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宮ノ前事件
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'''宮ノ前事件'''(みやのまえじけん)は、[[永禄]]4年([[1561年]])に[[平戸市|平戸]]において[[ポルトガル]]商人と日本人との間で発生した暴動事件。[[平戸港]]そばの七郎宮の露店で発生したことから、[[松浦党]]や[[郷土史]]の研究者の間で「宮ノ前事件」・「宮前事件」と呼んでいる。 ==概要== 1561年の南蛮船来航にあわせて、平戸・[[博多]]・[[豊前国|豊前]]商人との売買交渉が始まったが、絹糸(または絹織物)の交渉が決裂し、両者の間に険悪な空気が生じた。日本商人が商品を投げつけたことを契機に南蛮商人が殴りかかり、双方入り乱れての乱闘に発展した。見かねた武士が仲裁に入ったが、南蛮商人は日本側への助太刀と勘違いし、船に戻って武装し、日本商人や武士団を襲撃した。武士団も抜刀して応戦。南蛮商人はフェルナン・デ・ソウサ船長以下14名の死傷者を出し、平戸港を脱出した。 ==背景== この事件は、単なる商取引上のトラブルにとどまらず、平戸領内での[[キリシタン]]と[[仏教徒]]の確執が表面化したものと解釈される。[[鹿児島]]での布教を断念した[[フランシスコ・ザビエル]]が次に布教の拠点としたのが平戸であり、領主[[松浦隆信 (道可)|松浦隆信]]も[[南蛮貿易]]の利権を獲得するために布教を受容したため、[[生月島]]と[[度島]]だけでも1400人が改宗した。改宗したキリシタンは寺社や墓地の破壊を行い、入信を拒んだ仏教徒との間に確執が生じていた。 永禄2年([[1559年]])、西禅寺住職と日本人修道士[[ロレンソ了斎]]との宗教論争を契機に、仏教徒による暴動未遂事件が発覚した。松浦隆信はキリシタン側の総責任者として平戸で布教活動をしていた[[ガスパル・ヴィレラ|ガスパル・ド・ヴィレラ]]神父を追放したが、禁教には踏み切らなかった。そのため仏教徒の不満は解消できず、キリシタンへの不信感はくすぶっていた。これが宮前事件の伏線であると考えられている。 ==影響== [[豊後国|豊後]]で布教活動をしていた日本教区長[[コスメ・デ・トーレス]]は、この暴動の後に日本人への処罰が行われなかったことから、平戸での貿易を拒絶することに決めた。1559年の暴動未遂事件以来、[[ルイス・デ・アルメイダ]]神父に新貿易港の探索を命じており、ひとまず平戸から撤退することを[[ゴア州|ゴア]]のポルトガル総督に進言した。一方、アルメイダ神父は[[大村純忠]]との接触に成功し、翌永禄5年([[1562年]])、純忠が提供した[[横瀬浦]]を新貿易港として、対日貿易を再開した。 {{DEFAULTSORT:みやのまえしけん}} [[Category:戦国時代 (日本)]] [[Category:日本の戦国時代の事件]] [[Category:平戸市の歴史]]
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