コンテンツにスキップ
メインメニュー
メインメニュー
サイドバーに移動
非表示
案内
メインページ
最近の更新
おまかせ表示
MediaWiki についてのヘルプ
特別ページ
Wikippe
検索
検索
表示
ログイン
個人用ツール
ログイン
奥田碩のソースを表示
ページ
議論
日本語
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
ツール
ツール
サイドバーに移動
非表示
操作
閲覧
ソースを閲覧
履歴を表示
全般
リンク元
関連ページの更新状況
ページ情報
表示
サイドバーに移動
非表示
←
奥田碩
あなたには「このページの編集」を行う権限がありません。理由は以下の通りです:
要求した操作を行うことは許可されていません。
このページのソースの閲覧やコピーができます。
{{Infobox 人物 |氏名 = 奥田 碩 |ふりがな = おくだ ひろし |画像 = Hiroshi Okuda.jpg |画像サイズ = 250px |画像説明 = [[2005年]][[11月21日]]、[[東京都]]で開催された<br />日露ビジネスフォーラムにて |生年月日 = {{生年月日と年齢|1932|12|29}} |生誕地 = {{Flagicon|JPN}} [[三重県]][[津市]] |没年月日 = |死没地 = |職業 = [[トヨタ自動車]]相談役<br />[[日本郵政]]指名委員長(取締役)<br />日本郵政報酬委員長(取締役)<br />日本経団連名誉会長 |出身校 = [[一橋大学]][[商学部]]卒業 |配偶者 = |子供 = }} '''奥田 碩'''(おくだ ひろし、[[1932年]][[12月29日]] - )は、[[日本]]の[[実業家]]。[[勲等]]は[[旭日大綬章]]。[[トヨタ自動車]]株式会社相談役、[[日本郵政]]株式会社社外取締役指名委員長兼報酬委員長、[[一般社団法人]][[日本経済団体連合会]][[名誉会長]]。 [[トヨタ自動車]][[株式会社]][[代表取締役]][[社長]](第3代、工販分離前から数えると第8代<ref name="rekidai75">[http://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/data/company_information/management_and_finances/management/executives/past.html トヨタ自動車75年史 歴代の会長・副会長・社長(含 受章歴)] トヨタ公式サイト</ref>)、同社代表取締役[[会長]](第3代、工販分離前から数えると第7代<ref name="rekidai75"/>)、同社取締役[[相談役]]、社団法人[[日本経営者団体連盟]]会長(第9代)、社団法人[[日本経済団体連合会]](当時)会長(初代)、[[内閣顧問|内閣特別顧問]]、株式会社[[国際協力銀行]]代表取締役総裁などを歴任した。 == 来歴・人物 == === 生い立ち === [[三重県]][[津市]]出身。三重県立松阪北高等学校(現・[[三重県立松阪工業高等学校]])を経て、[[1955年]]に[[一橋大学]][[商学部]]を卒業。[[奥田務]](元[[J.フロント リテイリング]]会長兼CEO)は実弟。 幼少時は、祖父や父が三重県最大の証券会社・奥田証券を営んでおり裕福だったが、[[第二次世界大戦]]の[[日本本土空襲]]により、実家が全焼。祖母が住んでいた[[飯南郡]][[射和村]]上蛸路(現[[松阪市]]上蛸路町)に疎開。全財産を失い、戦後も祖母の家の近くで、7人兄弟、9人家族で狭い借家に住むこととなった。家業の奥田証券も破綻し、[[債務超過]]のため[[相続放棄]]を余儀なくされ、高校の授業にも出席せず、[[修学旅行]]にも参加できず、1人大学受験勉強をして孤独に過ごした。柔和な表情が多く、地位にこだわらない飄々とした印象を持たれることが多いものの、幼い頃から競争心の強い負けず嫌いな性格で、経済的な困窮生活を送った経験から、いつか見返してやりたいという気を持ち、会社での栄達を望んだという。また180cmの長身で12歳から[[柔道]]を始め、大学でも柔道部に所属。在学中に柔道四段を取得し(のちに六段)、1952年の東京都国公立大学ジュニア選手権リーグ戦では、1チーム5名の点取り試合方式で、チーム優勝した<ref>[http://www.mentor-diamond.jp/ms/okuda/file01_1.shtml][http://www.mentor-diamond.jp/ms/okuda/file03_1.shtml]</ref>。大学柔道部で1年後輩だった[[高橋宏]](元[[首都大学東京]]理事長)は、奥田の性格について、気さくな性格だったが、「[[眠狂四郎]]のような雰囲気」の物静かな人柄で、徒党を組むタイプではなかったと評する。