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宮武外骨
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{{Infobox 作家 | name = 宮武外骨 | image = Gaikotsu Miyatake.jpg | image_size = 155px | caption = <!--画像説明--> | pseudonym = <!--ペンネーム--> | birth_name = 宮武 亀四郎(かめじろう) | birth_date = [[1867年]][[2月22日]] | birth_place = {{JPN}}・[[讃岐国]][[阿野郡]]小野村([[香川県]][[綾歌郡]][[綾川町]]小野) | death_date = {{死亡年月日と没年齢|1867|2|22|1955|7|28}} | death_place = {{JPN}}・[[東京都]][[文京区]][[駒込]]追分町(東京都[[豊島区]]駒込) | resting_place = <!--墓地、埋葬地--> | occupation = [[ジャーナリスト]]、[[著作家]] | language = <!--著作時の言語--> | nationality = {{JPN}} | education = <!--受けた教育、習得した博士号など--> | alma_mater = <!--出身校、最終学歴--> | period = 1887 - 1946 | genre = | subject = [[パロディ]]、[[言葉遊び]]、風俗史研究 | movement = <!--作家に関連した、もしくは関わった文学運動--> | religion = <!--信仰する宗教--> | notable_works = 『滑稽新聞』<br />『スコブル』<br />『民本主義』<br />『[[面白半分]]』など多数 | spouse = 緒方八節 | children = 2人 | relations = <!--親族。その中に著名な人物がいれば記入する--> | influences = <!--影響を受けた作家名--> | influenced = <!--影響を与えた作家名--> | awards = <!--主な受賞歴--> | debut_works = <!--処女作--> | signature = <!--署名・サイン--> | website = <!--本人の公式ウェブサイト--> }} '''宮武 外骨'''(みやたけ がいこつ、[[慶応]]3年[[1月18日 (旧暦)|1月18日]]([[1867年]][[2月22日]]) - [[昭和]]30年([[1955年]])[[7月28日]])は、[[日本]]の[[ジャーナリスト]]([[新聞記者]]、[[編集者]])、[[著作家]]、新聞史研究家、[[江戸時代|江戸]][[明治]]期の世相風俗研究家。 明治・大正期にはジャーナリストとして、[[政治家]]や[[官僚]]、[[行政機関]]、[[マスメディア]]を含めた[[権力]]の腐敗を言論により追及した。日本における[[言論の自由]]の確立を志向し、それを言論によって訴えた。また、活字による[[アスキーアート]]を先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らした[[パロディ]]や[[言葉遊び]]を執筆したことでも有名。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学([[東京大学]])に明治新聞雑誌文庫を創設した。 == 生涯 == === パロディから反官僚へ === [[画像:Tonchikenpohappushiki.jpg|thumb|200px|宮武による、「頓智研法発布式」([[安達吟光]]画)。[[明治憲法]]の「第一條 大日本帝國ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」をもじり「第一條、大頓知協会ハ讃岐平民ノ外骨之ヲ統括ス」とある。奥に立つ骸骨は[[明治天皇]]であるとして、この作品が不敬罪に問われた。]] [[讃岐国]][[阿野郡]]小野村(現在の[[香川県]][[綾歌郡]][[綾川町]]小野)に[[庄屋]]宮武家の四男として生まれた。幼名は亀四郎。 高松栄義塾で漢学を学び、[[明治]]14年([[1881年]])、14歳の時に上京し進文学舎においても漢学を学ぶ<!