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安藤百福
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{{Infobox 人物 |氏名=安藤百福 |画像= |画像サイズ=200px |画像説明=<!-- 安藤百福 --> |生年月日=[[1910年]][[3月5日]] |生誕地={{JPN1889}} [[日本統治時代 (台湾)|台灣]]朴仔脚<br/>(現:{{ROC-TW}}[[嘉義県]][[朴子市]]) |没年月日={{死亡年月日と没年齢|1910|03|05|2007|01|05}} |死没地={{JPN}} [[大阪府]][[池田市]] |職業=[[日清食品]][[株式会社]]創業者 |出身校=[[立命館大学]] |配偶者=安藤仁子(まさこ) |子供=長男安藤宏寿(ひろとし、元日清食品代表取締役社長)、<br />次男[[安藤宏基]](こうき、現[[日清食品ホールディングス]][[株式会社]]代表取締役[[CEO]]、<br />長女堀之内明美(ほりのうち あけみ) }} '''安藤 百福'''(あんどう ももふく、旧名・台湾名:'''呉 百福'''({{lang|zh-hant|吳 百福}} / {{lang|zh-hans|吴 百福}}、{{ピン音|Wú Bǎifù}})、[[1910年]][[3月5日]] - [[2007年]][[1月5日]])は[[実業家]]、[[発明家]]。世界で初めて商業的に成功した[[インスタントラーメン]]「[[チキンラーメン]]」と、世界初のカップ麺「[[カップヌードル]]」を開発した。[[日清食品]]株式会社の創業者。 == 概要 == [[日本統治時代 (台湾)|日本統治時代]]の[[台湾]][[嘉義県]]出身。[[1948年]]([[昭和]]23年)に(株)中交総社(後にサンシー殖産に社名変更)を設立。約10年間の休眠状態を経て、1958年(昭和33年)、チキンラーメンの発明に伴い日清食品株式会社に商号変更。日清食品代表取締役社長、代表取締役会長、創業者会長を歴任。(社)[[日本即席食品工業協会]]会長、(財)[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]理事長、(財)漢方医薬研究振興財団会長、世界ラーメン協会WINA会長、(財)いけだ市民文化振興財団会長など、多くの公職を務めた。[[1934年]](昭和9年)、[[立命館大学]]専門学部経済科修了。[[1996年]]([[平成]]8年)、立命館大学名誉経営学博士。[[池田市]][[名誉市民]]。叙位叙勲は正四位勲二等旭日重光章。 「[[チキンラーメン]]」「[[カップヌードル]]」を発明・開発したことにより、日本と世界の食文化に大きな革新をもたらした。チキンラーメンに始まるインスタントラーメンの歴史は、約半世紀を経て、世界で年間総需要1000億食を越える巨大な世界産業に成長した。 == 来歴・人物 == === 幼少〜青年期 === [[1910年]]([[明治]]43年)、日本統治時代の台湾・[[嘉義市]]付近の樸仔脚(現・[[朴子市]])に生まれる。樸仔脚は、[[製塩|製塩業]]が盛んな[[布袋鎮|布袋]]や、意麺という麺類で有名な[[塩水鎮|塩水]]の近隣の町である。両親を幼少期に亡くし、繊維問屋を経営する祖父母のもとに預けられ、[[台南市]]で育った。[[1932年]]([[昭和]]7年)、22歳のとき父の遺産を元手に繊維商社「東洋莫大小(とうようメリヤス)」を設立した。当時、肌着や靴下など伸縮性のある編み物生地の[[メリヤス]]を扱う[[商社]]は少なく、事業は成功し、翌年には[[大阪市]]に日東商会を設立、繊維産業の本場だった[[船場 (大阪市)|船場]]の近くに事業拠点を置き、日本で仕入れた製品を台湾に輸出して売るという貿易業務を始めた。ほかにも安藤は、光学機器や[[精密機械]]の製造、飛行機エンジンの部品製造などにも事業を拡大する一方、[[立命館大学]]専門学部経済科(夜間部)に学んだ。 戦前戦後には、時代の波に翻弄されて数々の苦労と辛酸をなめ、波乱の人生を過ごすこととなる。軍用機のエンジン部品工場では、国から支給された部品の横流し疑惑が原因で、[[大手前]]の[[憲兵 (日本軍)|憲兵隊]]本部へ連行され、数々の[[拷問]]を受けたが、やがて無罪が証明されて釈放された。 [[第二次世界大戦]]下では[[1945年]](昭和20年)3月13日から終戦まで続いた[[大阪大空襲]]によって全ての事務所や工場を焼失した。