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安房三枝藩
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'''安房三枝藩'''(あわさいぐさはん)は、[[江戸時代]]初期の[[安房国]]に短期間存在した[[藩]]。 [[1638年]]の立藩から2年足らずで消滅しており、詳細はほとんどわかっていない。藩の名は藩庁所在地の地名ではなく、藩主[[三枝守昌]]の名字による。 == 沿革 == [[三枝氏]]はもともと甲斐国の豪族であり、戦国時代には[[三枝虎吉]]・[[三枝昌貞|昌貞]](守友)親子が[[武田信玄]]・[[武田勝頼|勝頼]]に[[足軽大将]]として仕えた。昌貞は[[長篠の戦い]]で戦死しているが、武田氏滅亡後に甲斐を領した[[徳川氏]]によって、存命であった虎吉や、昌貞の遺児である[[三枝守吉|守吉]]、昌貞の弟である[[三枝昌吉|昌吉]]が召し出された。以後、三枝氏は昌吉系と守吉系の二流に分かれる。安房三枝藩の藩主となる守昌は昌吉の子である。なお、守吉系の子孫は近江国に移り、近代まで存続している。 『[[寛永諸家系図伝]]』に拠れば、[[三枝守昌]]は[[関ヶ原の戦い]]や[[大坂の陣]]において武功を挙げ、[[徳川忠長]]に仕えて1万5000石を与えられたが、忠長改易に連座して失脚したという。その後、再び幕臣として召し出されている。[[寛永]]15年([[1638年]])2月8日、守昌は安房国[[安房郡]]・[[平群郡]]・[[朝夷郡]]内に1万石が与えられ、諸侯に列した。 しかし、翌寛永16年([[1639年]])閏11月29日に守昌は死去している。後を継いだ[[三枝守全|守全]](もりあきら)は、遺領1万石のうち3000石を弟の[[諏訪頼増]]に分与し、自身は7000石を領する[[旗本]]となったため、この藩は立藩から2年足らずで廃藩となった。このため、見るべき治績も無く、藩庁がどこに置かれていたのかも記録に残されていない。ただ、守昌の墓がある智蔵寺([[南房総市]]山名)に隣接して三倉陣屋(御蔵陣屋)があり、守昌の陣屋跡とされている。 == 歴代藩主 == === 三枝(さいぐさ)家 === 1万石。[[譜代]]。 #[[三枝守昌]](もりまさ)<従五位下。伊豆守> == 関連項目 == *[[藩の一覧]] *[[館山藩]] - 三枝藩成立以前に安房一国を治めた藩で、慶長19年(1614年)改易。 *[[北条藩]] - 三枝藩と同時に安房国で成立した藩。北条藩主[[屋代忠正]]も三枝守昌と同様、徳川忠長の旧臣である。 {{DEFAULTSORT:あわさいぐさはん}} [[Category:藩]] [[Category:安房国]] [[Category:三枝氏|藩]] [[Category:千葉県の歴史]] [[Category:南房総市の歴史]]
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