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太田資始
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 太田 資始 | 画像 = | 画像サイズ = | 画像説明 = | 時代 = [[江戸時代]]後期 - 末期([[幕末]]) | 生誕 = [[寛政]]11年[[7月28日 (旧暦)|7月28日]]([[1799年]][[8月28日]]) | 死没 = [[慶応]]3年[[5月18日 (旧暦)|5月18日]]([[1867年]][[6月20日]]) | 改名 =友三郎、丈三郎(幼名)、多門 | 別名 = 正寛→資始 | 戒名 =道醇 | 墓所 =[[静岡県]][[三島市]]玉沢の[[妙法華寺]] | 官位 = [[従五位]]下摂津守、[[従四位]]下[[侍従]][[備後国|備後]]守、<br />[[備中国|備中]]守 | 幕府 = [[江戸幕府]][[寺社奉行]]・[[大坂城代]]・[[京都所司代]]・[[老中]] | 主君 = | 藩 = [[遠江国|遠江]][[掛川藩]]主 | 氏族 = [[堀田氏]]→[[太田氏]] | 父母 = 父:[[堀田正穀]]、養父:''[[太田資言]]'' | 兄弟 = [[堀田正民]]、[[浅野道博]]、'''資始''' | 妻 = 正室:[[太田資言]]の娘<br />継室:'''良'''([[上杉斉定]]の六女)? | 子 = '''[[太田資功|資功]]'''、[[秋元礼朝]]、<br />[[内藤政挙]]、[[太田資美|資美]]、<br />籌([[牧野忠恭]]正室)、娘([[相馬充胤]]継々室)、<br />短子([[黒田直和]]正室)、娘([[松平忠礼]]正室)、<br />娘([[松平忠誠 (肥前国島原藩主)|松平忠誠]]正室) | 特記事項 = }} '''太田 資始'''(おおた すけもと)は、[[江戸時代]]後期から幕末にかけての[[大名]]、[[老中]]。[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]第5代藩主。掛川藩太田家9代。 == 生涯 == [[近江国|近江]][[近江宮川藩|宮川藩]]主・[[堀田正穀]]の三男。初名は正寛。文化7年(1810年)8月11日、[[太田資言]]の末期養子(娘婿)となり、[[遠江国|遠江]][[掛川藩]]主を継ぐ。文化9年9月15日、将軍・[[徳川家斉]]に拝謁する。文化10年12月16日、従五位下[[備中国|備中]]守に叙任する。文政元年(1818年)10月24日、[[奏者番]]に就任する。 === 水野忠邦との確執 === 第11代将軍・徳川家斉の側近として[[寺社奉行]]、[[京都所司代]]、[[大坂城代]]などを歴任し、[[天保]]5年([[1834年]])に[[老中]]となったが、老中首座の[[水野忠邦]]と合わず、[[上知令]]、[[出羽国|出羽]][[庄内藩]][[三方領知替え|転封]]、[[倹約令]]などにそのつど反対を標榜した。また、忠邦を幕閣を追放せんとして策謀をめぐらし、水戸に帰国していた[[常陸国|常陸]][[水戸藩]]主・[[徳川斉昭]]に出府を要請し、斉昭を背後から操って忠邦の[[天保の改革]]を潰そうと画策した。 しかしこれは斉昭が出府を拒否した上、忠邦にこの動きが漏れ、逆に資始のほうが天保12年([[1841年]])6月、老中から罷免され隠居した。跡は長男の[[太田資功|資功]]が継いだ。その後、道醇と号した。 === 老中再任 === 次に老中に再任されたのが[[安政]]5年([[1858年]])である。[[大老]]・[[井伊直弼]]は[[堀田正睦]]、[[松平忠固]]を罷免し、代わりに資始、[[間部詮勝]]、[[松平乗全]]ら老中経験者3人を老中に起用した。既に家督を譲った隠居を老中に起用するのは大変異例なことであった。