趣味は[[ギャンブル]]や[[カラオケ]]、[[読書]]で、[[山本周五郎]]などの[[歴史小説]]や[[古典]]を好む<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090501/193693/?P=4 「非創業家トップ、海外に環境に猛進 「眠れる巨象」を叩き起こせるか」]</ref>。カラオケ仲間には[[加藤紘一]]などがいる<ref>[http://www.tbs.co.jp/jijihoudan/last/060618.html 「「『小泉・竹中路線』の功罪は?」 ゲスト: 加藤紘一 氏 / 奥田碩 氏 」]TBS[[時事放談]]2006年6月18放送</ref><ref>[http://www.tac-school.co.jp/netnews/interview/int_087.html]</ref>。 === 社長就任まで === 1955年に大学を卒業し、不景気による就職難の折、知人の紹介で[[トヨタ自動車販売]]株式会社(現・トヨタ自動車株式会社)に入社し、経理畑を歩む。上司と何度も論争するなど、歯に衣着せぬ性格だったが、入社3年目で[[総勘定元帳]]の管理を任されるようになった。この総勘定元帳をもとに、上司や役員の不明瞭な取引を直接問い詰めたたため、「生意気だ。」との評判が立つようになる。また[[ギャンブル]]を好み、独身寮時代は、[[競馬]]で大負けし、「血を吐くような思いをした。」という。なお、後年には[[日本中央競馬会]]経営委員長を務めた<ref>[http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASDD2707U_X20C13A3X11000&uah=DF141220120044%A1%A1 「「運は努力する者に来る」 国際協力銀行の奥田碩総裁 」]2013/4/2 21:37 ニュースソース 日本経済新聞</ref>。 生真面目な経理部部員が多い中で[[麻雀]]や[[飲酒]]を行っていたことから同僚から浮き、歯に衣着せぬ言動から上司ともぶつかり、17年間経理を担当して仕事に飽きてきたこともあり、東南アジアでの[[エンジン]]開発事業への異動を希望し、[[1972年]]秋から6年半、[[マニラ]]駐在員事務所に赴任する<ref>[http://www.mentor-diamond.jp/ms/okuda/file06_1.shtml][http://www.mentor-diamond.jp/ms/okuda/file06_2.shtml][http://www.asahi.com/job/special/OSK200904210016.html]</ref>。ここで奥田は、フィリピンの[[政商]]で、現地でトヨタ車の組み立て・販売を独占する[[デルタ・モーター]]の社長・[[リカルド・C・シルベリオ]]からトヨタへの延滞金を取り立てる任務に就く。肩書きは「経理アドバイザー」。これは困難な任務であり、また、マニラには日本人技術者が2人いるだけであり、事実上の[[左遷]]であったが、奥田は当時の[[フェルディナンド・マルコス|マルコス大統領]]らとのコネクションを生かし、未納金の回収に成功した。 当時、マニラには[[豊田章一郎]]の娘婿・[[藤本進]]が大蔵省から[[アジア開発銀行]]に出向して来ており、奥田は章一郎が孫の顔を見に来るたびに同行し、このころから章一郎と奥田の関係が始まった。またマニラを訪れた[[豊田英二]]にも直接対応する機会を得た。奥田からマルコス大統領の[[マラカニアン宮殿]]などにも案内された章一郎は、奥田の才能を認め、「マニラでこんなやつがくすぶっているのか。本社の人事は何をしているんだ」とまで言ったという<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090501/193693/?P=4 「非創業家トップ、海外に環境に猛進 「眠れる巨象」を叩き起こせるか」]</ref>。 [[1979年]]に豪亜部長に昇格し帰国。[[1982年]]に[[取締役]]就任。85年にはアメリカ進出のための用地選定を任され、当時会長だった[[豊田英二]]から北米事業準備室副室長に指名される。全米からの応募の中から各知事との交渉に当たり、最終的に[[ケンタッキー州]]工場の誘致に到る。 [[1987年]]に常務取締役、[[1988年]]に専務取締役、[[1992年]]に取締役副社長となり、1995年の日米自動車協議では、[[駐日アメリカ合衆国大使館]]や[[アメリカ合衆国通商代表部]]関係者と連絡を取り合うなど[[日米貿易摩擦]]問題にあたった<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090501/193693/?P=2 「【時代のリーダー】奥田 碩・トヨタ自動車社長」]</ref>。 === 社長時代 === [[1995年]]8月に、28年ぶりに豊田家出身以外で代表取締役社長に就任した<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090501/193693/?P=2 「【時代のリーダー】奥田 碩・トヨタ自動車社長」]</ref>。 