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奥州合戦
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{{Battlebox |battle_name=奥州合戦 |campaign= |image= |caption= |conflict=奥州合戦 |date=[[文治]]5年([[1189年]])7月から9月 |place=東北地方 |result=鎌倉軍の勝利 |combatant1=[[鎌倉幕府|鎌倉政権]][[Image:Sasa_Rindo.svg|20px]] |combatant2=[[奥州藤原氏]] |commander1=[[源頼朝]] |commander2=[[藤原泰衡]] |strength1=280,000騎([[吾妻鏡]]) |strength2= |casualties1=不明 |casualties2=[[平泉]]陥落 |}} '''奥州合戦'''(おうしゅうかっせん)は、[[文治]]5年([[1189年]])7月から9月にかけて、[[鎌倉幕府|鎌倉政権]]と[[奥州藤原氏]]との間で[[東北地方]]にて行われた一連の戦いの総称である。この戦役により、[[源頼朝]]による武士政権が確立した。また[[治承]]4年([[1180年]])に始まる内乱時代([[治承・寿永の乱]])の最後にあたる戦争でもある。同時代には「奥州合戦」と呼ばれたが、『[[吾妻鏡]]』文治5年6月6日条などの記述を踏襲して、'''奥州征伐'''と呼ばれる事もある。 == 概要 == === 背景 === 奥州藤原氏は、初代[[藤原清衡|清衡]]以来三代100年に渡って[[陸奥国|陸奥]]・[[出羽国|出羽]]両国に君臨し、三代[[藤原秀衡|秀衡]]の時代には陸奥守、[[鎮守府将軍]]の官職を得て、名実ともに奥州を支配する存在となっていた。 平氏討滅後の源頼朝にとって、鎌倉政権を安定させるためには、潜在的脅威である奥州藤原氏を打倒する必要があった。文治2年([[1186年]])4月、頼朝はそれまで藤原氏が直接行っていた京都朝廷への貢馬・献金を、鎌倉経由で行うよう要求し、秀衡もそれに従った。 文治4年([[1188年]])2月、頼朝と対立して逃亡していた[[源義経]]が奥州藤原氏の本拠地・[[平泉]]に潜伏していることが発覚した(『[[玉葉]]』文治4年2月8日条、13日条)。秀衡は前年の10月に死去していたが、義経と子息の[[藤原泰衡|泰衡]]、[[藤原国衡|国衡]]の三人に起請文を書かせ、義経を主君として給仕し三人一味の結束をもって頼朝の攻撃に備えるように遺言したという(『玉葉』文治4年正月9日条)。頼朝は「亡母のため五重の塔を造営すること」「重厄のため殺生を禁断すること」を理由に年内の軍事行動はしないことを表明し、藤原秀衡の子息に義経追討宣旨を下すよう朝廷に奏上した。頼朝の申請を受けて朝廷は、2月と10月に藤原基成・泰衡に義経追討宣旨を下す(『吾妻鏡』4月9日条、10月25日条)。泰衡は遺命に従いこれを拒否し、業を煮やした頼朝は、文治5年(1189年)になると泰衡追討宣旨の発給を朝廷に奏上している。 === 義経の死 === 文治5年([[1189年]])閏4月30日、鎌倉方の圧迫に屈した泰衡は[[平泉]][[衣川館]]の義経を襲撃して自害に追い込んだ。[[後白河天皇|後白河法皇]]はこれで問題は解決したと判断して「彼滅亡の間、国中定めて静謐せしむるか。