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宇都宮城釣天井事件
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'''宇都宮城釣天井事件'''(うつのみやじょうつりてんじょうじけん)は、[[江戸時代]]の[[元和_(日本)|元和]]8年([[1622年]])、[[下野国]][[宇都宮藩]]主で[[江戸幕府]][[老中|年寄]]の[[本多正純]]が、[[宇都宮城]]に[[釣天井]]<ref>釣天井とは天井を綱のようなものでつり下げておき、切って落とすことによって下にいる人の圧殺を図る装置のことである。</ref>を仕掛けて第2代将軍[[徳川秀忠]]の[[暗殺]]を図ったなどの嫌疑を掛けられ、本多家は[[改易]]、正純が[[流罪]]となった事件である。ただし、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因によるものとされる。 == 背景 == 正純の父・[[本多正信]]は将軍秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所[[徳川家康]]の側近であった。正信・正純父子は政敵[[大久保忠隣]]を失脚させるなど、幕府内に強い影響力を持っていた反面、幕閣内では政敵も多かった。だが、正信の存命中において、正信に逆らえる者は実質おらず、家康も正信のことを、「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るがなかった。 元和2年([[1616年]])、家康と正信が相次いで没すると、正純は2万石を加増されて[[下野国|下野]][[小山藩]]5万3000石となり、秀忠付の年寄(後の[[老中]])にまで列せられた。しかし、正純は先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。元和5年([[1619年]])10月、[[福島正則]]の改易後、正純は亡き家康の遺命であるとして、[[奥平忠昌]]を下野宇都宮藩10万石から[[下総国|下総]][[古河藩]]11万石へ移封させ、自身を小山5万3000石から宇都宮15万5000石への加増とした。だが、これにより、正純はより一層の反感を周囲から買うことになる。 == 経過 == 元和8年([[1622年]])、正純は秀忠が家康の七回忌に[[日光東照宮]]を参拝した後、[[宇都宮城]]に1泊する予定であったため、城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。4月16日に秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・[[亀姫 (徳川家康長女)|加納御前]]から「宇都宮城の普請に不備がある」という密訴があった。内容の真偽を確かめるのは後日とし、4月19日、秀忠は「[[崇源院|御台所]]が病気である」との知らせが来たとして、予定を変更して宇都宮城を通過して[[壬生城]]に宿泊し、21日に[[江戸城]]へ帰還した。 8月、[[出羽国|出羽]][[山形藩]][[最上家親]]の改易に際して、正純は上使として[[山形城]]受取りのため同所に赴いた。その最中、秀忠は、[[火縄銃|鉄砲]]の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて秀忠を圧死させようと画策したなど、11か条の罪状嫌疑を正純へ突きつけた。[[伊丹康勝]]と[[高木正次]]が使いとして正純の下に赴き、その11か条について問うと正純は一つ一つ明快に回答した。しかし、康勝が追加で行なった3か条<ref>その3か条とは、城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑したこと、鉄砲を無断で購入したこと、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をしたこととされる(「宇都宮市史 近世通史編」23頁)。</ref>については回答することができなかったため、所領は召し上げ、ただし先代よりの忠勤に免じ改めて出羽[[由利郡]]に5万5000石を与えると命じた。 謀反に身に覚えがない正純がその5万5000石を固辞したところ、逆に秀忠は怒り、本多家は改易となり、正純の身柄は[[久保田藩]]主[[佐竹義宣 (右京大夫)|佐竹義宣]]に預けられ、出羽[[横手]]への[[流罪]]とされた。後に正純は1000石の捨て扶持を与えられ、寛永13年([[1637年]])3月、正純は73歳で秋田[[横手城]]の一角で寂しく生涯を終えたという。 == 波紋 == 正純謀反の証拠は何も無く、秀忠も宇都宮城に不審点が無い事を、元和8年(1622年)4月19日に[[井上正就]]に行なわせた調査で確認している。この顛末は、正純の存在を疎ましく思っていた[[土井利勝]]らの謀略であったとも、[[亀姫 (徳川家康長女)|加納御前]]の恨みによるものともされる。加納御前は正純が宇都宮に栄転したのに伴って格下の下総古河への転封を命じられた忠昌の祖母であり、しかも加納御前の娘は、正信・正純親子の陰謀で改易させられた[[大久保忠隣]]の嫡子[[大久保忠常]]の正室であった。 また、秀忠自身も父家康の代から幕閣の中で影響力を大きく持ち、自らの意に沿わない正純を疎ましく思っていたという説もある。秀忠は正純の処分について諸大名に個別に説明をするという異例の(通常このような場合、諸大名を江戸城に集めて申渡していた)対応を取った。説明を聞かされた当時の[[小倉藩]]藩主[[細川忠利]]は「日比(ひごろ)ご奉公あしく」という理由であったと父の[[細川忠興]]に書き送っている。<ref>[[山本博文]]『江戸城の宮廷政治』([[講談社学術文庫]])</ref>。 この事件は後に[[講談]]や[[歌舞伎]]の格好の題材となった。ただしそれらの内容は、翌[[1623年]]の[[越前藩]]主[[松平忠直]]の謀反嫌疑の事件の影響を受けていると指摘されている。 == 脚注 == <references/> {{DEFAULTSORT:うつのみやしようつりてんしようしけん}} [[Category:1622年]] [[Category:江戸時代の事件]] [[Category:下野国]] [[Category:宇都宮市の歴史]] [[Category:本多氏|*]] [[Category:奥平氏|-]] [[Category:宇都宮藩]]
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