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'''宇山 久兼'''(うやま ひさかね、[[永正]]8年([[1511年]]) - [[永禄]]9年[[1月1日 (旧暦)|1月1日]]([[1566年]][[1月22日]]))は、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の[[武将]]。[[尼子氏]]の家臣。子には[[宇山久信]]。那須[[烏山氏|烏山一族]]とされ、惣領を憚り「宇山」に改姓したともいわれる。飛騨守を称したとされる。 == 生涯 == [[尼子経久]]の代から仕え、[[尼子晴久]]の天文9年([[1540年]])の[[毛利元就]]の[[吉田郡山城]]攻め、永禄元年([[1558年]])と永禄3年([[1560年]])の[[石見国]]攻めなどに参加した。 やがて、晴久の死去により[[毛利氏]]による[[月山富田城]]攻めが始まると、久兼は主君・[[尼子義久]]を懸命に励まし、元就による兵糧攻めが行なわれても、私財を投げ打って兵糧を調達するなど、忠臣として大いに活躍した。しかし、[[大塚与三衛門]]の讒言により、義久によって城中にて殺害された。久兼の死により、籠城戦に必死に耐えていた尼子軍は総崩れとなり、滅亡へと向かって行くこととなった。 == その他 == 一方で、宇山姓の尼子方武将は'''宇山誠明'''と'''宇山飛騨守'''と名乗る別人もいる。宇山一族の大半は義久により粛清されたとされるが、宇山誠明は降伏時まで富田城に在城しており、[[二宮俊実]]が記した「義久様へ之御供之衆」では移送時の同行者一覧の筆頭に名があり、義久の幽閉先まで同行を許されているのが分かり、その後安芸志道で病死した。 誠明は尼子義久が江見氏等の美作国人に宛てた文書にも「宇山右京亮」として度々登場しており、他の江見左衛門佐宛の文書には「宇山飛騨守は死んだが動揺することはない」というものがある。 つまり、同行者一覧で筆頭に居た宇山誠明は生きていたが宇山飛騨守は誅殺されたわけであり、この宇山飛騨守が後に宇山久兼として伝わったものだと思われる。ただ、宇山飛騨守の尼子家臣としての立場は重臣[[佐世清宗]]・[[牛尾幸清]]・[[中井久包|中井綱家]]・[[立原幸綱]]・[[川副久盛]]と比べると格下だったと思われる。 {{DEFAULTSORT:うやま ひさかね}} [[Category:戦国武将]] [[Category:1511年生]] [[Category:1566年没]]
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