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[[Image:Kinki (1868).jpg|thumb|right|120px|官軍の旗印である[[錦の御旗]]の模写図。]] '''官軍'''(かんぐん)は、[[君主]]に属する正規の[[軍隊|軍]]のこと。[[日本]]においては[[天皇]]及び[[朝廷]]に属する軍を指す。 == 概要 == [[尊王論|尊皇思想]]が根ざす[[日本史]]上において「天皇陛下の軍隊である」という意識は、軍全体の[[士気]]にも大きく影響した。 対する言葉は「[[賊軍]]」。しかし、官軍・賊軍の立場はその状況次第で変動が激しく、天皇([[朝廷]])の[[勅書]]や後継をめぐる[[戦略]]が繰り返される傾向にある。[[江戸時代]]の[[民間人|民衆]]がこれを揶揄した[[狂歌]]「勝てば官軍 敗ければ賊よ 命惜むな 國のため」があり、後に「勝てば官軍、負ければ賊軍」といった[[諺]]も生まれている。 == 戊辰戦争 == 「官軍」の呼称が用いられていた例として著名なのは、[[戊辰戦争]]において新政府軍が旧江戸幕府軍を賊軍として討伐した際のものである。 1868年([[慶応]]4年)の[[鳥羽・伏見の戦い]]後、[[小松宮彰仁親王|仁和寺宮彰仁親王]]を[[征討大将軍]]、[[有栖川宮熾仁親王]]を[[東征大総督]]に任じて諸道鎮撫使・諸道総督府などを各地に派遣した。この際、官軍は菊章旗(「[[錦の御旗]]」)を掲げた。鎮撫使や総督府には[[長州藩]]・[[薩摩藩]]などの雄藩の実力者が参謀などとして参加していた。 官軍といっても実態は新政府側についた諸藩の軍と草莽の部隊によって構成され、大総督府がこれらの部隊を統制した。また、各地に民政局を設置して窮民保護を掲げて民衆に宣伝を行った。その一方で、窮民保護方針に基づく「年貢半減令」を伝達した[[赤報隊]]を偽官軍として弾圧したり、[[世直し一揆]]を鎮圧するなど、宣伝と矛盾する措置が行われたこともあった。 === 戊辰戦争における官軍構成 === * [[征討大将軍]](慶応4年1月4日設置。同年1月28日廃止。) * [[東征大総督]]府(慶応4年2月9日設置。) ** 東海道先鋒総督府 *** 総督 - 副総督 - 参謀 - 内参謀 - 軍監 ** 東山道先鋒総督府 *** 総督 - 副総督 - 参謀 - 内参謀 - 軍監 ** 北陸道先鋒総督府 *** 総督 - 副総督 - 参謀 - 内参謀 - 軍監 ** 奥羽先鋒総督府 *** 総督 - 副総督 - 参謀 - 内参謀 - 軍監 == 備考 == * 『[[日本書紀]]』の記述では、神代、神武東征のおり、長脛彦軍と「孔舎衛の戦い」の際、五瀬命が流れ矢で致命傷を受け、助からないとわかった時、のちの神武天皇は長脛彦軍を「賊」として表現しており、官軍意識を強調した内容が神話の時点でみられる。 * 神武東征では、女性部隊も存在し、戊午の年9月5日条に、「女軍(めのいくさ)」を女坂に置き、11月7日条では、女軍を進ませ、敵は大兵が来たと思って、尽力して迎え討ったとあり、官軍が女兵を用いた例である。 == 参考文献 == * 井上勝生「官軍」(『日本史大事典 2』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13102-4) == 関連項目 == *[[皇軍]] *[[賊軍]] *[[私軍]] *[[義勇軍]] *[[平家]] *[[大政奉還]] *[[戊辰戦争]] *[[西南戦争]] *[[錦の御旗]] *[[迅衝隊]] {{DEFAULTSORT:かんくん}} [[Category:幕末諸隊|*]] [[category:明治維新]]
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