今においては弓箭をふくろにすべし」(『吾妻鏡』6月8日条)と頼朝に伝えた。6月13日、泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示した。しかし、頼朝の目的は背後を脅かし続けていた奥州藤原氏の殲滅にあり、これまで義経を匿ってきた罪は反逆以上のものとして泰衡追討の宣旨を求めるとともに全国に動員令を発した。鎌倉方の強硬姿勢に動揺した奥州では内紛が起こり、26日に泰衡は異母弟・[[藤原忠衡|忠衡]]を誅殺している。奥州への対応を巡って朝廷と幕府の見解は分かれたが、頼朝は[[大庭景義]]の「戦陣では現地の将軍の命令が絶対であり天子の詔は聞かない」「泰衡は家人であり誅罰に勅許は不要である」との進言を受けて、宣旨なしでの出兵を決断した。 === 出兵 === 7月17日、頼朝は軍勢を大手軍・東海道軍・北陸道軍の三軍に分けて進攻計画を立てた。[[畠山重忠]]を先陣とした頼朝率いる大手軍は[[鎌倉街道#中道|鎌倉街道中路]]から[[下野国]]を経て[[奥州]]方面へ、[[千葉常胤]]・[[八田知家]]が率いる東海道軍は[[常陸国]]や[[下総国]]の武士団とともに岩城岩崎方面へ、[[比企能員]]・宇佐美実政が率いる[[上野国]]の武士団を中心とした[[北陸道]]軍は[[越後国]]から日本海沿いを[[出羽国]]方面へそれぞれ進軍することになった。 7月19日、頼朝は[[梶原景時]]の進言で越後の囚人・[[城長茂]]を加え、大手軍を率いて鎌倉を出発する。25日に[[宇都宮二荒山神社|宇都宮社]]で戦勝を祈願し、26日には常陸の[[佐竹秀義]]が軍勢に加わった。28日、新渡戸駅に到着すると城長茂の郎従200余人が参集した。かつて敵対した二大雄族である[[城氏 (平氏)|城氏]]・[[佐竹氏]]を従えた頼朝は、29日に下野・陸奥国境の[[白河関]]を通過する。[[初秋]]<ref>[[文治]]5年[[7月29日 (旧暦)]]を西暦に換算すると[[1189年]][[9月18日]]となる。</ref>の白河関に立った頼朝が、[[梶原景季]]に「[[能因法師]]の故事を思い出さないか」と問いかけると、景季は「秋風に 草木の露を払わせて 君が越ゆれば 関守も無し」と歌を詠んだ<ref>「都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関(霞の立つ春に京を立ったのに、白河の関に着くとすでに秋風の吹く季節になっていた)」(『[[後拾遺和歌集]]』)</ref>。大手軍はさしたる抵抗も受けずに奥州南部を進み、8月7日には[[伊達郡]][[国見町|国見駅]]に達した。 === 奥州軍の敗北 === {{main|阿津賀志山の戦い}} 奥州側は、泰衡の異母兄・国衡が[[厚樫山|阿津賀志山]]に城壁を築き、前面に二重の堀を設けて[[阿武隈川]]の水を引き入れ、二万の兵を配備して迎撃態勢を取った。泰衡自身は後方の[[多賀城]]の国府にて全軍の総覧に当たった。7日の夜に頼朝は明朝の攻撃を命じ、畠山重忠は率いてきた人夫80名に用意していた鋤鍬で土砂を運ばせて堀を埋めた。8日の卯の刻(午前6時頃)、畠山重忠らの先陣は、金剛別当秀綱の率いる数千騎と戦端を開き、巳の刻(午前10時頃)に秀綱は大木戸に退却した。石那坂では[[伊佐為宗]]が[[佐藤基治]]を打ち破り、その首を阿津賀志山の上の経岡に晒した。