戦後すぐ、大阪で[[百貨店]]経営を手始めに事業を再開。当時は食糧不足で栄養失調や飢餓で亡くなる人が多く、[[1946年]]([[昭和]]21年)、[[大阪府]]南部の[[泉大津市]]で、旧[[大阪砲兵工廠|大阪陸軍造兵廠]]大津大砲試験場跡地の払い下げを受け、製塩事業を始めた。仕事がなくてぶらぶらしている失職中の復員軍人や若者に仕事を与えるため、海岸に鉄板を並べ、その上に海水を流して[[塩化ナトリウム|塩]]を製造することに成功した。その後も、泉大津市に病人用の栄養食品を開発する「国民栄養科学研究所」を設立、同じころ、[[愛知県]][[名古屋市]]に「中華交通技術専門学院」を設立して技術者の育成に努めるなど、一貫して、日本が戦後の荒廃から立ち直るための事業に傾倒した。 当時、塩は国の専売制ではなく、自由に作ることができた。とれた塩は主に近隣の人たちに配った。働いた若者たちには給料ではなく小遣いを支給したが、これが[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]の目に留まり、所得税法の違反に問われることになった。戦後、台湾出身者は[[日本国]]もしくは[[中華民国]]の[[国籍]]選択が必要となり、その際安藤は中華民国を選んだ(のち妻安藤氏の名前に改名し、日本に[[帰化]])。このため「[[財産税]]」徴収の対象から外れ、戦前から所有していた資産を引き継ぐことができた。これで戦後、新しい事業に取り組む資金的な足掛かりを得た。しかし、その豊かな資産が、当時歳入不足に陥っていたGHQの目にとまり、[[脱税]]容疑で逮捕、[[巣鴨拘置所|巣鴨プリズン]]に収監されることになった。安藤は税務当局を相手に処分の取り消しを求めて提訴、弁護団を組織して2年間法廷で闘った。やがて当局側から「提訴を取り下げたら釈放する」という和解案が出て、これに応じることでふたたび無罪釈放となった。 [[1948年]](昭和23年)、安藤の数々の事業活動の拠点として泉大津市に「中交総社」(資本金500万円、のち「サンシー殖産」に商号変更)を設立したが、これが10年間の休眠状態を経て、1958年(昭和33年)、現在の「[[日清食品]]」の母体となって復活することになる。 === 日清食品創業・チキンラーメン誕生 === 自伝『私の履歴書――魔法のラーメン発明物語』(日本経済新聞社刊)等によれば、昭和20年代の深刻な食糧不足をしのぐために、日本政府はアメリカ合衆国から送られる援助物資に頼っていたが、そのほとんどがアメリカの余剰小麦を利用した「粉食」(パン、ビスケットなど)だった。日本の[[厚生省]]は「粉食奨励」を政策として進め、学校給食をはじめ、[[パン]]食を奨励することになった。安藤は、古くから東洋の食文化である[[麺|めん]]類をもっと奨励すべきだと、当時の厚生省に提案した。「パンには必ずスープやおかずが必要だが、麺類なら同じどんぶりの中に主食の麺にスープと具材が付いて栄養もある」と主張した。厚生省の担当官は、「うどんやラーメンは量産技術が無く流通ルートも確立していないためやむなくパンが主体になっている」実情を説明し、麺文化の振興のために、自ら研究してはどうかと奨めた。当時、安藤は既存事業から手を広げる余裕がなかったため、麺類の事業化には至らなかったが、これが10年後にインスタントラーメンを開発する重大な契機になった。 戦後も、安藤の苦労はまだまだ続く。懇願されて、ある[[信用組合]]の[[理事長]]に就任することになるが、[[1957年]](昭和32年)、この信用組合が資金繰りに行き詰まり[[倒産]]する。理事長の安藤は[[負債]]を弁済することになり、戦前から蓄えてきた個人資産をすべて失い、事実上の無一文になった。家財道具にも赤紙が張られ、手元に残ったのは大阪府[[池田市]]にある一軒の自宅(借家)だけとなった。 安藤はその時、厚生省でのやり取りを思い出し、再起をかけて自邸の裏庭に建てた小屋でインスタントラーメンの研究を始める。即席性と保存性の確保、大量生産する技術を手に入れるため、失敗をくりかえすが、ある時、仁子夫人が天ぷらを揚げているのを見て、麺を油で揚げて乾燥させる「油熱乾燥法」を発明する。1年間かけて開発に成功した安藤は、[[1958年]](昭和33年)[[8月25日]]に世界に先駆けて[[チキンラーメン]]を発売した。[[丼|どんぶり]]に入れて湯を注ぐだけでおいしく食べられる簡便な食品は、「魔法のラーメン」と呼ばれて、瞬く間に人気商品となった。同年[[12月]]、サンシー殖産を「[[日清食品]]株式会社」に商号変更し、本社を大阪市東区(現中央区)に置いた。