隠居のため役領3万俵を支給された。しかし、ここでも資始と直弼は尊王倒幕志士らの弾圧をめぐって意見が対立した。安政6年(1859年)、再び老中を罷免された。 === 三度老中に === [[文久]]3年([[1863年]])に老中に3度目の就任をしたが、在職1ヶ月で辞職した。幕府はなおも老練な資始を老中に迎えようとしたが、話がまとまらないうちに死去した。 == 人物 == * 天保期の大儒・[[松崎慊堂]]は、資始が直言抗弁の士を好み、「我を怒らせる者は忠臣なり」として、侍臣の諌争を奨励したと語っている。 * 資始が可愛がっていた愛馬が死んで酷く嘆いていると、侍臣が憂えて種々の手段で慰めようとした。このため資始はこれを恥じ、侍臣を集めて「これまで大切な家臣が多く死んだのを嘆いたことがないのに、馬ごときに嘆くのは物の軽重を誤るものであり、人君たる者のすべきことではない」と言い、二度と死んだ馬のことを口に出すことはなかったという。 * 山田三川の『想古録』では、上記の二つの逸話に「掛川侯、人君たるの器量あり」と表題をつけて収録している。 * [[大坂町奉行]]所の[[与力]]であった[[大塩平八郎]]は、資始が[[大坂城代]]であった頃に面識があり、後に資始が[[京都所司代]]在任中の天保4年([[1833年]])に著書『[[洗心洞箚記]]』を上呈している。潔癖で狷介な大塩は決して権力者に媚びることはなく、4年後の天保8年([[1837年]])に大坂東町奉行の[[跡部良弼]]との確執が元で[[大塩平八郎の乱]]を起こしている。 * 大塩は乱の直前に老中など幕閣の要人たちの賄賂や不正無尽などの悪行を糾弾する建議書を、旧知の[[林述斎]]あて飛脚便で江戸に送付した。老中及び西の丸老中6人の中で、大塩から糾弾されなかった者は資始と[[脇坂安董]]の2人だけである。安董は[[寺社奉行]]から西の丸老中格となったために大坂表に赴任したことがなく、大塩との接点がなかった。糾弾された4人は資始と同様に大坂城代を歴任している。 == 年譜 == * [[寛政]]11年([[1799年]]) 生誕 * [[文政]]5年([[1822年]]) [[寺社奉行]]([[7月17日 (旧暦)|7月17日]]) * 文政11年([[1828年]]) [[大坂城代]]([[11月22日 (旧暦)|11月22日]]) * [[天保]]2年([[1831年]]) [[京都所司代]] * 天保5年([[1834年]]) 西の丸[[老中]] * 天保8年([[1837年]]) 本丸老中([[4月2日 (旧暦)|4月2日]]) * 天保12年([[1841年]]) 老中免職、隠居([[6月3日 (旧暦)|6月3日]]) * [[安政]]5年([[1858年]]) 老中に再任([[6月23日 (旧暦)|6月23日]]) * 安政6年([[1859年]]) 老中免職([[7月23日 (旧暦)|7月23日]]) * [[文久]]3年([[1863年]]) 老中に3度目の就任([[4月27日 (旧暦)|4月27日]])、1ヶ月で辞任([[5月14日 (旧暦)|5月14日]]) * [[慶応]]3年([[1867年]]) 死去。享年68。 {{掛川藩主|太田氏|5代|1810年 - 1841年}} {{大坂城代}} {{京都所司代}} {{DEFAULTSORT:おおた すけもと}} [[Category:太田氏|すけもと]] [[Category:堀田氏]] [[Category:譜代大名]] [[Category:掛川藩主]] [[Category:江戸幕府寺社奉行]] [[Category:大坂城代]] [[Category:京都所司代]] [[Category:江戸幕府老中]] [[Category:幕末幕府の人物]] [[Category:1799年生]] [[Category:1867年没]]
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