-- http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0712.html http://www.msz.co.jp/book/author/15355.html などより。 -->。 17歳の時に戸籍上の本名を "外骨" に改める。幼名の亀四郎の亀が "外骨内肉" の動物であることに因んだ物である。正式の本名であるにもかかわらず、[[号 (称号)|号]]のようにしか受け止められないことが多く、役所や図書館の窓口などで「号ではなく本名をお願いします」などとたびたび言われるのが癪だと言って、「是本名也」と彫った印鑑を用いたことも少なくなかった。なお、晩年に「外骨」の読みを「とぼね」に改めている。 当初は比較的穏健だったが、反骨精神に富み自ら新聞・雑誌を刊行して政治や権力批判を行ったためたびたび発禁・差し止め処分を受けた。明治22年([[1889年]])、『頓智協会雑誌』で[[大日本帝国憲法]]発布を[[パロディ]]化して[[不敬罪]]に問われ[[禁錮]]3年の実刑判決を受けた。[[未決勾留日数]]の刑期算入も認められず、投獄は3年8ヶ月に及んだ。それからは官僚を宿敵と見なし、活発な権力批判を行うようになった。その後も検挙投獄は3回に及んだ。また雑誌は数多く創刊したが比較的短命なものが多く、1号のみの廃刊誌は実に17を数える。 警察署長の不正や悪徳商法の主([[野口茂平衛|野口茂平]])を長期間紙面で晒し上げる一方で[[日露戦争]]に対する社説を翻した『[[万朝報]]』を批判するなど、批判精神を忘れて権力・世論に迎合する[[報道|ジャーナリズム]]に対する批判も行い、反権力を貫く一ジャーナリスト(当時の訳語では「操觚者」)として徹底した行動を取りつづけた。もっとも日露戦争自体については主戦論ではないが反戦論でもなく、戦争協力を誌面で説いたこともある。たとえば[[日本ハリストス正教会|ニコライ教]]は[[ロシア正教会]]の[[ニコライ・カサートキン]]による伝来であったから、「愚民を惑はすのみならず、常に[[売国奴|賣国奴]]を養成して居る」<ref>『滑稽新聞』明治37年(1904年)2月15日号(通巻66号)「ニコライ教堂を破壊すべし」 p3</ref>と非難し、ニコライの逮捕、[[棄教|退会]]しない信徒の[[退去強制|国外追放]]<ref>『滑稽新聞』明治37年(1904年)2月15日号(通巻66号)「露犬とニコライ」 p17</ref>、[[ニコライ堂]]の破壊などの弾圧を行うよう主張した。これは当時の世論にある程度影響されたものと言えた。 特に、自らの力を悪用して私欲を働く[[マスメディア]]には「'''ユスリ'''記者」と呼び激しい批判を行った(『滑稽新聞』では「ユスリ」に特注の極太[[ゴシック体]]を使用して強調した)。もっともその主張の中には「[[味の素]]の原料は[[アオダイショウ|青大将]]」など、後に結局[[噂#デマ|デマ]]と分かったものもあった(「[http://sts.kahaku.go.jp/sts/detail.php?id=1060&key=106010681012&APage=2 一癖随筆]」)。 外骨の厳しさは読者や親族にも及んだ。たとえば『滑稽新聞』明治40年([[1907年]])[[11月20日]]号で[[吉田東伍]]の『大日本地名辞書』の誤りを指摘し、版元の[[冨山房]]ともども「[[文壇]]の山師」と批判した。読者に、この記事は出版社をユスろうとしているのではないかと批判投稿した者がいた。[[12月20日]]号で採用した上でこの読者に対する反論を行い、さらに「間抜け」な批判をした読者を磔にした挿絵を付け文字通りさらし者にしたことがある。この読者からは冨山房の店員(拡販員と思われる)から『滑稽新聞』の記事について「善悪とも交渉すべからず」といわれたため疑念を抱いたのだという返信が来たため、外骨は冨山房に抗議した上で『大日本地名辞書』批判をしばらく続けた。 また、著書『つむじまがり』で「予の先祖は[[備中国|備中]]の[[穢多]](えた)であるそうな」と書いたところ、「未だ穢多の子孫と云ふ事は耳にしたる事無之候、(中略)宮武家一門三百人の大迷惑」と抗議した親類があった。外骨は「予の親族中にも、今尚斯る舊弊(きゅうへい)思想の脱しない者がある位だから、予は飽迄も穢多の子孫なりと叫ばねばならぬ」(『スコブル』[[大正]]6年([[1917年]])第10号)と反論した。