この社名は[[日清製粉グループ本社|日清製粉株式会社]]とは関係がなく、安藤の「日々清らかに、豊かな味を作ろう」という思いからつけられた。事業は順調に拡大した。信用組合倒産の際、母店となっていた大手銀行の容赦ない取り立てにあい、借金返済の苦労に追われた経験を教訓として、以後、安藤は無借金経営を貫き、日清食品を日本を代表する高収益体質の食品企業に成長させた。[[1963年]](昭和38年)、日清食品は[[東京証券取引所]]2部および[[大阪証券取引所]]2部へ上場するに到った。 チキンラーメンの好評を見て、追随する業者が多く出た。粗悪品や模造品の懸念から、安藤はチキンラーメンの[[商標]]や[[特許]]を申請・登録し、会社や商品の信用を守ることに努めた。[[1961年]](昭和36年)にチキンラーメンの商標登録が確定し、翌年には[[インスタントラーメン|即席ラーメン]]の基本的な製造法である「味付け乾麺の製法」と「即席ラーメンの製造法」の特許が登録された。この際、113社が警告を受けた。類似商法を見過ごすことはできないという姿勢を打ち出した安藤であったが、[[1964年]](昭和39年)には一社独占をやめ、日本ラーメン工業協会を設立し、メーカー各社に使用許諾を与えて製法特許権を公開・譲渡した。この時安藤は、「日清食品が特許を独占して野中の一本杉として栄えるより、大きな森となって発展した方がいい」という有名な言葉を残している。 また、食品業界の先鞭を切って「製造年月日表示」を始めたほか、インスタントラーメンの[[日本農林規格|JAS規格]]の制定に尽くすなど、一貫して業界全体の品質の維持・向上に努めた。製造年月日表示は、当時、関西主婦連合会・会長だった比嘉正子の強い勧めがあって決断したという。 === カップヌードル誕生 === 安藤は海外への進出を図るため、[[1966年]](昭和41年)に米国・ヨーロッパを視察した。米国のスーパーマーケットのバイヤーがチキンラーメンを二つ折りにして[[コップ#原料による分類|紙コップ]]に入れ、フォークで食べるのを見て、[[カップ麺]]の発想を手に入れた。日清食品は[[1970年]](昭和45年)にアメリカに現地法人を設立。翌[[1971年]](昭和46年)[[9月18日]]に世界初のカップ麺「[[カップヌードル]]」を国内で発売。当初、販売に協力的な問屋はなく苦戦するが、[[1972年]](昭和47年)[[2月]]、世間を驚かせた[[連合赤軍]][[あさま山荘事件]]の[[テレビ]]中継放送で、厳寒の中、湯気の上がるカップヌードルを食べる[[機動隊]]員の姿が映された。何を食べているのか興味を持った視聴者からの問い合わせが殺到し、これが事実上の宣伝となって、爆発的な売れ行きを伸ばした。この時、日清食品は警視庁に通常小売価格(100円)の半額でカップヌードルを提供した。 1973年(昭和48年)に、カップヌードルはアメリカ合衆国で「Cup O' Noodles」の名で発売され、その後、世界中にカップめん市場を広げる契機となった。現在カップヌードルは世界80か国で売られる世界ブランドになっている。 === 社長の座を息子へ、会長就任 === [[1981年]](昭和56年)、社長の座を長男の安藤宏寿に譲り、自らは会長に退くが、その2年後の[[1983年]](昭和58年)、宏寿が経営方針の相違から社長を退任したため、百福が会長兼任で再び社長に復帰した<ref>「カップヌードルをぶっつぶせ! 〜創業者を激怒させた二代目社長のマーケティング流儀〜」(安藤宏基著、中央公論新社)81頁</ref>。[[1985年]](昭和60年)[[6月]]に次男の[[安藤宏基|宏基]]が社長に就任し(宏基は現在[[日清食品ホールディングス]][[最高経営責任者|CEO]])、再び会長専任となった。 [[1982年]](昭和57年)、インスタントラーメンの発明と戦後の日本に新しい食品産業を起こした功績により、勲二等[[瑞宝章]]を受章。また、「食とスポーツは健康を支える両輪である」をモットーに、日本の未来を担う子供たちに食とスポーツ・野外活動を通して心身ともに健全に育ってほしいという願いを込めて、「財団法人[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]」を設立。その後[[1996年]]([[平成]]8年)には食文化の発展を願って個人資産を投じ、同財団の分科会として「食創会」(新しい食品を創造する会・会長伊藤正男)を発足させた。さらに同年、食創会の事業として食品開発の研究者を表彰する「[[安藤百福賞|安藤百福記念賞]]」を制定した。