10日、畠山重忠・[[小山朝政]]らの本軍は大木戸に総攻撃を行った。後陣の山に登った紀権守、芳賀次郎大夫([[紀清両党]])らの奇襲もあり、奥州軍は金剛別当秀綱、子息の下須房太郎秀方が戦死して潰走した。出羽方面に脱出しようとした国衡は、追撃した[[和田義盛]]に討たれた。根無藤の城郭では両軍の激しい攻防が繰り広げられたが、大将軍の金十郎が戦死して勝敗が決した。自軍の大敗を知った泰衡は多賀城から平泉方面へ退却した。頼朝は北上し[[柴田町|船迫]]宿を経て12日に多賀城に到着し、常陸方面から来た東海道軍と合流した。13日、比企・宇佐見の両将に率いられた北陸道軍は[[田川行文]]・[[秋田致文]]を討ち取って出羽を制圧した。 === 平泉陥落 === 14日、[[玉造郡]]または物見岡に泰衡在りとの情報を得た頼朝は玉造郡に発向し、別働隊として小山朝政、朝光らを物見岡に向かわせた。朝政はその日のうちに物見岡を攻略するが、泰衡の姿はなかった。20日、玉造郡に入った頼朝の本隊は多加波々城を囲むが、泰衡はまたも逃亡しており、城に残った敵兵は手を束ねて投降した。頼朝は平泉攻略を前に「僅か一二千騎を率い馳せ向かうべからず。二万騎の軍兵を相調え競い至るべし。すでに敗績の敵なり。侍一人といえども無害の様、用意を致すべし」と命じた。21日、[[栗原市|栗原]]・三迫の要害を落として津久毛橋に至ると、[[梶原景高]]は「陸奥の 勢は御方に 津久毛橋 渡して懸けん 泰衡が首」と歌を詠み、頼朝を喜ばせた。22日に平泉に入ったが、平泉は既に火が放たれて放棄された後だった。 === 奥州藤原氏の滅亡 === 8月26日、頼朝に赦免を求める泰衡の書状が届いたが、頼朝はこれを無視して、9月2日には岩井郡[[盛岡市|厨河]](現盛岡市厨川)へ向けて進軍を開始する。厨河柵はかつて[[前九年の役]]で[[源頼義]]が[[安倍貞任]]らを討った地であり、頼朝はその佳例に倣い、厨河柵での泰衡討伐を望んだのである。泰衡は奥地に逃亡し糠部郡から夷狄島(北海道)への渡航も企てたが、3日に比内郡贄柵で郎従の[[河田次郎]]に殺害された。4日、頼朝は陣岡に布陣して北陸道軍と合流した。軍勢の総数は「二十八万四千騎」に達したという。泰衡の首級は6日に陣岡の頼朝へ届けられた。頼朝は河田次郎を八虐の罪に値するとして斬罪に処し、前九年の役で祖先の源頼義が安倍貞任の首を晒した故事に倣って泰衡の首を晒した<ref>前九年の役において安倍貞任の首は横山経兼が頼義の命を承り、門客の貞兼に受け取らせ、郎従の惟仲が首を懸けて長さ八寸の釘を打ち付けた。頼朝は経兼の曾孫・時広に命じ、時広の子・時兼が景時から泰衡の首を受け取り、惟仲の子孫・七太広綱に首を懸けさせて同じ長さの釘を打ち付けている。</ref>。 7日、泰衡の郎従である[[由利維平]]が捕らえられる。その勇敢な態度から頼朝は維平と会い、「泰衡は奥州に威勢を振るっており、刑を加えるのは難儀に思っていたが、立派な郎従がいなかったために、河田次郎一人に誅された。両国を治め十七万騎を率いながら、二十日程で一族皆滅びた。言うに足らない事だ」と告げた。維平は「故左馬頭殿([[源義朝]])は、海道十五箇国を治められたが、[[平治の乱]]で一日も支えられず零落し、数万騎の主であったが、[[長田忠致]]に誅されました。今と昔で優劣があるでしょうか。泰衡は僅か両国の勇士を率い、数十日も頼朝殿を悩ませました。不覚とたやすくは判断できないでしょう」と答えた。