[[部落問題|部落差別]]が解消されていれば「穢多の子孫」と自称しても全く意味はないはずだから、抗議した親類の態度こそ差別であると主張したのである<ref>前述にもあるように、父は庄屋であり実際は被差別部落の出身者ではないことをも『つむじまがり』で明かしている。部落差別に抗議する意味で部落民でないのに部落民を自称した点は、[[中江兆民]]と軌を一にしている。</ref>。一方、[[桃中軒雲右衛門]]を否定的な意味で「穢多芸人」<ref>『[[滑稽新聞]]』第172号、[[1908年]][[10月5日]]。</ref>と呼ぶなどの差別発言を行っていたことも指摘されている<ref>『宮武外骨著作集』第8巻([[河出書房新社]])解説「宮武外骨と『穢多』の語」([[諸岡佑行]])</ref>。 ===『滑稽新聞』の成功 === 外骨の出版した刊行物の中でも最も有名な『滑稽新聞』は、明治34年([[1901年]])に[[大阪]]で創刊された。名目上の発行人は三好米吉。これは、外骨に万一のことがあっても発行を続けられるように別人を立てたためである。外骨は「小野村夫」(出身地にちなむ)のペンネームで執筆。無署名なども含めると、記事の大半を自ら書いた。寄稿は編集者によるものを含めほとんどがペンネームで、外骨以外の編集者、寄稿者で実名がはっきりしているのは三好、溝口駒造、[[板橋菊松]]、[[森近運平]]、松崎天民、結城禮一郎、寺門咲平の7人である。また、印刷は福田友吉が担当した。 モットーは『威武に屈せず富貴に淫せず、ユスリもやらずハッタリもせず、天下独特の肝癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり』。時事批評だけでなく下世話な世相の話題まで扱い、現代の週刊誌に相当する内容であった。外骨の記事は巧みに仕込まれた毒とパロディー精神に富み、さらに挿絵も腕の良い職人(実名がはっきりしているのは墨池亭黒坊こと[[前野一廣]]、[[竹久夢二|竹久茂次郎]])の手になるもので一般大衆に人気を博した。活字([[文字]]や[[約物]])を並べて絵に見せたり、他愛ない小説に見せかけて(縦組みのページを)横に読むと性的なネタが隠れていたりと今日各種ウェブサイトで一般化した技法([[アスキーアート]]や[[縦読み]]など)の原形も見られる。[[検閲]]などのため刊行が遅れることが多く途中からは「例の延刊」と自ら表紙に載せ、たまに予定通り発行されると「例の延刊にあらず」とネタにしたほどだった<ref>この頃の雑誌発行は競合誌と発行を競うあまり発売予定日よりも早刊となる傾向があった事から「早刊も延刊も不都合にあらず」と誌面で自らを棚に上げて他誌を皮肉る事もあった。</ref>。最盛期の部数は8万部。この時代の雑誌としてはトップクラスの売れ行きだった。そのため類似誌も『いろは新聞』『東京滑稽新聞』『あづま滑稽新聞』『滑稽界』『東京滑稽』『江戸ツ子』『ポテン』『滑稽雑誌』『[[名古屋]]滑稽』『[[釜山]]滑稽新聞』など多数登場し、外骨は「猿雑誌」と類似誌を評しつつ『滑稽新聞』の影響力を自慢した。 重複になるが、たとえば野口に対しては野口が[[名誉毀損罪|誹毀罪]]で告訴したためもあるが毎号野口がさらし首にされた絵を載せ攻撃し続けるなど同じ対象を長期間にわたって追跡する記事が多かったのも特徴である。もっとも、他誌にまま見られた金銭などのユスリ目的ではないことは野口も承知していた<ref>たまたま花見の時に外骨は人を介して野口に面会させられた。野口が「あれは最初私が悪かッたのです」と謝罪したこと、『滑稽新聞』がインチキ医薬品と批判した「肺勞散」の発売を停止しその旨新聞各紙に告知するという外骨の条件を野口が容れたことから、『滑稽新聞』通巻100号を以て野口批判は終了した。もっとも、顧問弁護士には妥協してはいかんと叱られたということである。外骨は普段他人の招待に応じず、訪問もしないのは一度顔見知りになれば人情として批判記事を書きにくくなるからだと述懐し、野口と面会させられたことでさらにこの感を深くしたという(『滑稽新聞』98〜99号)。</ref>。 明治41年([[1908年]])10月、当局は『滑稽新聞』に対して発行禁止命令を出した。外骨は発行禁止に先んじて173号を以て「自殺号」として廃刊。しかし翌月には『大阪滑稽新聞』を創刊して事実上の後継誌とした(31号までで外骨は編集を離れたが、大正3年([[1914年]])まで存続)。