これは大賞賞金が1000万円であり、食品研究者を対象としたものとしては最高額の表彰制度となっている。同財団は2012年4月1日から「公益財団法人」に移行し「公益財団法人[[安藤スポーツ・食文化振興財団]]」に名称変更した。 === 晩年 === [[1999年]]([[平成]]11年)、安藤の業績を記念した「[[インスタントラーメン発明記念館]]」が池田市にオープンした(7年後の[[2006年]][[7月28日]]には入場者100万人を達成した)。 [[2001年]](平成13年)、[[宇宙食]]ラーメン「Space Ram(スペース・ラム)」の開発に着手。[[2005年]](平成17年)、NASAフード・ラボから宇宙食としての認可を得たSpace Ramは、[[野口聡一]]宇宙飛行士が搭乗したアメリカ合衆国の[[スペースシャトル]]「[[ディスカバリー (オービタ)|ディスカバリー]]」に搭載された。野口聡一宇宙飛行士は宇宙ステーションで「Space Ram (とんこつ味)」を食べ、宇宙でラーメンを食べた最初の人となった。 同年、「日清食品には若い経営者が育っており、経営を任せることに不安はない。私がまだ元気なうちに引き継がせたい」という理由から、[[6月29日]]で[[取締役]]を退任し「創業者会長」に就任した。 [[2006年]](平成18年)、米[[タイム (雑誌)|タイム]]誌アジア版[[11月13日]]号のアジア版60周年記念特集「60年間のアジアの英雄」において、「食の革新者」としての功績により、日本人のアジアの英雄13人の一人に選ばれた。 [[2007年]](平成19年)[[1月5日]]、急性心筋梗塞のため大阪府池田市の市立池田病院で[[死去]]。{{没年齢|1910|3|5|2007|1|5}}。3日前には幹部社員とゴルフをし、18ホールを回ったという。亡くなる前日には仕事始めで立ったまま約30分の訓辞を行い、昼休みには社員と[[餅]]入りのチキンラーメンを食べたという<ref name="sankei">{{cite web|url=http://www.sankei.co.jp/seikatsu/shoku/070106/shk070106000.htm|accessdate=2007-01-10|title=安藤百福さん 死去前日、社員とチキンラーメン雑煮 ("Mr. Ando ate Chikin Ramen with colleagues the day before he past away.")|publisher=The Sankei Shimbun Web-site}}</ref>。96歳まで生涯現役で、波乱万丈の実業家人生を終えた。長寿・健康の秘訣を聞かれると必ず「週2回の[[ゴルフ]]と毎日お昼に欠かさず食べるチキンラーメン」と答えるのが口癖だった。生前に残した言葉の中から、「食足世平<ref>この言葉に基づき、[[災害]]時にはインスタントラーメンの提供などの支援活動を行ってきた ([http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/csr/hyakufukushi/009_noodlecan/index.html 第9弾 “チキンラーメン&カップヌードル保存缶”プロジェクト - 日清食品ホールディングス])</ref>」「食創為世」「美建賢食」「食為聖職」の4つが日清食品グループの創業者精神として継承されている。 同年[[1月9日]]付の米紙[[ニューヨークタイムズ]]は社説でその死を悼み<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2007/01/09/business/worldbusiness/09ando.html|accessdate=2008-06-05|title=Momofuku Ando, 96, Dies; Invented Instant Ramen|publisher=New York Times}}</ref>、「ミスター[[麺|ヌードル]]に感謝」という見出しを掲げ,即席麺開発の業績により「安藤氏は人類の進歩の殿堂に不滅の地位を占めた」と絶賛した。同社説は「即席めんの発明は戦後日本の生んだ独創的な発明品、[[本田技研工業|ホンダ]]の[[ホンダ・シビック|シビック]]や[[ソニー]]の[[ウォークマン]]と同じように、会社組織のチームで開発された奇跡だと思っていたがそうではなかった。安藤百福というたった一人の力で開発されたものなのである」と驚きを表現した。