社長時代にはそれまでどちらかといえば良い意味で保守的だったトヨタを改革したと言われている。例えば、世界に先駆けて[[ハイブリッド車]]「[[トヨタ・プリウス|プリウス]]」を[[トップダウン]]による判断で発売したことや、東富士研究所に直接訪れ、それまでトヨタが敬遠していた[[フォーミュラ1|F1]]への参戦を指示したこと、社長就任直後に[[ダイハツ工業]]の[[連結子会社]]化を断行したり、就任翌年の1996年には[[常務]]以上の役員19名のうち17名を総入れ替えしたことなどである<ref>石川敦夫[http://www.ritsbagakkai.jp/pdf/476_07.pdf 「環境的観点から見たプリウスの開発」]『立命館経営学開』2009 年3 月</ref><ref>[http://president.jp/articles/-/3442?page=2 「トヨタ自動車 奥田 碩相談役―「鋭い勘」を支える緻密な分析力」]</ref>。1997年には社長直轄組織のVVC(ヴァーチャル・ベンチャー・カンパニー)を設立、[[稟議書]]の決済速度の速さも有名だった<ref>[http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASDD2707U_X20C13A3X11000&uah=DF141220120044%A1%A1 「「運は努力する者に来る」 国際協力銀行の奥田碩総裁」]2013/4/2 21:37 ニュースソース 日本経済新聞</ref>。奥田時代、当時国内販売で落ち込んでいたシェアを3年がかりで40%代まで回復させるなど、奥田の時代からトヨタは「攻め」の姿勢に転じて躍進を遂げ、現在の世界第1位の自動車メーカーの座を手にした。このことから、彼の経営手腕は一般的に高く評価されており、[[ハウツー本]]が出販されたり他のメーカーの中には彼の改革を手本にする企業まで出てきた。1997年には、米「[[ビジネスウィーク]]」誌で、世界最優秀経営者の1人に選出され、[[イェール大学]]に講演で招かれるなどした<ref>[http://business.nikkeibp.co.jp/article/person/20090501/193693/?P=4 「非創業家トップ、海外に環境に猛進 「眠れる巨象」を叩き起こせるか」]</ref>。 奥田の諸改革には常に後ろ盾として豊田章一郎の姿があり、奥田も豊田本家の章一郎を求心力として旗印にし、常に豊田家を立てつつ改革を進めた。 その一方で、スポーツタイプの車種を全廃した戦略、モータースポーツを広告として捉えるやり方への批判、従業員に過度の[[サービス残業]]を強いて[[労働基準監督署]]の査察を度々受ける事態を招いたり、業績好調にもかかわらず外国人労働者や非正規雇用の確保で賃金の抑制を行ったり、世界第1位の自動車メーカーになることを目標に安易な拡大路線に走り品質管理を怠ったことが、2010年のトヨタの大量リコールに繋がったとする指摘もあるなど、彼の経営姿勢を批判する声もきわめて多く、改革への評価と表裏一体である。 === 財界トップへ === [[ファイル:Vladimir Putin and Hiroshi Okuda 20051121.jpg|thumb|200px|[[2005年]][[11月21日]]、日露ビジネスフォーラムにて[[ロシア]][[ロシア連邦大統領|大統領]][[ウラジーミル・プーチン]](左)と]] [[1999年]]6月、次期社長に副社長だった[[張富士夫]]を指名して代表取締役会長就任。また1998年には、社団法人[[日本経営者団体連盟]]会長就任。 その後2006年まで社団法人[[日本経済団体連合会]]会長を務め、8年にわたって財界トップの座にあったほか、歴代内閣で[[経済財政諮問会議]]や各種審議会、有識者会議の委員を数多く務め、多数の企業の役員に名を連ねるなど政財界に大きな影響力を誇った。その評価は、毀誉褒貶さまざまである。 他に、2001年株式会社[[東京証券取引所]]取締役就任、2002年株式会社[[UFJホールディングス]]取締役就任。株式会社[[東北楽天ゴールデンイーグルス|楽天野球団]]経営諮問委員会委員、[[KDDI]]株式会社監査役・取締役、株式会社[[豊田自動織機]][[監査役]]、[[東和不動産]]株式会社取締役、[[中京ゴルフ倶楽部]]株式会社理事、株式会社[[豊田中央研究所]]取締役(2006年まで)、株式会社[[デンソー]]取締役(2003年まで)、株式会社[[グレイスヒルズカントリー倶楽部]]理事等も務める。 == 会長退任後 == [[2006年]]トヨタ自動車会長及び日本経団連会長退任とともに経営の第一線から退く意向を示したが、社内の意向により同社取締役[[相談役]]に就任。 その後2007年[[福田康夫内閣]]で[[内閣顧問|内閣特別顧問]]に就任、総理特使として、[[サウジアラビア]]、[[アラブ首長国連邦]][[カタール]]、[[バーレーン]]、[[クウェート]]、[[オマーン]]等に派遣され、各国首脳と会談を行った<ref>[http://www.mofa.go.jp/MOFAJ/kaidan/others/chuto_08/gaiyo.html 奥田碩・[内閣特別顧問の総理特使としての湾岸諸国訪問]外務省。