同誌では批判対象の[[伊藤博文]]・[[井上馨]]・[[山縣有朋]]の死期を当てる[[懸賞]]という不謹慎企画を立てた(明治42年([[1909年]])[[10月15日]]号、通巻24号)<ref>申込1口1円で年月日の的中者には1万円、年月の的中者には1000円、年の的中者には100円を抽選で1名に贈るとあった。</ref>。外骨は懸賞商法を批判していたが[[内務省 (日本)|内務省]]が10月15日付で規制に乗り出したため、わざと懸賞を始めたのである。その直後に伊藤が[[安重根]]に暗殺されると11月1日号(通巻25号)は風俗関連の記事が安寧秩序を乱し、風俗を害するとして発禁となった。11月15日号(通巻26号)では伊藤追悼一色のマスコミを批判し「非常の死は幸福」と題して[[津田三蔵]]<ref>『滑稽新聞』明治37年([[1904年]])[[2月15日]]号(通巻66号)では[[日露戦争]]に際して、「津田三蔵を特別赦免すべし」と題し、「(津田の)動機は熱誠の愛國心である、<u>現今我政府我國民一般が露國に対する感情と同一である</u>」(下線は原文[[圏点|傍点]])と主張した。ただし、津田は[[1891年]]に既に死去しており、ここでの赦免とは名誉回復という意味合いである。『滑稽新聞』2月25日号(通巻67号)では、読者の指摘に対して「([[西南戦争]]で[[売国奴#国賊|国賊]]とされた)[[西郷隆盛]]と同様に、死後の[[恩赦#種類|特赦]]を[[奏請]]すべしと論じたのだ」と回答している。</ref>や[[小山豊太郎|小山六之助]]([[李鴻章]]襲撃犯)を例に挙げ<ref>いずれも外国要人を襲撃した日本人である。ただし、いずれも被害者は一命を取り留めている。</ref>、暗に安を擁護した。これも発禁処分となった。また12月15日号(通巻28号)では「我輩と[[社会主義]]」と題し、「社会主義者ではない」が社会主義を取り入れた[[国家社会主義]]によって「今日の政弊を除去し得られる」と主張したがこれは発禁にはならなかった。外骨と編集発行人の金子又次郎は25号、26号について自首した。その結果、大阪区裁(村野美雄裁判長)は25号、26号の記事を無罪としたが代わりに検察が問題にしなかった「我輩と社会主義」を有罪とし又次郎は[[新聞紙法]]違反で罰金80円、外骨は禁錮2ヶ月の実刑判決を受けた。 ===『スコブル』以降 === 大正4年([[1915年]])、[[第12回衆議院議員総選挙]]に立候補し「政界廓清(かくせい)・[[選挙違反]]告発候補者」を名乗り選挙違反を片っ端から告発。[[落選運動]]の走り的存在といえた。結果は259票と、[[法定得票]]には辛くも到達したが落選。当時、[[制限選挙]]のため有権者数が少ないせいもあったが、一部の高額納税者にしか[[選挙権]]が無いという当時の選挙制度を正面から批判した。 大正5年([[1916年]])、月刊誌『スコブル』を創刊し軌道に乗せた。大正6年([[1917年]])、[[第13回衆議院議員総選挙]]でも再び選挙違反告発を目的として立候補。『スコブル』に選挙違反告発の目的を達成できなくとも「自己の賣名」は達成できると開き直ったり、投票日前に「落選報告演説會」の告知を出したりした。この時代の総選挙は厳密には立候補制ではなくどこの選挙区で運動することも可能だったが、[[東京市]]、大阪市それぞれの選挙区でいずれも3票と惨敗した。ちなみに「落選報告演説會」は落選後予定どおり開催され、外骨の他、外骨を下回る2票で惨敗した職工の[[厚田正二]]、1295票で法定得票には到達したが及ばなかった講釈師の[[伊藤痴遊#初代|伊藤痴遊]]も弁士として出席し盛況であった。入口に「入場料金三銭、貧民無料、新聞記者は貧民同様無料」と掲げたところ新聞記者たちは始めはそのまま入場しかけたが、「貧民同様」の文言にプライドを刺激されたのか慌てて入場料を支払ったという。 また、社会主義には当初は「到底世人の賛同を得られまい」「今の政府者がコンナ社會主義者を怖がるのは何故であるか、我々は其の理由が判らない」(『滑稽新聞』通巻125号)と冷めた見方をしていた。その後は「極端なる社會主義の実行には不賛成」だが「(政府を)普通尋常の手段で攻撃してもその功は無い、これは社會主義でおどかして改心せしめるより外に途はない」(『滑稽新聞』通巻139号)と間接的に評価するようになった。さらに思想的には距離を置きつつも森近の『[[大阪平民新聞]]』刊行を援助し「平民新聞の提灯持ち」を自称したため、[[特別高等警察]]に「社會主義派」の「特別要視察人」としてマークされた<ref>「[http://home.s02.itscom.net/boukyou/tokubetu.htm 特別高等係編『特別要視察人名簿』…「系統別調査表」(大正十年十二月現在)]」</ref>。