<ref>{{cite web|url=http://www.nytimes.com/2007/01/09/opinion/09tue3.html|accessdate=2008-06-05|title=Mr. Noodle|publisher=New York Times}}</ref>。さらに社説は「人に魚を釣る方法を教えればその人は一生食べていけるが、人に即席めんを与えればもう何も教える必要はない」と結んでいる。 [[2月27日]]、[[大阪市]]の[[大阪ドーム|京セラドーム大阪]]にて[[葬儀|社葬]]が行われた。葬儀委員長は生前から安藤と親交があった[[中曽根康弘]]元[[内閣総理大臣|首相]]が務め、[[小泉純一郎]]元首相、[[福田康夫]]元首相夫妻などのほか、政官学界、実業界から親交の深かった6500名が参列し別れを惜しんだ。[[戒名]]は「清寿院仁誉百福楽邦居士」。没後、[[正四位]]に叙された。父親の後を追うように、同年6月、長男・宏寿が死去。また、仁子夫人も2010年3月に92歳で死去。 === 死後 === [[2008年]](平成20年)[[4月8日]]、世界各国の即席麺メーカーが参加する「第6回世界ラーメンサミット」が大阪で行われるのを記念して、[[インスタントラーメン発明記念館]]正面広場に安藤の[[銅像]]が建てられた。同日、仁子夫人、中曽根康弘元首相らが参加して除幕式が行われた。銅像はカップヌードルの容器をかたどった台座の上に立ち、右手にはチキンラーメンが掲げられた。安藤の功績を称える碑文は中曽根元首相の手によるもので、「安藤百福翁は勤勉力行、不屈不撓の人である。1910(明治43)年に生を受け、幼くして両親を無くし、自立独立の道を歩む。敗戦後、無一文の苦境から立ち上がり、困難を克服して世界初の即席めん「チキンラーメン」を開発、次いで世界初のカップ麺「カップヌードル」を発明、日本の食生活に一大革命を起こす。百福翁の蒔いた一粒の種が国境を越えて世界に伝播し、ついに総需要九百億食を超える世界食となる(後略)」が記されている。 安藤の創業した日清食品は[[2008年]]([[平成]]20年)[[10月1日]]付で[[持株会社制]]に移行し、「[[日清食品ホールディングス]]」に商号変更され、同時に新会社として「[[日清食品]](株)」が設立されている。また同年、日清食品グループが創立50周年を迎えたの機に、次の50年(創立100周年となる[[2058年]])に向けて、企業プロジェクト「<ruby><rb>百福士</rb><rp>(</rp><rt>ひゃくふくし</rt><rp>)</rp></ruby>プロジェクト」を始めた。これは、社会福祉活動に熱心だった百福の遺志を継ぎ、今後50年に合計100の社会貢献活動を行っていくものである。{{Main|日清食品ホールディングス#百福士(ひゃくふくし)プロジェクト}} === 生誕100年 === 2010年(平成22年)は安藤百福の生誕100年にあたり、記念商品<ref>チキンラーメン、カップヌードルの各記念パッケージ(チキンラーメンは発売開始当時([[1958年]])の35円、カップヌードルは同([[1971年]])100円の特別価格が設定された)、特別企画商品「'''百福長寿麺'''」(鶏だし塩ラーメン、鴨だしそばの2種。麺の長さはカップ麺史上最長の100cm)。</ref>が発売された<ref>[http://www.nissinfoods.co.jp/com/news/news_release.html?yr=2010&mn=1&nid=1789 -インスタントラーメンの父 安藤百福 生誕百年- 記念商品の発売について] - 日清食品株式会社、2010年1月12日</ref><ref>[http://www.j-cast.com/mono/2010/01/13057809.html 「即席めんの父」生誕100年 チキンラーメンを「35円」に] - J-CASTニュース、2010年1月13日</ref><ref>[http://jp.ibtimes.com/article/biznews/100113/48037.html 日清食品が安藤百福生誕100周年記念配当] - IBTimes、2010年1月13日</ref><ref>[http://enjoy.nikkansports.com/topics/eat/1001130722.html インスタント麺誕生100周年「百福長寿麺」] - 日刊スポーツ、2010年1月13日</ref>ほか、テレビの特別番組(『インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝』<ref>([[MBSテレビ|毎日放送]]制作、2010年(平成22年)[[3月5日]]放送。