</ref>。 2008年[[麻生内閣]]発足にともない内閣特別顧問退任。同年、[[社会保障国民会議]]委員及び、各種[[年金問題]]を受け、[[社会保険庁]]を廃止し新たに[[日本年金機構]]を設立するために設けられた、日本年金機構設立委員会<ref>日本年金機構法第5条 厚生労働大臣は、設立委員を命じて、機構の設立に関する事務を処理させる。 2 設立委員は、基本計画に基づき、機構の職員の労働条件及び機構の職員の採用の基準を定めなければならない。3 設立委員は、業務方法書、制裁規程その他厚生労働省令で定める規則を作成し、厚生労働大臣の認可を受けなければならない。4 前項の規定によりした厚生労働大臣の認可は、厚生労働省令で定めるところにより、施行日において、第二十六条第一項、第三十二条第一項その他の厚生労働省令で定める規定によりした厚生労働大臣の認可とみなす。5 設立委員は、機構の設立の準備を完了したときは、その旨を厚生労働大臣に届け出るとともに、その事務を前条第一項の規定により指名された理事長となるべき者に引き継がなければならない。 </ref>の委員長に就任<ref>[http://www.mhlw.go.jp/shingi/2008/11/txt/s1112-1.txt 日本年金機構設立委員会(第1回)-議事次第-]厚生労働省。</ref>。2009年に、同委員会は、機構への採用を希望した社会保険庁職員1万1118人のうち、9971人を内定した<ref>読売新聞2009年5月19日</ref>。 2009年に取締役名誉会長だった[[豊田章一郎]]と共にトヨタ自動車の取締役を退任し、非取締役の相談役に退いた<ref>読売新聞2009年1月9日</ref>。2012年4月、[[国際協力銀行]]総裁への就任<ref name="47news20120404">{{Cite news | url = http://www.47news.jp/CN/201204/CN2012040401001836.html | title = 奥田氏がトヨタ相談役退任 国際協力銀総裁就任で | agency = [[共同通信社]] | publisher = [[47NEWS]] | date = 2012-04-04 | accessdate = 2013-03-21 }}</ref>に伴い相談役を退任した<ref name="47news20120404"/>。 [[民主党 (日本 1998-)|民主党]]政調会長代行・[[仙谷由人]]から[[勝俣恒久]]会長の後任として[[東京電力]]会長就任の打診を受け、受諾する方針だったが、トヨタ自動車の経営陣から、2011年の[[福島第一原子力発電所事故]]で非難を浴びている東京電力の会長に就任することでトヨタ自動車製品への[[ボイコット]]につながる懸念が示され、辞退した<ref>{{Cite web | 和書 | url = http://biz-journal.jp/2012/05/post_132_2.html | title = 奥田・元経団連会長 トヨタ "決別宣言"と"舞台裏" (2/3)| work = ビジネスジャーナル | publisher = [[サイゾー]] | date = 2012-05-15 | accessdate = 2013-03-21 }}</ref>。 === 日本郵政での活動 === 2002年[[第1次小泉内閣第1次改造内閣]]の[[片山虎之助]]総務大臣より日本郵政公社設立委員に任命され、座長に就任。中期経営目標や経営計画の協議、決定にたずさわる。翌2003年に発足した[[日本郵政公社]]ではいったん理事に内定するも辞退し、代わりに同じ自動車業界から[[宗国旨英]]日本自動車工業会会長が理事に就任。その後2005年に[[日本郵政]]株式会社の社外取締役に就任し、[[指名委員会]]委員や[[報酬委員会]]委員長も務めた。 2009年[[日本郵政]]の[[かんぽの宿]]売却問題では、日本郵政取締役の選解任の認可権を有する<ref>[[日本郵政株式会社法]]第9条 会社の取締役の選任及び解任並びに監査役の選任及び解任の決議は、総務大臣の認可を受けなければ、その効力を生じない。</ref>[[鳩山邦夫]]総務大臣が、[[西川善文]]日本郵政社長の続投に反対していたところ、2009年5月18日[[指名委員会]]で、奥田は西川続投を支持し、同委員会も鳩山の意向に反して西川社長の留任を内容とする株主総会提出議案を決定した<ref>朝日新聞</ref>。当時の指名委員会構成員は奥田及び、[[牛尾治朗]](元[[経済同友会]]代表幹事)、[[西川善文]](日本郵政社長)、[[高木祥吉]](日本郵政副社長、元金融庁長官) 、[[丹羽宇一郎]]([[伊藤忠商事]]会長)の5人であった<ref>[http://www.japanpost.jp/corporate/officers/ 役員一覧‐日本郵政]</ref>。