コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
宗尊親王のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
宗尊親王
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{出典の明記|date=2011年3月}} {{基礎情報 皇族・貴族 |人名=宗尊親王 |各国語表記= |家名・爵位=[[鎌倉幕府]]6代[[征夷大将軍|将軍]] |画像= |画像サイズ= |画像説明= |続柄=[[後嵯峨天皇]]第一皇子 |称号= |全名= |身位=[[親王]] |敬称= |お印= |出生日=[[仁治]]3年[[11月22日 (旧暦)|11月22日]]([[1242年]][[12月15日]]) |生地=[[平安京]] |死亡日=[[文永]]11年[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]([[1274年]][[9月2日]]) |没地= |埋葬日= |埋葬地= |配偶者1=[[近衛宰子]] |配偶者2=[[堀川具教]]の娘 |配偶者3= |配偶者4= |配偶者5= |配偶者6= |配偶者7= |配偶者8= |配偶者9= |配偶者10= |子女='''[[惟康親王]]'''、[[りん子女王|掄子女王]]、真覚、[[瑞子女王]] |父親=[[後嵯峨天皇]] |母親=[[平棟子]]([[平棟基]]の娘) |役職=[[一品親王|一品]]、[[征夷大将軍]]、[[中務省|中務]]卿 }} '''宗尊親王'''(むねたかしんのう)は、[[鎌倉幕府]]6代将軍。[[皇族]]での初めての[[征夷大将軍]]。[[後嵯峨天皇]]の第一皇子。 == 生涯 == 5代将軍の[[藤原頼嗣]]が京に送還された後の[[建長]]4年([[1252年]])4月に11歳で[[鎌倉]]に迎えられ、異母弟の後深草天皇より征夷大将軍の宣下を受ける。 <small>'''征夷大将軍の辞令(宣旨)'''「吾妻鏡」<br /> 三品 宗尊親王 右被左大臣宣偁件親王宜征夷大将軍 建長四年四月一日 大外記中原朝臣師兼奉 (訓読文) 三品 宗尊親王 右、左大臣([[鷹司兼平]])の宣を被るに偁(い)はく、件(くだん)の親王、宜しく征夷大将軍に為すべし 建長4年4月1日 大外記中原朝臣師兼([[押小路師兼]])奉る</small> 親王は後嵯峨天皇の事実上の長子<ref>宗尊親王の兄に[[円助法親王]]がいたが、邦仁王(後の後嵯峨天皇)が不遇な境遇のために正式な[[元服]]を行われていない状況下で誕生した子であり、将来的には僧侶にせざるを得なかった。</ref>であり、父から寵愛されていたが母方の身分が低いために皇位継承の望みは絶望的であり、後嵯峨天皇は親王の将来を危惧していた。その一方で将軍家と[[摂関家]]の両方を支配する[[九条道家]](頼嗣の祖父)による幕府政治への介入に危機感を抱いていた[[執権]][[北条時頼]]も[[九条家]]を政界から排除したいという考えを持っていた。ここにおいて天皇と時頼の思惑が一致したため、「[[宮将軍|皇族将軍]]」誕生の運びとなったのである。 しかし当時の幕府は既に[[北条氏]]による専制体制を整えていたため将軍には何ら権限は無かった。そのため和歌の創作に打ち込むようになり、歌会を何度も行った。その結果、鎌倉における武家を中心とする歌壇が隆盛を極め、[[後藤基政]]・[[島津忠景]]ら御家人出身の有能な歌人が輩出された。鎌倉歌壇は『[[続古今和歌集|続古今集]]』の撰者の人選にも影響を及ぼし、親王自身も同集の最多入選歌人となっている。代表的な歌集に『柳葉和歌集』、『瓊玉和歌集』、『初心愚草』がある。 25歳となった[[文永]]3年([[1266年]])6月、正室の[[近衛宰子]]と僧・[[良基]]の密通事件を口実に謀叛の嫌疑をかけられ、[[北条政村]]・[[北条時宗|時宗]]らによる[[寄合衆|寄合]]で将軍の解任と京への送還が決定された。この騒動で御家人たちが鎌倉に馳せ集まり、[[北条氏 (名越流)|名越流北条氏]]の[[北条教時]]が更迭に断固として反対し時宗の制止を無視して武装した軍勢を率いて示威行動を行い、その軽率さを叱責された。教時の示威行動は後の[[二月騒動]]における教時の粛清にも繋がった。次の将軍は嗣子の[[惟康親王|惟康王]]が就いた。文永9年([[1272年]])、[[二月騒動]]で側近の[[中御門実隆]]が拘束され、その直後に父の後嵯峨法皇の崩御に伴うためとして出家した。法名は覚恵、または行証(行勝)。 [[文永]]11年([[1274年]])[[8月1日 (旧暦)|8月1日]]、33歳で死去。 == 宗尊親王真跡とされるもの == * 有栖川切 * 催馬楽切 * 古今集切 * 神楽歌切 などがあり、これ以外にも宗尊親王真跡とされるものは数多くあるが、その多くは、親王が愛玩あるいは愛好した[[平安時代]]の名筆と思われるものが多く含まれ、宗尊親王真跡であるか不明であるものが多いとされる。しかし名筆家であるという評価は揺るがない。 == 官歴 == ※日付=旧暦 *[[寛元]]2年(1244年) 1月28日:立親王。 *[[建長]]4年(1252年) 1月8日:元服。三品に叙せらる。4月1日:征夷大将軍宣下。 *[[文永]]2年(1265年) 9月17日:一品に昇叙し、中務卿に任官。 *[[文永]]3年(1266年) 7月20日:征夷大将軍辞職。 == 将軍在職時の執権 == * [[北条時頼]]([[北条時氏|時氏]]の子。[[得宗]]、5代執権。子の[[北条時宗|時宗]](8代執権)には[[偏諱]]を与えた。) * [[北条長時]]([[北条重時|重時]]の子。6代執権。) * [[北条政村]]([[北条義時|義時]]の子。7代執権。) == 系譜 == *父:[[後嵯峨天皇]] *母:[[平棟子]]([[平棟基]]の娘) *正室:[[近衛宰子]] **男子:[[惟康親王]](1264-1326) **女子:[[掄子女王]](1265-?) - [[准三后]]、[[後宇多天皇]]後宮 *妻:[[堀川具教]]の娘 **男子:真覚 **女子:[[瑞子女王]](永嘉門院)(1272-1329) - [[亀山天皇]]養女、後宇多天皇後宮 == 脚注 == {{reflist}} == 関連項目 == *[[上杉重房]] - 宗尊親王のお供として関東に下向した。 *[[北条時宗 (NHK大河ドラマ)|北条時宗]](2001年・NHK大河ドラマ) - 演:[[吹越満]] {{鎌倉幕府将軍}} {{DEFAULTSORT:むねたかしんのう}} [[Category:日本の親王]] [[Category:鎌倉時代の男性皇族]] [[Category:鎌倉幕府の征夷大将軍]] [[Category:鎌倉時代の歌人]] [[Category:日本の能書家]] [[Category:1242年生]] [[Category:1274年没]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:出典の明記
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:基礎情報 皇族・貴族
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:鎌倉幕府将軍
(
ソースを閲覧
)
宗尊親王
に戻る。
検索
検索
宗尊親王のソースを表示
話題を追加