森近が師事した[[幸徳秋水]]にも好意的で面識はないが幸徳の[[死刑存廃問題|死刑廃止論]]を評価し、[[第二次世界大戦|第二次大戦]]後になって『明治社会主義文献叢書』([[龍吟社]])の秋水文集の編纂に協力している。その後[[吉野作造]]の[[民本主義]]に傾倒し、大正8年([[1919年]])3月には雑誌『民本主義』を創刊した。しかし創刊からわずか4日後に即発禁処分となり廃刊させられている。大正13年([[1924年]])に吉野が[[明治文化研究会]]を立ち上げた際にも、外骨は同人として名を連ねている。 昭和2年([[1927年]])に[[博報堂]]の創業者・[[瀬木博尚]]の資金援助を受け、[[東京大学|東京帝国大学]][[法学部]]に明治新聞雑誌文庫(通称「明治文庫」)が創立された。外骨は東京帝国大学の嘱託となり、吉野とともにその充実に貢献した。外骨が全国の旧家を回って収集を行った新聞等の資料は文化史としての歴史的価値のあるもので現在の東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センターに改組された明治新聞雑誌文庫に所蔵され、広く研究のための利用に供されている。 終戦後も[[連合国軍総司令部|GHQ]]による検閲や発禁処分を度々受け、「何が言論の自由か」と言論の規制を敷いている点では戦前の日本政府とGHQは大して差が無いことを批判した。 昭和24年([[1949年]])に東京大学(昭和22年(1947年)東京帝国大学より改称、昭和24年[[新制大学|新制]]東京大学に)を退職。昭和30年([[1955年]])7月30日に[[文京区]][[駒込]]追分町の自宅で死去。晩年は容姿が[[マハトマ・ガンディー|ガンジー]]に似ているといわれた。 == 家族及び親族 == 外骨自身は結婚しているが、若くして妻子に先立たれている。外骨が27歳の時に緒方八節(おがた やよ)との間に、一男天民(てんみん)をもうけたが、わずか1歳で天民は夭折。妻・八節とも48歳の時に死別している。明治39年([[1906年]])に養女にした三千代は大正13年([[1924年]])に嫁ぎ先で流産の為に死去。その死を知らせて来た電報を外骨は生涯手元に置いていた。 晩年の外骨と生活をともにし外骨の伝記や復刻本を多数刊行、近代史関係の著作もある[[吉野孝雄]]は甥。 従兄弟の曾孫にフリーライターで宮武外骨を研究するグループ「ぐわいこつふあんくらぶ」会長の、砂古口早苗(さこぐち さなえ、昭和24年([[1949年]]) - )がいる。 == 刊行物及び著書 == === 雑誌・新聞 === *『屁茶無苦新聞』明治19年(1886年)4月 ※1号のみ *『頓智新聞』明治19年(1886年)10月 ※1号のみ *『絵入広告新聞』明治19年(1886年)11月 ※1号のみ *『頓智協会雑誌』明治20年(1887年)4月~明治22年(1889年)2月 ※1~28号 *『宮武雑誌』明治20年(1887年)12月 ※1号のみ *『西洋叢談』明治21年(1888年)3月 ※1号のみ *『文明雑誌』明治26年(1893年)3月 ※1号のみ *『頓智と滑稽』明治28年(1895年)5月~11月 ※1~7号 *『骨董雑誌』明治29年(1896年)11月~明治31年(1898年)10月 ※1号~第3編4号 *『半狂堂随筆』明治29年(1896年)11月~明治30年(1897年)10月 ※1~8集「骨董雑誌」付録 *『古今内外名数雑誌』明治30年(1897年)8月 ※1号のみ *『骨董協会雑誌』明治32年(1899年)1月~4月 ※1~4号 *『美術国』明治32年(1899年)4月 ※1号のみ *『台北新報』明治32年(1899年)10月 ※1号のみ *『滑稽新聞』明治34年(1901年)1月~明治41年(1908年)10月 ※1~173号 *『活殺』明治40年(1907年)5月 ※1号のみ *『絵葉書世界』明治40年(1907年)5月~明治42年(1909年)6月 ※1~26集「滑稽新聞」増刊 *『月雪花』明治40年(1907年)5月~6月 ※1~2集「絵葉書世界」付録 *『教育画報 ハート』明治40年(1907年)10月~明治41年(1908年)1月 ※1~3号 *『大阪滑稽新聞』明治40年(1907年)10月~明治42年(1909年)4月 ※1~19号 *『大阪滑稽新聞』明治41年(1908年)11月~明治43年(1910年)2月 ※1~31号 *『此花』明治43年(1910年)1月~明治45年(1912年)7月 ※1枝~周落号 *『有名無名』明治45年(1912年)4月~6月 ※1~2号 *『日刊 不二 新聞』大正2年(1913年)4月~大正3年(1914年)4月 ※1~300号 *『月刊 不二 雑誌』大正2年(1913年)10月~大正3年(1914年)3月 ※1~10号 *『興味雑誌 奇』大正3年(1914年)5月~11月 ※1~7号 *『天下茶屋』大正3年(1914年)12月 ※1号のみ *『ザックバラン』大正4年(1915年)5月~7月 ※1~2号 *『袋雑誌—新刊十二種』大正4年(1915年)11月 ※1号のみ *『猥褻研究会雑誌』大正5年(1916年)6月 ※1号のみ *『スコブル』大正5年(1916年)10月~大正8年(1919年)2月 ※1~27号 *『男女性学雑誌』大正7年(1918年)1月~2月 ※1~2号 *『迷信研究雑誌』大正7年(1918年)1月~2月 ※1~2号 *『民本主義』大正8年(1919年)3月 ※1号のみ *『赤』大正8年(1919年)7月~大正9年(1920年)2月 ※1~7号 *『逃避文学』大正11年(1922年)5月~大正12年(1923年)5月 ※1~4号 *『変態知識』大正13年(1924年)1月~12月 ※1~12号 *『早晩廃刊雑誌』大正15年(1926年)4月 ※1号のみ *『奇抜と滑稽』昭和2年(1927年)5月~9月 ※1~5号 *『面白半分』昭和4年(1929年)6月~11月 ※1~6号 *『公私月報』昭和5年(1930年)11月~昭和15年(1940年)3月 ※1~109号 *『ふたな』昭和12年(1937年)9月 ※1号のみ === 著書等 === *『孰姉乎妹 一名幼婦集』香西伝次郎 明治18年(1885年)4月 ※宮武外骨・序文 *『日本全国新聞雑誌細見』友文舎・浮木堂 明治19年(1886年)6月 *『日本全国新聞雑誌一覧表』広原基輔 明治20年(1887年)10月 *『鉄窓詞林』石川島獄中倶楽部 明治23年(1890年)3月 *『人を驚かす法 別名文明論豪傑策』文明雑誌社 明治26年(1893年)3月 ※「文明雑誌」第1号付録 *『古今名誉実録』第1巻~第8巻 春陽堂 明治26年(1893年)9月~12月 *『舶来知恵袋』春陽堂 明治26年(1893年)10月 *『本朝知恵袋』春陽堂 明治27年(1894年)1月 *『明治天狗』第1号~第2号 小西大東 明治28年(1895年)9月~10月 ※「頓智と滑稽」第5号、6号付録 *『滑稽辞林』安田書店 明治36年(1903年)10月 *『日本新刑法』滑稽新聞社 明治41年(1908年)8月 ※「滑稽新聞」168号付録 *『菱川師宣画譜』(浮世絵名鑑1)雅俗文庫 明治42年(1909年)7月 *『奇想天来』雅俗文庫 明治43年(1910年)1月 *『猥褻風俗史』雅俗文庫 明治44年(1911年)4月 *『奥村政信画譜』(浮世絵名鑑2)雅俗文庫 明治44年(1911年)4月 *『筆禍史』雅俗文庫 明治44年(1911年)5月 *『人形雑誌』上篇 雅俗文庫 明治44年(1911年)5月 ※下篇は刊行されず *『西川祐信画譜』(浮世絵名鑑3)雅俗文庫 明治44年(1911年)9月 *『山東京伝』吉川弘文館 大正5年(1916年)11月 *『面白半分』文武堂 大正6年(1917年)4月 *『つむじまがり』文武堂書店 大正6年(1917年)7月 *『通俗心理奇問正答』文武堂書店 大正7年(1918年)6月 *『猥褻廃語辞彙』宮武外骨 大正8年(1919年)5月 ※頒布禁止のため大正14年2月に再版 *『裸に虱なし』文武堂書店 大正9年(1920年)2月 *『奇想凡想』文武堂書店 大正9年(1920年)6月 *『一癖随筆』第1号~第3号 半狂堂 大正10年(1921年)4月~大正11年(1922年)4月 *『日本擬人名辞書』半狂堂 大正10年(1921年)5月 *『寂滅為楽考』半狂堂 大正10年(1921年)5月 ※『日本擬人名辞書』直接購入者付録 *『売春婦異名集』半狂堂 大正10年(1921年)10月 *『笑ふ女』半狂堂 大正10年(1921年)10月 ※『売春婦異名集』と同内容 *『婉曲対句集』半狂堂 大正10年(1921年)10月 ※『売春婦異名集』『笑ふ女』付録 *『半男女考』半狂堂 大正11年(1922年)5月 *『奇態流行史』半狂堂 大正11年(1922年)7月 *『死刑類纂』半狂堂 大正11年(1922年)10月 *『賭博史』半狂堂 