頼朝は答えを返さず対面を終えると、畠山重忠に維平を預け、芳情の施しを命じた。9日、京都の[[一条能保]]から7月19日付の泰衡追討宣旨が陣岡の頼朝の下へ届いた<ref>北爪真佐夫は7月20日に後白河法皇の実姉である[[上西門院]]が死去しており、19日には朝廷・院はその対応に追われて機能していなかったと考えられ、実際の発給日はこの日よりも後日で、頼朝の出発に合わせる形で後に日付を改めたとしている(北爪真佐夫『中世初期政治史研究』(吉川弘文館、1998年、ISBN978-4-642-02764-9)。</ref>。 12日、頼朝は陣岡を出て厨河柵に入り、19日まで逗留して降人の赦免や本領安堵などの処理を行った。平泉に戻った頼朝は奥州支配体制を固めるため、22日に[[葛西清重]]を[[奥州総奉行]]に任命し、28日に鎌倉へ向けて帰還した。しかし鎌倉の支配に対する現地の豪族の反感は根強く、文治5年(1189年)12月に泰衡の家臣であった[[大河兼任]]が主君の仇と称して挙兵し鎌倉軍を悩ませた([[大河兼任の乱]])。この反乱は翌年3月に鎮圧され、約10年にわたる争乱が終息し、武家政権確立に向けた準備がほぼ整うことになる。 == 意義 == この合戦で源頼朝は全国的な動員(南九州の薩摩・かつて平氏の基盤であった伊勢や安芸など)、かつて[[平氏]]・[[源義仲]]・[[源義経]]に従っていた者たち<ref>かつて北陸で最大勢力を誇った平氏方の城長茂、[[治承]]4年([[1180年]])の[[金砂城の戦い]]で頼朝軍に敗れた[[佐竹秀義]]、源義経の逃亡を見逃したと鎌倉に召され梶原景時に預けられていた摂津渡辺党の源番(みなもとのつがう)など。</ref> の動員をも行っている。しかしその動員対象は「武器に足るの輩」(文治5年2月9日・源頼朝下文)に限定されていた。さらに不参の御家人に対しては所領没収の厳しい処罰を行ったこと、頼朝が挙兵以来となる自らの出馬を行ったことと併せて考えると、頼朝が自身に従う「[[御家人]]」の確立という政治的意図を持っており、奥州合戦はそのための契機となったともいえる<ref>川合康『源平合戦の虚像を剥ぐ』(講談社 1996年)</ref>。 == 年表 == * 年月日は出典が用いる暦であり、当時は宣明暦が用いられている {| class="wikitable" style="font-size:95%; margin:10px 0px;" |-style="line-height:1.25em;" ! style="padding:2px 1px;" |月日<br />{{Nowrap|([[宣明暦]]長暦)}} !内容 !出典 |- | style="white-space:nowrap;" | |- |閏4月30日 |[[藤原泰衡]]の軍勢が衣川館を襲撃。[[源義経]]自害 |[[吾妻鏡]] |- |5月22日 |奥州より義経誅殺を伝える飛脚が鎌倉に参着 |吾妻鏡 |- |6月8日 |義経滅亡を受けて、[[後白河天皇|後白河法皇]]より戦闘停止の院宣が鎌倉に届く |吾妻鏡 |- |6月13日 |[[藤原高衡]]が義経の首を鎌倉に持参。[[和田義盛]]・[[梶原景時]]が実検 |吾妻鏡 |- |6月25日 |源頼朝が泰衡追討宣旨の発給を朝廷に要請 |吾妻鏡 |- |6月26日 |奥州で兵乱。[[藤原忠衡]]が殺害される |吾妻鏡 |- |6月30日 |頼朝、奥州征伐について[[大庭景義]]に諮問 |吾妻鏡 |- |7月16日 |泰衡追討の延期を命じる宣旨が鎌倉に届く。