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{{出典の明記|date=2012年9月|ソートキー=人1381年没}} [[File:Song Lian.jpg|thumb|left|120pz|宋濂 /『晩笑堂竹荘画伝』より]]{{二十四史}} '''宋 濂'''(そう れん、[[1310年]]([[至大]]3年) - [[1381年]]([[洪武]]14年))は[[中国]]・[[元 (王朝)|元]]末[[明]]初の政治家・[[儒学者]]・文学者。[[字]]は景濂。号は潜渓・無相居・竜門子・玄真子。浦江([[浙江省]][[浦江県]])出身(先代まで金華・潜渓村)。 貧しい家庭に生まれたが、学問を好み、儒学に精通するようになった。[[呉萊]]、柳貫、黄溍といった[[古文 (文体)|古文]]の大家に学び、[[1335年]]([[至元 (元順帝)|至元]]元年)には義塾(私塾)の教師となった。[[トゴン・テムル|順帝]]のとき[[翰林院]]編修に任ぜられたが、父母に孝養を尽くす事を理由に固辞して隠居し、著述に専念した。 [[1360年]]([[至正]]20年)、浙東四先生のひとりとして名声が高まっていた宋濂は、有力な反乱勢力となっていた[[朱元璋]](洪武帝)に招聘された。朱元璋が明を建国すると、江南儒学提挙に任ぜられ太子に儒教の経典を講じた。そして、明代の礼楽制度を多く裁定した。[[1369年]](洪武2年)、『[[元史]]』の編纂を命じられ、その主任となった。官は翰林学士承旨・[[知制誥]]に至った。[[1377年]](洪武10年)、老齢を理由に官を辞し故郷に帰った。[[1380年]]、孫の宋慎牽が[[胡藍の獄#胡惟庸の獄|胡惟庸の獄]]に巻き込まれ、家族全員が茂州(現[[四川省]][[茂県]])に流罪となった。そして流刑地に赴く途中夔州(現[[重慶市]][[奉節県]])で病死した。[[諡]]は文憲。 文学史の分野では、宋濂は[[劉基]]・[[高啓]]とならんで明初の詩文三大家の一人に数えられている。[[儒教]]においても、自ら儒教の伝統の正統な継承者を以て任じていた。[[唐]]・[[宋 (王朝)|宋]]代の文を手本に「宗経」「帰古」をモットーとして多くの著作を残した。その他の著作は[[伝記]]や[[散文]]が主で、その文体は質朴簡潔であるが、おおらかで優雅な面ももつというそれぞれに異なった特色がある。朱元璋は宋濂を評して「開國文臣之首」(開国に功のある文臣の首席)とし、劉基は「當今文章第一」(当代随一の文章家)と賞賛し、当時の様々な学者たちは「太史公」(『[[史記]]』の作者[[司馬遷]]になぞらえる)と呼んでいた。著作には『宋学士全集』・『浦陽人物記』・『洪武聖政記』がある。 弟子に明代初期の有名な学者[[方孝孺]]がいた。 {{DEFAULTSORT:そう れん}} [[Category:中国の儒学者]] [[Category:近代以前の中国の歴史家]] [[Category:14世紀の学者]] [[Category:明代の人物]] [[Category:金華出身の人物]] [[Category:1310年生]] [[Category:1381年没]]
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