この決定につき、[[桜井正光]]経済同友会代表幹事が、指名委員会の決定を尊重すべきだと述べるなど、財界からは支持する意見が出た<ref>毎日新聞2009年6月3日</ref>。一方、鳩山総務大臣は、西川社長の続投はないとの見解を改めて示した後<ref>朝日新聞2009年6月5日</ref>、総務大臣を辞任した<ref>朝日新聞2009年6月</ref>。 2009年10月、[[第45回衆議院議員総選挙]]受け発足した[[鳩山由紀夫内閣]]下で開催された[[臨時株主総会]]で取締役に留任し、[[指名委員会]]委員長及び[[報酬委員会]]委員長に選定された。 === 国際協力銀行総裁 === [[岡田克也]]副総理及び[[安住淳]]財務大臣から要請を受け、2012年3月30日に開催された株式会社[[国際協力銀行]][[創立総会]]で取締役に選任されるとともに、[[国際協力銀行]]代表取締役[[総裁]]に内定する。会社設立に伴い4月1日総裁に就任した。同日付でトヨタ自動車相談役を退任<ref>時事通信2012/04/04-14:31</ref>。総裁就任後の会見で「日本の政治、経済は世界の変化に2周も3周も遅れた。体力があるうちに国のために貢献したい。」と述べた。また[[渡辺博史]]副総裁との関係については「仕事の丸投げはしない。」とした<ref>フジサンケイ ビジネスアイ 4月3日</ref>。2013年12月26日に退任し、2014年1月1日付でトヨタ自動車相談役に復帰した<ref>[http://sankei.jp.msn.com/economy/news/131226/fnc13122619270019-n1.htm 「国際協力銀の奥田総裁が退任 「80で体力的にきつい」 後任には渡辺副総裁が昇格」]MSN産経ニュース2013.12.26</ref>。 == 社会的活動・発言など == === 全国犯罪被害者の会(あすの会)の支援活動 === 2000年に[[犯罪被害者]]の権利確立を目指す[[全国犯罪被害者の会]]代表幹事を務めていた[[岡村勲]]弁護士が[[文藝春秋]]に寄稿した「私は見た『犯罪被害者』の地獄絵」を読み感銘を受けた[[石原慎太郎]]([[東京都知事]])、[[瀬戸内寂聴]](作家)及び、奥田ら4人が代表発起人となり「犯罪被害者の会を支援するフォーラム」が設立された<ref>[http://www.navs.jp/report/2/event1/event1-8.htm l 祝辞]全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会:シンポジウム】、[http://www.navs.jp/report/2/event1/event1-6.html 全国犯罪被害者の会を支援するフォーラム代表/首都大学東京理事長高橋宏氏]全国犯罪被害者の会 NAVS【あすの会:シンポジウム】</ref>。 同フォーラムは全国犯罪被害者の会へ経済的支援を行い、2004年[[犯罪被害者等基本法]]の成立、2007年の[[刑事訴訟法]]改正による[[被害者参加制度]]創設、2008年の[[犯罪被害者等給付金の支給等による犯罪被害者等の支援に関する法律]]改正、[[公訴時効]]廃止の実現などに尽力した<ref>[[松村恒夫]][http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku_h20/asahikawa_giji_kicho.html 「犯罪被害者の現状と必要な支援」][[内閣府]],2008年</ref><ref>「[http://www8.cao.go.jp/hanzai/kou-kei/houkoku/osaka_contents.html 「犯罪被害者週間」国民のつどい]」内閣府,2006年</ref>。 === 中国への新幹線の技術移転を主張 === 2002年12月19日北京市内の釣魚台迎賓館で開かれた日中国交正常化30周年記念シンポジウムで講演、北京と上海を結ぶ中国の高速鉄道計画に新幹線の車両や機器だけでなく「建設や運営管理を含めシステム全体の技術移転に協力する用意がある。新幹線方式導入は、建設素材、土木技術など幅広い分野に経済波及効果をもたらす」と主張した<ref>[http://www.47news.jp/CN/200212/CN2002121901000440.html 新幹線方式採用を要望 訪中の奥田経団連会長]</ref>。 === 韓国とのFTAを主張 === 韓国とのFTA締結が日本経済復活の鍵になると提言し政財界に働きかけた。2004年当時、韓国のテレビドラマの日本でのヒットに目をつけ、韓流という形でテレビを始めとする多くの報道機関で取り上げることを支持した。経団連企業の多くが様様な広告に出資するスポンサーであるため、当時経団連会長の奥田の案は力を持った。2011年に至ってもFTAは締結されていない。 === その他 === {{出典の明記|section=1|date=2008年4月|ソートキー=人}} * 大学時代は柔道部に所属した。段位は六段。 * 奥田が休日に愛車・[[トヨタ・アリスト|アリスト]]に乗る際、先行車との「車間距離をぐっと詰め、[[パッシング]]の連続で押しのける」などの行為を常習的に行っていることを過去に語っている。