[[TBSテレビ|TBS]]系[[Japan News Network|JNN]]28局ネット)。チキンラーメン誕生にまつわる秘話や、百福の生涯をたどる再現ドラマなどで構成([http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20100224-OHO1T00088.htm 徳光和夫、百福さんの精神伝える…「インスタントラーメン発明物語」] - おおさか報知、2010年2月24日、[http://hochi.yomiuri.co.jp/osaka/gossip/entertainment/news/20100217-OHO1T00088.htm 原田龍二がチキンラーメンの父ドラマ化で主演] - おおさか報知、2010年2月17日)。</ref>、『こだわり人物伝「安藤百福~遅咲きのラーメン王」』<ref>[[NHK教育テレビジョン|NHK教育テレビ]]『[[知る楽]]・水曜 こだわり人物伝』において2010年(平成22年)[[5月5日]]から[[5月26日]]にかけて4週連続の特集。</ref>が放映され、記念イベント<ref>2010年[[3月27日]]より、[[東京都]][[江東区]][[豊洲]]の[[アーバンドック ららぽーと豊洲]]において、百福生誕100年の記念イベント「'''インスタントラーメン発明物語〜安藤百福 生誕百年 記念展〜'''」が開催された([http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/news/news_release.html?nid=1790 日清食品ホールディングス株式会社のニュースリリース] - 2010年1月12日)。</ref><ref>安藤の出身地である大阪府[[池田市]]にある[[インスタントラーメン発明記念館]]では、2010年3月27日から[[5月10日]]まで、特別展示「'''インスタントラーメンを科学しよう!'''」が開催された([http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/news/news_release.html?nid=1846 日清食品ホールディングス株式会社のニュースリリース] - 2010年3月3日)。</ref>が催された。なお、同年[[3月17日]]には百福の妻仁子が92歳で生涯を閉じている<ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=obt_30&k=2010031900861 安藤仁子さん死去(安藤宏基日清食品ホールディングス社長の母)] - 時事ドットコム、2010年3月19日</ref>。2011年[[9月17日]]、[[横浜市]][[中区 (横浜市)|中区]]の[[みなとみらい21]]地区で[[安藤百福発明記念館]](カップヌードルミュージアム)が開館した。 同年、子どもたちの自然体験活動の奨励に熱心だった安藤の思いを引き継ぎ、[[安藤スポーツ・食文化振興財団|安藤百福記念 自然体験活動指導者養成センター]](愛称「安藤百福センター」)が[[長野県]][[小諸市]]に誕生している。 == 栄典 == * [[褒章|藍綬褒章]]([[1977年]]) * [[瑞宝章|勲二等瑞宝章]]([[1982年]]) * [[褒章|紺綬褒章]]([[1983年]]) * [[科学技術庁]]長官賞「功労者賞」([[1992年]]) * [[旭日章|勲二等旭日重光章]]([[2002年]]) * [[正四位]]([[2007年]]) == 主な著作 == * 『インスタントラーメン発明王 安藤百福かく語りき』([[2007年]]、[[中央公論新社]])ISBN 978-4-12-003813-6 * 『食欲礼賛』([[2006年]]、[[PHP研究所]])ISBN 978-4-569-65441-6 * 『100歳を元気に生きる 安藤百福の賢食紀行』([[2005年]]、[[中央公論新社]])ISBN 978-4-12-003637-8 * 『魔法のラーメン発明物語 私の履歴書』([[2002年]]、[[日本経済新聞社]])ISBN 978-4-532-16410-2 * 『ラーメンのルーツを探る 進化する麺食文化』([[1998年]]、日清ネットコム、共著:[[奥村彪生]]、安藤百福)ISBN 