多賀長英|多賀図書長英]]、その子の[[多賀長郷|多賀頼母長郷]]と二代続けて[[南部藩]][[家老]]を勤めた。[[明治維新]]後に宮部姓に復した。[[自由民権運動]]で知られる[[宮部謙吉]]は末裔。 == 脚注 == <references /> == 小説 == *[[永井路子]]『関ヶ原別記』 == 参考文献 == *[http://www.morioka-times.com/news/2005/0505/27/05052705.htm 〈古文書を旅する〉64 工藤利悦著 盛岡藩預かりの大名類縁者の系譜とその後] - 盛岡タイムス[[2005年]][[5月27日]] *『 因幡民談記』 {{DEFAULTSORT:みやへ なかふさ}} [[Category:1581年生]] [[Category:1635年没]] [[category:戦国武将]] [[Category:織豊政権の大名]] [[Category:豊臣氏]] [[Category:宮部氏]] [[Category:近江国の人物]]
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