奥田は自社のテストコースで200キロ以上の速度を出す事もしばしばあり、当然右車線を走行していた事や高速道路で160キロ以上ものスピードで走っていた事も明かしており、「[[スピード]]は[[麻薬]]」「普段は黒塗りの役員車に乗っているが、トロトロ走る役員車に乗っているとイライラするし、ゆっくり走っている事が苦痛にさえ感じる」とも発言しており、運転手に言い掛かりを付ける事もしばしばある<ref>『[[日経ビジネス]]』[[1995年]][[7月17日]]号「愛車のアクセル全開で憂さ晴らし」</ref>。 * 政府が旭日大綬章を授与後、上述の危険運転行為記事が問題となり、識者からは『人間として致命的欠陥がある』『政府は馬鹿だ』『経団連も馬鹿だ』といった発言が聞かれた。<ref>当時の日刊現代より。</ref> * [[牛海綿状脳症|BSE]]問題の影響で、[[吉野家]]などで[[牛丼]]の販売が休止され、直前に客が「食べおさめ」の行列をつくったことについて、奥田は[[2002年]][[2月12日]]、[[東海地方経済懇談会]]後の記者会見で「テレビは一部の人の動きを面白おかしく報じていたようだが、(牛丼がなくても)死ぬわけでない。日本人は右から左へ早くふれやすい、単純な国民だと感じた」と発言。懇談会でも奥田は牛丼を教育上の問題点の例に挙げ、「日本人はどうしたのだろうか。やはり教育に力を入れなければならないと感じた」と述べた<ref>[[毎日新聞]][[2004年]][[2月12日]]号「奥田経団連会長:牛丼フィーバーにチクリ 『単純な国民だ』」</ref>。 * [[皇室典範に関する有識者会議]]のメンバーを務めた。奥田自身は女性・女系天皇容認派であるとされる。 * [[ミサワホーム]]の経営危機を巡る奥田の発言が、結果的にミサワホームを[[産業再生機構]]入りに追い込んだとして、ミサワホーム創業者(元会長)[[三澤千代治]]側が[[竹中平蔵]][[内閣府|経済財政担当相]](当時)、[[斎藤淳]]産業再生機構社長と共に[[公務員職権乱用罪]]で告発する事件があった。 * [[ライブドア]]の日本経団連入会を認めた際に、奥田は「企業倫理を学ぶのに役立ててほしい」と[[堀江貴文]]を評価していたが、1ヵ月後ライブドアに[[証券取引法]]違反が発覚すると「経団連として(ライブドア入会は)ミスった」と釈明した。 * 2006年[[3月8日]]の記者会見では残虐な[[ゲーム]][[ソフト]]の影響で一部の若者が社会に適応できなくなり[[ニート]]と化している可能性を指摘。経団連としてチェック体制を確立すべく検討を開始したと述べた。 * 拝金的な資本主義経済よりも、企業人は「武士道の精神」のような「心の規範」を持つべきと発言した<ref>[http://www.keidanren.or.jp/japanese/journal/times/2005/1117/08.html 東北経営者大会での奥田会長基調講演(要旨)−「“こころ豊かな”人・企業・社会をめざして」](日本経団連タイムス No.2779 [[2005年]][[11月17日]])</ref>。 * 橋梁談合事件が起こった際には「談合は慣習、一気になくすのは難しい」「全国津々浦々に行きわたっている慣習のようなもので、地方では仕事を回し合っている[[ワークシェアリング]]。本当にフェアな戦いをすれば、力の強いところが勝ち、弱いところは沈んでしまう」と発言<ref>{{cite news|title = 談合「全国津々浦々の慣習」|work = 朝日新聞朝刊|date = 2005-07-12|page = 9}}</ref>。 * 2006年[[11月19日]]の国際ロータリー第2760地区(愛知地区)大会の記念講演で「世界の現状と日本の針路」と題した部分の中で「均一性、画一性の社会は、規格品の大量生産には適していたが、今やそれは[[中国]]の強み」と指摘し、今後の日本は国民にも地方にも「多様性、独創性」(外国からの移民受け入れ)が必要だと訴えた。さらに、少子化について労働人口の急激な減少を懸念。女性や高齢者の[[雇用]]を掲げる[[厚生労働省]]の対策に「雇用のミスマッチが起きて対応できない」と批判して「外国人の力を借りるのは不可欠」との見方を示した。 * [[2009年]][[3月10日]]政府の[[経済財政諮問会議]]にて[[中華人民共和国|中国人]]旅行者らへの[[ビザ]]の発給要件緩和を早急に実施するよう求めた <ref>[http://www.jiji.com/jc/c?g=eco_30&k=2009031000944 羽田、成田の機能強化を提言=観光分野の成長戦略−諮問会議] 時事通信</ref> * 2009年3月から実施された高速道路の[[ETC割引制度|上限千円料金]](いわゆる千円高速)を高く評価しており、それによって[[自家用車|マイカー]]の利用が増え鉄道の利用者が大幅に減った際は笑みを浮かべ「マイカーの[[盗塁]]!!高速道路の盗塁!![[ETC]]の盗塁!!」と叫びながら経団連会館内を走り回ったという。