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孫休
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{{基礎情報 中国君主 |名 =景帝 孫休 |代数 =第3代 |呼称 =皇帝 |画像 = |説明 = |王朝 =呉 |在位期間 =[[258年]] - [[264年]] |都城 = |諱 =孫休 |字 =子烈 |諡号 =景皇帝 |廟号 = |生年 =[[235年]] |没年 =[[264年]] |父 =[[孫権|大帝]](第6子) |母 =敬懐王皇后 |皇后 =朱皇后 |陵墓 =定陵 |年号 =[[永安 (呉)|永安]]([[258年]] - [[264年]]) |注釈 = }} '''孫 休'''(そん きゅう)は、[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[呉 (三国)|呉]]の第3代[[皇帝]]。呉の初代皇帝である大帝[[孫権]]の子(六男)。呉の第2代皇帝[[孫亮]]の兄。生母は王氏([[孫和]]の母とは別人)。妻([[皇后]])は[[朱拠]]の娘(生母は[[孫魯育]])。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』呉志「三嗣主伝」に伝がある。 == 経歴 == === 若き日 === 生母の王氏は南陽出身で、[[嘉禾]]年間に孫権の寵愛を受け、孫休を産んだという。琅邪出身の王氏が産んだ[[孫和]]が寵愛を受け、太子に立てられると、孫権の他の夫人はみな都を出され地方に住まわされることとなったため、孫休の生母の王氏は公安に移住し、そこで死去したという(『三国志』呉志「孫権王夫人伝」)。 孫休は13歳のとき、[[中書]]郎の射慈と[[郎中]]の盛沖より学問を授かった。 [[太元 (呉)|太元]]2年([[252年]])正月、孫休は琅邪王に封じられ、虎林に居住した。同年4月に父の孫権が死去し、皇太子である弟の孫亮が皇帝となり、孫亮の補佐役となった[[諸葛恪]]が政治の実権を握った。孫休ら諸王は、[[長江]]沿いの戦略上の要地にそれぞれが配置されていたが、諸葛恪はこれを嫌ったため、孫休は[[丹陽]]郡に移住することになった。 丹陽郡の太守の[[李衡]]は、孫休をしばしば圧迫するような態度をとったという。そのため、孫休は他の郡への移住を願い出、勅を得て[[会稽郡]]に移住した。 会稽郡においての生活は数年間にわたった。同地の太守の[[濮陽興]]とはこのときに親しくなったという(『三国志』呉志「濮陽興伝」) また、あるとき、龍に乗って天に昇ったが、振り返ると尻尾がない、という夢を見たという。 === 皇帝に即位 === 太元3年([[258年]])9月、孫亮が朝廷の実権を握る[[孫チン|孫綝]]と対立し廃位され、代わりに孫休が皇帝に擁立された。同年9月27日、孫綝よりの迎えの使者として[[宗正]]の[[孫楷]]と中書郎の[[董朝]]が派遣されてきた。孫休は陰謀があるのではと疑ったが、孫楷と董朝に説得され、1日2晩迷った末に都に向かった。同年10月17日、曲阿にて1人の老人が目通りを願い出てきて、遅延すると変事が起こる、天下は孫休を待ち望んでいるであるから急ぐべし、ということを叩頭して述べた。孫休はこの言葉を善しとして都に急ぎ、その日には布塞亭にまですすんだ。同年10月18日、永昌亭に達した。そこでは[[丞相]]代行の武衛将軍の[[孫恩]]が百官を率いて孫休を待っており、天子の乗り物や宮居・殿場が用意されていた。孫休は孫楷を使者に送り孫恩と面会させ、孫楷が戻ると天子の乗り物に乗って百官の臣下の礼を受けた。孫休は殿場に着いた後も謙譲して御座に着かず、東のわき部屋で待機していた。戸曹尚書が孫休に皇帝としての礼をとるよう勧め璽符を奉ってきた。孫休は三度辞退し、群臣らの三度勧められて、初めて皇帝としての礼をとった。孫休が天子の乗り物にのって、百官を引き連れてくると、孫綝は1000の兵士を率いてこれを出迎え、都の外で拝礼した。孫休は車から降りて答礼したという。その日のうちに正殿に入り、[[年号]]を[[永安 (呉)|永安]]に[[改元]]した。 永安元年(258年)冬10月21日、孫休は詔を出し、孫綝・孫恩・孫拠を昇進させた。さらに古くからの恩人の[[張布]]や使者として功労があった董朝を昇進させたり列侯したりした。また、丹陽太守の李衡がかつての振る舞いを罪として自らを縛って出頭してきたため、別に詔を出し李衡を釈放させ、郡に戻らせた。 [[王蕃]]、[[薛瑩]]、[[虞シ|虞汜]]、[[賀邵]]を散騎中常侍に任命し、皆に駙馬都尉を加えた。