978-4-938642-09-9 * 『食は時代とともに 安藤百福フィールドノート』([[1999年]]、旭屋出版) ISBN 978-4-7511-0157-5 * 『苦境からの脱出 激変の時代を生きる』([[1992年]]、日清ネットコム) ISBN 978-4-938642-05-1 * 『日本めん百景』([[1991年]]、日清ネットコム)ISBN 978-4-938642-02-0 * 『時代に学ぶ美健賢食』([[1990年]]、日清ネットコム) * 『美健賢食 新和風薬膳のすすめ』([[1989年]]、日清ネットコム)ISBN 978-4-938642-01-3 * 『麺ロードを行く』([[1988年]]、[[講談社]]) ISBN 978-4-06-203847-8 * 『安藤百福語録』([[1987年]]、日清食品) * 『続・日本の味探訪 食足世平』(1987年、講談社)ISBN 978-4-06-203471-5 * 『日本の味探訪 食足世平』([[1985年]]、講談社)ISBN 978-4-06-201580-6 == 演じた俳優 == *[[中村梅雀]]([[連続テレビ小説]]「[[てるてる家族]]」、2003年、パン屋を営む主人公一家のライバル的キャラクターで役名は「安西千吉」) *[[渡辺いっけい]](「[[経済ドキュメンタリードラマ ルビコンの決断]]」、2009年) *[[原田龍二]](「インスタントラーメン発明物語 安藤百福伝」、2010年) == 脚注 == {{脚注ヘルプ}} {{reflist}} == 関連項目 == * [[安藤百福発明記念館|カップヌードルミュージアム]] * [[インスタントラーメン発明記念館]] * [[安藤百福賞]] * [[てるてる家族]]([[連続テレビ小説|NHK連続テレビ小説]])- 安藤をモデルとするラーメン博士・安西千吉が登場する。 * [[チキンラーメン]] * [[エルヴィス・コステロ]](2008年発表のアルバムに『[[百福|momofuku]]』と命名。) * [[プロジェクトX全放送作品リスト]] * [[豊田行二]]- 安藤をモデルとする小説「豚に食わせろ」 * [[高槻市]] - 現在の日清食品HDのかつての本店所在地 == 参考文献 == * 『日清食品会長 安藤百福のゼロからの「成功法則」』(2004年、[[かんき出版]]/[[鈴田孝史]] 編著)ISBN 978-4-7612-6150-4 == 外部リンク == * [http://www.cupnoodles-museum.jp/ カップヌードルミュージアム・ホームページ] * [http://www.ando-zaidan.jp/html/top.html 財団法人 安藤スポーツ・食文化振興財団] * [http://www.nissin-noodles.com/ インスタントラーメン発明記念館] * [http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/momofuku100th/ 安藤百福 生誕百年](特設サイト) * [http://www.nissinfoods-holdings.co.jp/about/philosophy/founder/index.html 日清食品HD 創業者精神] * [http://www.nissinfoods.co.jp/knowledge/chronicle/index.html 日清食品 日清食品クロニクル] * [http://economist.com/obituary/displaystory.cfm?story_id=E1_RVQRQGT 英エコノミスト誌による追悼記事] * [http://www.phdcomics.com/comics/archive.php?comicid=807 Ph.D (Piled Higher and Deeper) での追悼記事] {{日清食品}} {{DEFAULTSORT:あんとう ももふく}} [[Category:日本の実業家]] [[Category:日本の発明家]] [[Category:日清食品グループの人物]] [[Category:藍綬褒章受章者]] [[Category:台湾系日本人]] [[Category:立命館大学出身の人物]] [[Category:嘉義県出身の人物]] [[Category:1910年生]] [[Category:2007年没]]
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