大正12年(1923年)5月 *『縮刷奇態流行史』一人社 大正12年(1923年)7月 *『面白半分』半狂堂 大正12年(1923年)8月 ※和装版 *『震災画報』第1冊~第6冊 半狂堂 大正12年(1923年)9月~大正13(1924年)年1月 *『川柳語彙』半狂堂 大正12年(1923年)11月 *『川柳と百人一首』(川柳叢書2)半狂堂 大正13年(1924年)9月 *『川柳や狂句に見えた外来語』(川柳叢書3)半狂堂 大正13年(1924年)9月 *『猥褻と科学』半狂堂 大正13年(1924年)12月 *『明治奇聞』第1篇~第6篇 半狂堂 大正14年(1925年)1月~大正15年(1926年)6月 *『且也』無記名 大正14年(1925年)1月 *『文明開化』1~4 半狂堂 大正14年(1925年)7月~大正15年(1925年)9月 *『明治演説史』(表裏叢書1)有限社 大正15年(1926年)4月 *『明治密偵史』(表裏叢書2)有限社 大正15年(1926年)7月 *『筆禍史』改訂増補 朝香屋書店 大正15年(1926年)9月 *『明治史料』半狂堂 昭和2年(1927年)10月 *『すきなみち』半狂堂 昭和2年(1927年)10月 *『外骨著書 売らん哉』宮武外骨 昭和3年(1928年)2月 *『日本全国各地に郷土博物館の設立を望む(私案)』宮武外骨 昭和3年(1928年)2月 *『一円本流行の害毒と其裏面談』有限社 昭和3年(1928年)11月 *『アリンス国辞彙』半狂堂 昭和4年(1929年)5月 *『東天紅—東京帝国大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵目録』瀬木博尚 昭和5(1930年)年7月 *『自家性的犠牲史』大阪出版社 昭和6年(1931年)4月 *『随題随記随刊』全10冊 半狂堂 昭和6年(1931年)12月 *『明治初期の法律雑誌変遷史』宮武外骨 昭和7年(1932年)4月 *『明治名数語彙』半狂堂 昭和8年(1933年)5月 ※「公私月報」第32号付録 *『東天紅—東京帝国大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵目録』続篇 瀬木博尚 昭和10年(1935年)10月 *『東天紅—東京帝国大学法学部明治新聞雑誌文庫所蔵目録』三篇 瀬木博尚 昭和16年(1941年)3月 *『府藩県制史』名取書店 昭和16年(1941年)3月 *『アメリカ様』蔵六文庫 昭和21年(1946年)5月 *『幸徳一派大逆事件顛末』(社会主義文献叢書4)龍吟社 昭和21年(1946年)12月 *『昭和二十三年陽暦陰暦対照民主暦』民主暦発行所 昭和22年(1947年)10月 === 編集本・復刻本 === *『奇事流行物語・奇態流行史』人物往来社・1961年 *『宮武外骨之著作集』太田書房・1972年 ※1.私刑類纂、5.変態知識のみ刊行 *『府藩県制史』崙書房・1973年 *『筆禍史 改訂増補版』崙書房・1974年 *『賭博史』崙書房・1974年 *『私刑類纂』崙書房・1974年 *『飯島花月増補 わいせつ廃語辞彙・わいせつ風俗史』有光書房・1976年 ※外箱・小冊子付き限定版あり。 *『公私月報』巌南堂書店・1981年2月 *『明治密偵史・明治の新聞雑誌』日本シェル出版・1981年6月 *『予は危険人物なり・宮武外骨自叙伝』筑摩書房・1985年1月/ちくま文庫(新編)・1992年12月 *『滑稽新聞』(全6巻・別巻「絵葉書世界」)筑摩書房・1985年2月〜1986年5月 *『宮武外骨著作集』(全8巻)河出書房新社・1985年7月〜1992年1月 *『明治新聞雑誌関係者略伝』(明治大正言論資料20)みすず書房・1985年11月(西田長寿と共著) *『宮武外骨此中にあり〜雑誌集成』(全26巻)ゆまに書房・1993年6月〜1995年4月 *『川柳語彙 増補版』(辞典叢書10)東出版・1995年12月 *『宮武外骨絵葉書コレクション』無明舎出版・1997年7月 *『猥褻廃語辞彙・日本擬人名辞書』(隠語辞典集成18)大空社・1997年12月 *『売春婦異名集』 (隠語辞典集成19)大空社・1997年12月 == 参考文献 == * 宮武外骨 著・吉野孝雄 編『滑稽漫画館』 河出文庫・1995年 ISBN 4-309-47284-2 * 宮武外骨 著・吉野孝雄 編『面白半分』 河出文庫・1996年 ISBN 4-309-47289-3 * 宮武外骨 著・吉野孝雄 編『猥褻風俗辞典』 河出文庫・1996年 ISBN 