この人事は好評であったという(『三国志』呉志「王蕃伝」)。 同年10月28日、[[孫皓]]を烏程侯に封じ、その弟の孫徳を銭唐侯、[[孫謙]]を永安侯に封じた。 孫休は皇后と[[太子]]を立てることを勧められたが、今はまだそのときでないとしてこれを辞退したという(『江表伝』)。 また、生母の王氏を追尊し、敬懐皇后の号を授け、敬陵に改葬し、王氏の同母弟の王文雍を亭侯に封じた(『三国志』呉志「孫権王夫人伝」)。 === 親政の確立 === 孫綝の一門からは5人の侯が出て、それぞれが近衛兵を率いており、権勢は主君の孫休をも凌いでいた。孫綝等に反対する者もいなかったため、ますます増長した。孫休は孫綝らが変事を出すことを恐れ、何度も恩賞を与えた。 永安元年(258年)冬11月5日、孫休は詔を出し、孫綝の皇帝廃立を賞賛し、孫休を皇帝に立てるのに功績があった者の調査を命じた。同年11月7日、孫綝の職務の負担を軽減するため、孫恩を侍中に任じて孫綝と事務を分担することを許した。同年11月21日、孫休は諸役の軽減と軍役の免除を認めると共に、永昌亭で出迎えた者の官位一級を加増させた。 あるとき、孫休は孫綝からの贈り物を拒絶したことがあった。孫綝はこれを恨みに思い、酒席で張布に対して孫休の廃立を口にした。張布はこのことを孫休に伝えた<ref>『三国志』呉志「孫綝伝」</ref>。 孫休は孫綝がクーデターを計画していると聞くと、張布・[[丁奉]]<ref>『三国志』呉志「丁奉伝」</ref>らと図って対策を練った。そして、同年12月8日、先祖の祭のために百官と公卿らが集まった場で、孫綝を誅殺し、その日のうちに死刑とし、一族もことごとく滅ぼした。孫休は[[孫峻]]の墓を暴き棺を削ったり、孫峻・孫綝の一族を孫氏の系図から削って故峻・故綝と呼ばせるようにしたという(『三国志』呉志「孫綝伝」)。孫峻・孫綝のために不慮の死を遂げた諸葛恪・[[滕胤]]・[[呂拠]]らの名誉は回復された<ref>『三国志』呉志「孫綝伝」</ref>(『三国志』呉志「諸葛恪伝」が引く『江表伝』によると、諸葛恪のために顕彰の碑を建てようとする動きがあったが、孫休は諸葛恪の生前の振る舞いや失策も考慮してそれは許さなかったという。)。 同年12月9日、孫休は詔を出し、左将軍張布の功績を賞して中軍督を加官し、その弟2人も武官に取り立てた。 皇帝権力を取り戻した孫休は詔により教育を充実させる方針を表明し、[[五経博士]]を設置し、現在の官吏である者や部将・官吏の子弟たちの中から、学問を好む者を選抜して五経博士の授業を受けさせた。1年毎に試験を受けさせ、成績をランクづけし、それにより官位や恩賞を与えた。 永安2年([[260年]])3月、[[九卿]]の官が完備すると、孫休は詔を出し、武より文を重視し、農耕を盛んにするという政策を表明した。 同年春3月、西陵において赤い[[烏]]が出現したという報告があった。 同年秋、[[都尉]]であった厳密の進言を受けて、丹陽郡で干拓事業を行うため、宛陵に浦里塘という[[堤防]]を築いた。この堤防の建築には多くの役人が反対したが、濮陽興の強い勧めがあったという。しかし莫大な工事費がかかり、多くの兵士が死去、自殺者も出たので、人々はこの工事を怨んだという<ref>『三国志』呉志「濮陽興伝」</ref>。 会稽郡において、先帝の会稽王の孫亮が、再び皇帝になるだろうという流言があった。また、孫亮が巫女に祈祷を行わせ、呪いの言葉を発しているという内部告発があった。そのため、孫休は孫亮を侯官侯に位を降格させ、任地に向かわせたが、孫亮は任地に赴く途中で自殺したため、孫休は護送の役人を処刑した。一説には孫休による[[毒#利用|毒殺]]であったともいう(『呉録』)。 永安4年([[261年]])8月、孫休は光禄大夫の周奕と[[石偉]]に命じて国の各地の風俗を調査させて、役人・将軍が清潔な政治を行っているか、民衆が何に苦しんでいるかなどを調べた。それに基づいて地方の役人の昇進・左遷を命じる詔を下した。 === 晩年 === 永安5年([[262年]])8月16日、夫人の朱氏を皇后とした。同月19日、子の{{lang|zh-hant|孫𩅦}}(雨に單)を太子とし、[[大赦]]を実行した。冬10月、衛将軍の濮陽興を丞相に任命した。 孫休は学問を好み、[[諸子百家]]の書を全て読み尽くすほどの勢いであった。孫休は学問や雉狩りに夢中になり、次第に朝政から距離を置き、古くからの知人である丞相濮陽興と左将軍張布が朝政を掌握するようになっていった。 張布は孫休の厚遇をいいことに、国権を専断して、礼に外れる行動をとることが多くなった。