更に「今後も続けるべき政策だ。財源は男性の[[健康保険]]の自己負担額を4割にすることで補えばよい。女性を強くして男性を弱くすることは[[男女共同参画]]にもなるしな。」と発言した。<ref>[http://www.mlit.go.jp/kisha/kisha03/15/151209/02.pdf 奥田氏交通政策で女性専用車両と千円高速を評価]</ref> * [[2010年]][[8月10日]]アブダビ首長国連邦(UAE)のアブダビ首長国のホテルで開いた第35回中東協力現地会議の閉幕にあたって「人間の国際化をしない限り日本の将来はおかしくなる。第二の大和民族を作ってもよいから、若い外国人に日本にもっと来てもらい、少子化を食い止めることに取り組むべきだ」と発言。移民推進を訴えた。<ref>[http://www.j-cast.com/2010/08/24073684.html ■長谷川洋三の産業ウォッチ トヨタ相談役の危惧:人間の国際化しないと日本ダメになる(j-cast)]</ref> === 2005年衆議院選挙 === 奥田は2005年[[8月8日]]の[[郵政解散]]当日に小泉首相と会談し、その後社として自民党を全面支援した。トヨタは従来、伝統的に[[トヨタ自動車労働組合|トヨタ労組]]が労使一体となって[[民社党]]→[[民主党 (日本 1998-)|民主党]]・[[民社協会]]に組織内候補を送り込んで支持してきたことなどから、自民党とは一定の距離を置いていたが、奥田は姿勢を転換しグループ企業を含めた役員クラスを自民候補の支援に動員した。[[日本ガイシ]]や[[中部電力]]、[[東芝]]など他社もこれに倣った<ref>[http://www.chunichi.co.jp/wtok10/050905T1005.html トヨタが自民支援全開/奥田会長、中部財界に大号令]([[中日新聞]]、2005年[[9月5日]])</ref>。経団連会長である奥田が自民全面支援を表明した影響は大きかった。例えばトヨタ本社がある[[愛知県]]は民社党委員長をつとめた春日一幸、塚本三郎らを輩出し『愛知民社』といわれ同盟を背景にした革新勢力の牙城であったが、奥田が自民支持を表明すると自民が躍進し、民社党以来の流れを汲む民主党の絶対優勢は崩れ去った(ただし、民主党議員の得票数に大きな変化はなかった)。 == 語録 == * 「変わらないことが最も悪い」 * 「リストラするなら経営者は腹を切れ」 * 「人間の顔をした市場経済」 * 「格差があるにしても、差を付けられた方が凍死したり餓死したりはしていない」 * 「[[厚生労働省|厚労省]]叩きは異常な話。正直言ってマスコミに報復してやろうかな。スポンサーを降りるとか」<ref>[http://www.j-cast.com/2008/11/13030308.html メディアから広告引き上げ トヨタ奥田氏「報復宣言」の効果]([[J-CASTニュース]]、[[2008年]][[11月13日]])</ref>(厚生労働行政の在り方に関する懇談会での発言) == 家族・親族 == 実弟の[[奥田務]]は、[[J.フロント リテイリング]]相談役、前会長兼CEO。外見が瓜二つだといわれている。従姉に童話作家の[[米川みちこ]]がいる。 == 経済関係の略歴 == * 1999年より社団法人[[日本経営者団体連盟]]会長 * 2000年より2002年まで社団法人[[日本自動車工業会]]会長 * 2000年より社団法人[[自動車工業振興会]]会長 * 2000年より2004年まで社団法人[[如水会]]理事 * 2000年より2006年3月まで 財団法人三重県産業支援センター会長 * 2000年よりインターネット文化振興協会理事長 * 2001年より社団法人[[デジタルラジオ推進協会]]会長 * 2002年に社団法人[[日本経済団体連合会]]初代会長に就任し、2004年5月27日総会で再任され2006年5月までその第2期目を務め、その後は同会の名誉会長を務めている。 * 2001年から2006年まで[[経済財政諮問会議]]議員 * 2001年より[[社会保障審議会]]委員 * 2002年より[[外務省]]顧問 * 2002年より2006年まで[[産業構造審議会]]会長 * 2003年より[[交通政策審議会]]会長 * 2003年より[[国土開発幹線自動車道建設会議]]委員 * 2004年より[[財政制度等審議会]]臨時委員 * 2004年より日本活性化のための経済連携を推進する国民会議代表世話人 * 2004年より財団法人[[日本科学技術連盟]]第7代会長 * 2004年より学校法人[[光産業創成大学院大学]]理事 * 2005年より[[皇室典範に関する有識者会議]]委員 * 2006年より2008年まで国立大学法人[[東京大学]]経営協議会学外委員 * 2006年より2008年まで財団法人[[国際開発高等教育機構]]会長 * 2006年より[[事業創造大学院大学]]客員教授 * 2006年より社団法人[[日本ゴルフツアー機構]]理事 * 2007年より[[国際公共政策研究センター]]会長 * 2007年より[[日本中央競馬会]]経営委員会初代委員長 * 2007年より財団法人[[日中経済協会]]名誉顧問 * 2007年10月2日より有限責任中間法人[[JAバンクアグリ・エコサポート基金]]会長理事 * 2007年12月26日より[[内閣]]特別顧問 * 社団法人[[日本自動車会議所]]常任理事・顧問 * 社団法人[[鉄道貨物協会]]会長 * 財団法人[[トヨタ財団]]顧問 * 太平洋経済委員会日本委員会顧問 * 財団法人[[海外子女教育振興財団]]顧問 * 財団法人[[長寿科学振興財団]]会長 * 特定非営利活動法人[[日本水フォーラム]]副会長 * 財団法人[[日米地域間交流推進協会]]副会長 * 財団法人[[財務会計基準機構]]評議員 * [[名古屋大学]]法学部創立50周年記念事業「アジア法政情報交流センター」創設募金後援会顧問 * 2007「日中文化・スポーツ交流年」実行委員会最高顧問 * 財団法人2007年ユニバーサル技能五輪国際大会日本組織委員会名誉会長 * 美しい森林づくり全国推進会議発起人 * 奥・井ノ上イラク子ども基金発起人 * 2011ラグビーワールドカップ日本招致委員会特別顧問 * [[早稲田大学]]大学院アジア太平洋研究科・アジア太平洋研究センター国際諮問委員会委員 * 社団法人[[日本工業倶楽部]]理事 * 2005年日・EU市民交流年日本側実行委員会委員長 * [[東京マラソン]]組織委員会委員 * 財団法人[[道路経済研究所]]名誉会長 * 財団法人[[社会教育協会]]顧問 * これからの教育を語る懇談会委員 * [[早稲田大学]]創立125周年記念募金委員会名誉顧問 * 財団法人[[道路新産業開発機構]]会長 * 財団法人[[オイスカ]]顧問 * 財団法人[[日本農林漁業振興会]]副理事長 * 国立大学法人[[一橋大学]]特別顧問 * [[日本郵政]]株式会社取締役報酬委員会委員長 兼 指名委員会委員 * [[国際協力銀行]]代表取締役総裁 等を歴任。 == 栄典 == * [[1996年]] - [[藍綬褒章]]受章。 * 2008年 - [[旭日大綬章]]受章。 == 脚註 == {{脚注ヘルプ}} {{Reflist|3}} == 関連項目 == * [[豊田章一郎]] * [[豊田達郎]] * [[張富士夫]] * [[井上準之助]] * [[御手洗冨士夫]] {{Start box}} {{S-bus}} {{Succession box | title = [[トヨタ自動車|トヨタ自動車会長]] | before = [[豊田章一郎]] | years = 第3代 : [[1999年]] - [[2006年]] | after = [[張富士夫]] }} {{Succession box | title = [[トヨタ自動車|トヨタ自動車社長]] | before = [[豊田達郎]] | years = 第3代 : [[1995年]] - 1999年 | after = 張富士夫 }} {{End box}} {{日本経済団体連合会会長}} {{デフォルトソート:おくた ひろし}} [[Category:日本の実業家]] [[Category:トヨタ自動車の人物]] [[Category:事業創造大学院大学の教員]] [[Category:豊田中央研究所の人物]] [[Category:日本経済団体連合会会長]] [[Category:藍綬褒章受章者]] [[Category:一橋大学出身の人物]] [[Category:三重県出身の人物]] [[Category:1932年生]] [[Category:存命人物]]
このページで使用されているテンプレート:
テンプレート:Cite news
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Cite web
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:End box
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Infobox 人物
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Reflist
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:S-bus
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Start box
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:Succession box
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:出典の明記
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:日本経済団体連合会会長
(
ソースを閲覧
)
テンプレート:脚注ヘルプ
(
ソースを閲覧
)
奥田碩
に戻る。
検索
検索
奥田碩のソースを表示
話題を追加