4-309-47296-6 * 宮武外骨 著・吉野孝雄 編『明治奇聞』 河出文庫・1997年 ISBN 4-309-47316-4 * 宮武外骨 著・吉野孝雄 編『刑罰・賭博奇談』 河出文庫・1998年 ISBN 4-309-47351-2 * 宮武外骨 著『震災画報』 ちくま学芸文庫・2013年 ISBN 978-4-480-09567-1 * 宮武外骨 著『アメリカ様』 ちくま学芸文庫・2014年 ISBN 978-4-480-09603-6 * 吉野孝雄 著『宮武外骨』 河出書房新社・1980年7月/河出文庫・1985年3月/河出文庫(『宮武外骨伝』と改題新版)・2012年3月 ISBN 978-4-309-41135-4 * 吉野孝雄 著『過激にして愛嬌あり〜宮武外骨と「滑稽新聞」』 筑摩書房(ちくまぶっくす50)・1983年9月/ちくま文庫・1992年4月 ISBN 4-480-02610-X * 木本至 著『評伝宮武外骨』 社会思想社・1984年10月 * 赤瀬川原平 著『外骨という人がいた!〜学術小説』 白水社・1985年2月/ちくま文庫・1991年12月 ISBN 4-480-02572-3 * 吉野孝雄 著『宮武外骨-民権へのこだわり-』 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー95)・2000年6月 ISBN 4-642-05495-2 * 砂古口早苗 著『外骨みたいに生きてみたい―反骨にして楽天なり』 現代書館・2007年3月 ISBN 4-7684-6947-7 * 紀田順一郎 監修 DVD『学問と情熱 宮武外骨 われ、明治を蒐集せり』 紀伊國屋書店 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == === 宮武が批判した主な対象 === *[[伊藤博文]] *[[官僚]] *[[山縣有朋]] *[[高崎親章]]([[大阪府知事一覧|大阪府知事]]) *[[黒岩涙香]]・[[萬朝報]] *[[徳富蘇峰]](徳富猪一郎)・[[國民新聞]] *[[吉田東伍]]・[[坂本嘉治馬]]・[[冨山房]] *ユスリ記者([[暴力団#歴史と区分|ブラックジャーナリズム]]) *[[大阪府警察]]・[[池上四郎 (大阪市長)]](大阪府警部長) *[[警察不祥事]] *[[逓信省]](町田重備) *[[本願寺]] *[[野口茂平衛]](野口茂平。インチキ[[医薬品]]業者・大阪市議。[[ワダ・エミ]]の曾祖父) *[[藤村操]] === その他 === *[[南方熊楠]] *[[明治文化全集]] *[[赤瀬川原平]] *[[社会主義]] *[[大逆事件]] *[[浮世絵]] *[[噂の眞相]] *[[日本における検閲]] == 外部リンク == * [http://www2s.biglobe.ne.jp/~dolly/ 宮武外骨解剖] * {{青空文庫著作者|63|宮武外骨}} * [http://w01.tp1.jp/~a031566531/handakyodo.htm 知多半島歴史研究](「研究テーマ「亀崎鉄工所と大逆事件」関連史料」として、外骨の記事がある) * [http://wind.ap.teacup.com/chimei/index.html 世紀をまたぐ『大日本地名辞書』](大日本地名辞書を批判した外骨の記事がある) {{Normdaten|PND=1012347877|LCCN=n/81/17323|VIAF=70243623}} {{DEFAULTSORT:みやたけ かいこつ}} [[Category:日本のジャーナリスト]] [[Category:日本の雑誌編集者]] [[Category:新聞編集者]] [[Category:日本の歴史学者]] [[Category:メディア史学者]] [[Category:辞典編纂者]] [[Category:日本の評論家]] [[Category:日本の政治評論家]] [[Category:明治文化研究会の人物]] [[Category:日本のコレクター]] [[Category:日本の国政選挙の立候補経験者]] [[Category:東京大学の人物]] [[Category:讃岐国の人物]] [[Category:香川県出身の人物]] [[Category:被差別部落]] [[Category:1867年生]] [[Category:1955年没]]
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