あるとき、孫休は博士祭酒の[[韋昭]]や博士の盛沖を招いて道理や学芸について議論をしようとしたが、自分の過失や専断が暴露されることを恐れた張布の反対にあった。孫休は張布のよからぬ振る舞いについて既に知っており不愉快でもあったが、古くからの知人である張布に対し、軽く嗜める程度に留め、張布の望むとおりにしてやり、博士を招いての書物の解釈談義は取りやめとなった。 永安6年([[263年]])夏5月、交趾郡で役人の[[呂興]]らが反乱を起こし、太守の孫諝が殺害された。 同年冬10月、[[蜀]](蜀漢)から、[[魏 (三国)|魏]]より[[蜀漢の滅亡|攻撃]]を受けているという連絡が入った。11月22日、蜀を救援するため、大将軍の[[丁奉]]に魏の寿春を攻撃させると共に、将軍の[[留平]]を南郡の[[朱績|施績]]の元に派遣し、軍をどの方向に出すべきかを検討させた。[[丁封]]と[[孫異]]には[[漢水]]流域に軍を進めさせた。しかし、蜀の[[劉禅]]が降伏したという知らせが入り、これらの軍事行動のすべてが中止された。 永安7年([[264年]])春2月、鎮軍将軍の[[陸抗]]・撫軍将軍の[[歩協]]、征西将軍の留平、建平太守の盛曼らの軍勢が魏に下った蜀の巴東監軍の[[羅憲]]を永安([[白帝城]])で包囲した。 同年夏4月、魏の部将で新附督の王稚が海から句章に侵入し、その地の長官を捕虜とし、財貨と男女200人余りを略奪した。将軍の孫越がこれを迎え撃ち、船を一隻拿捕し、30人を捕虜とした。 同年秋7月、海賊が海塩を襲い、司塩校尉の駱秀<ref>『三国志』呉志「陸遜伝」が引く『会稽典録』によると、[[駱統]]の子。</ref>が殺害された。孫休は中書郎の劉川に命じ廬陵の兵を率いさせ海塩を救援させた。また、豫章の平民の張節が反乱を起こし、1万余がそれに同調した。魏の将軍の[[胡烈]]が歩兵と騎兵2万を率いて西陵に侵攻し羅憲を救援したため、陸抗・歩協らは撤退した。 7月25日、孫休は死去した。一説によると、その死の直前に孫休は口を利けなくなり、字を書いて丞相の濮陽興を呼び、子の孫{{lang|zh|𩅦}}(雨の下に單、読みは湾に準じる)に濮陽興の前で拝礼させ、自ら腕をとって後事を託して死去したという(『江表伝』)。 しかし、交州の離反と蜀の滅亡という国難の前にして、呉の国は立派な主君が待望されていた。そして、かねてより孫皓と親しくしていた、左典軍の[[万イク|万彧]]が孫皓を皇帝に推薦すると、濮陽興・張布らが朱氏の同意を得て孫皓を皇帝に擁立した。 改元して[[元興 (呉)|元興]]元年(264年)となった12月に、孫休は定陵に葬られた。孫休は4人の男子がいたが、孫晧は先に年上の2人を殺し、後に残る2人も殺した。 == 評価 == 『三国志』の編者の[[陳寿]]は、「孫休は親しかった濮陽興・張布に政治を任せて、優れた才能を持つ者を抜擢して、新しい体制で自分の政治を行えなかった。これでは、学問を好んだといっても、大して国の乱れを正す役に立たないだろう。孫亮に無残な死に方をさせたのは、兄弟に対する思いやりが十分でなかったからであろう。」と評している。 == 逸話 == 立后に際し、[[朱拠]]と異母姉・孫魯育の娘で姪にあたる朱氏を立てている。[[儒教]]では問題視される行為であったが{{要出典|date=2010年12月}}、両者の関係は良好であったと伝えられる。 4人の息子を命名するにあたり、名は競合するべきではなく、他の者が避け易いようにとの理由で新しい漢字を創造したという(『呉録』)。上から、 * {{lang|zh-hant|孫ワン|孫𩅦}}(「雨」のしたに「單」、読みは'''湾'''に準じる。) * {{lang|zh-hant|孫コウ|孫𩃙}}(「雷」のしたに「大」、読みは'''公'''に準じる。) * {{lang|zh-hant|孫ボウ|孫壾}}(読みは'''莽'''に準じる。) * {{lang|zh-hant|孫ホウ|孫𠅨}}(うえが「亠」ひだりからしたが「先」みぎが「攴」、または「寇」の「宀」を「亠」に、「元」を「先」に変える。読みは'''褒'''に準じる。) となっている。 == 脚注 == <references/> == 参考資料 == *『三国志』 {{呉の皇帝||第3代:258年 - 264年}} {{DEFAULTSORT:そん きゆう}} [[Category:孫氏|きゆう]] [[Category:三国志の登場人物]] [[Category:三国時代の皇帝]] [[Category:呉の人物]] [[Category:235年生]] [[Category:264年没]]
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