頼朝、宣旨なしでの出兵を決断 |吾妻鏡 |- |7月17日 |終日審議。東海道軍・大手軍・北陸道軍の三軍を編成して、進攻ルートを決定 |吾妻鏡 |- |7月18日 |北陸道軍が鎌倉を出発 |吾妻鏡 |- |7月19日 |頼朝が率いる大手軍が鎌倉を出発。越後の囚人・[[城長茂]]を軍勢に加える |吾妻鏡 |- |7月25日 |頼朝、下野国古多橋駅に到着。宇都宮社に奉幣 |吾妻鏡 |- |7月26日 |頼朝、宇都宮を出発。常陸の[[佐竹秀義]]を軍勢に加える |吾妻鏡 |- |7月28日 |新渡戸駅に到着。城長茂の郎従200余人が参集 |吾妻鏡 |- |7月29日 |頼朝、[[白河関]]を通過 |吾妻鏡 |- |8月7日 |頼朝、[[国見町|国見駅]]に到着 |吾妻鏡 |- |8月8日~10日 |阿津賀志山、石那坂、根無藤で戦闘<br>[[藤原国衡]]・金剛別当秀綱・[[佐藤基治]]・金十郎らが戦死して奥州軍大敗 |吾妻鏡 |- |8月11日 |頼朝、船迫宿に到着。国衡の首を実検 |吾妻鏡 |- |8月12日 |頼朝、[[多賀城]]国府に到着。東海道軍が合流 |吾妻鏡 |- |8月13日 |北陸道軍、[[出羽国]]で[[田川行文]]・[[秋田致文]]を討ち取る |吾妻鏡 |- |8月14日 |頼朝、玉造郡に発向<br>[[小山朝政]]、物見岡を攻略 |吾妻鏡 |- |8月20日 |頼朝、玉造郡多加波々城を攻略 |吾妻鏡 |- |8月21日 |頼朝、平泉に発向。栗原・三迫の要害を攻略して津久毛橋に達する<br>泰衡、平泉に火を放って逃走 |吾妻鏡 |- |8月22日 |平泉陥落 |吾妻鏡 |- |8月25日 |衣川館の[[藤原基成]]父子が投降 |吾妻鏡 |- |8月26日 |頼朝の宿所に投降をほのめかす泰衡の書状が投げ込まれる |吾妻鏡 |- |9月2日 |頼朝、平泉から岩井郡厨河柵に発向 |吾妻鏡 |- |9月3日 |泰衡、比内郡贄柵で郎従の河田次郎に殺害される |吾妻鏡 |- |9月4日 |頼朝、志波郡に到着。陣岡で北陸道軍が合流 |吾妻鏡 |- |9月6日 |河田次郎、泰衡の首を陣岡に持参<br>頼朝、[[前九年の役]]の故事に倣い、釘を打ち付けて梟首とする |吾妻鏡 |- |9月8日 |頼朝、奥州平定の飛脚を京都に送る |吾妻鏡 |- |9月9日 |[[一条能保]]の使者が陣岡に到着。7月19日付の泰衡追討宣旨を持参 |吾妻鏡 |- |9月11日 |頼朝、陣岡を出て厨河柵に入る |吾妻鏡 |- |9月19日 |頼朝、厨河柵を出発。平泉に戻る |吾妻鏡 |- |9月22日 |頼朝、陸奥国の奉行を[[葛西清重]]に命じる |吾妻鏡 |- |9月28日 |頼朝、鎌倉に向けて帰還 |吾妻鏡 |- |} == 脚注 == {{reflist}} == 参考文献 == *[[関幸彦]] 『東北の争乱と奥州合戦』 吉川弘文館、2006年。 == 関連項目 == *[[日本の合戦一覧]] *[[石那坂の戦い]] *[[阿津賀志山防塁]] *[[大河兼任の乱]] {{DEFAULTSORT:おうしゆうかつせん}} [[Category:鎌倉時代の戦い]] [[Category:東北地方の歴史]] [[Category:陸奥国]] [[Category:出羽国]] [[Category:奥州藤原氏|戦]]
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