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[[ファイル:Da Qin Pagoda.jpg|thumb|right|大秦塔]] '''大秦寺'''(だいしんじ)は、[[中国]]における'''[[景教]]'''([[中国]]に伝来した[[ネストリウス派]][[キリスト教]])の[[寺院]]([[教会]])の一般名称である。[[唐]]の時代、[[長安]]に存在した大秦寺が有名。 ==来歴== 中国への景教の伝来は、唐代貞観9年([[635年]])、ネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。このとき[[太宗 (唐)|太宗]]の命により、宰相の[[房玄齢]]が宣教団の団長[[阿羅本]](アラホン、アロベン。英語ではAlopenと表記)を迎えた(『[[唐会要]]』)。 阿羅本はアッシリア東方教会の使いとして訪れたといわれる(大秦景教流行中国碑)。時の宰相が出向いていることを考えると、少なくとも朝廷に対する何らかの働きかけを行った者が、既に長安で活動していた可能性が高い。 3年後の貞観12年([[638年]])に景教は唐により公認され、唐朝は資金を援助し、長安に寺院が建立された。この段階では'''波斯寺'''(あるいは'''波斯経寺'''、波斯は[[ペルシア]]のこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかった。 [[高宗 (唐)|高宗]]の時代(649年 - 684年)になると、阿羅本は「鎮国大法主」に封ぜられ、各地に景寺(教会)を建てるよう、詔勅が下された。ネストリウス派キリスト教は唐王朝に広まることになった。 698年に、[[武則天]]が仏教を重んじると、仏教勢力から攻撃を受け、一時衰退する。 [[玄宗 (唐)|玄宗]]の時代(712年 - 756年)には、寧王[[李憲]]ら五王が参拝し、庇護されるようになる。 [[742年]](天宝元年)には、大将軍で宦官の[[高力士]]が訪れ、五代皇帝の御真影を寺に安置させ、また絹百匹を賜って祭るように指令される。 [[745年]]に大秦国([[東ローマ帝国]])から、高僧・佶和(ゲワルギスの音写)が訪れる<ref>佶和は景教尊経に「宜和吉思法王」と記されている</ref>。同年、教団の名称が「波斯経教」「波斯教」から「大秦景教」に変更されたため、朝廷側からの寺院の呼び名が「波斯寺」から「大秦寺」に改称された<ref>『[[旧唐書]]』大秦寺の条参照</ref>。これは、キリスト教が[[大秦|大秦国]]で(すなわち[[ローマ帝国]]で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている。なお「大秦」という記述は、『[[後漢書]]』永元9年(97年)を初出として以来、『続資治通鑑長編』の1081年の記録にもあり、中国では長らく使用されていた。 [[代宗 (唐)|代宗]]の時代(762年 - 779年)にも庇護される。[[徳宗 (唐)|徳宗]]の時代の建中2年([[781年]])、[[大秦景教流行中国碑]]が建造される。 ==武宗による弾圧== 会昌5年(845年)、[[武宗 (唐)|武宗]]は、[[道教]]を保護する一方で教団が肥大化していた[[仏教]]や、景教、[[摩尼教]]、[[祆教]]などの外来宗教に対する弾圧を行なう([[会昌の廃仏]])。寺院4,600ヶ所余り、招提・蘭若40,000ヶ所余りが廃止され、還俗させられた僧尼は260,500人、没収寺田は数千万頃、寺の奴婢を民に編入した数が150,000人という<ref>『旧唐書』『[[資治通鑑]]』『全唐文』</ref>。大秦景教流行中国碑も、埋められた。 ===弾圧の背景=== この会昌の廃仏政策が行われた背景としては、808年から849年にかけて長期間起こった政争である[[牛李の党争]]や、また、当時脱税目的で僧籍を取る者が多く、これらの僧を還俗させて税をとることで財政改善を狙ったともいわれる。ほか、周辺の諸国家との関係においても、モンゴル高原の[[回鶻]](かいこつ、ウイグル)、チベットの吐蕃などの分裂が起こっており、対外勢力の動揺も弾圧を後押ししたと考えられている。 会昌の廃仏の5年前の840年には回鶻で内紛がおき、回鶻宰相の句録莫賀(キュリュグ・バガ)が、黠戛斯(かつかつし、キルギス)10万騎の力を借りて、回鶻に侵攻し、[[回鶻]]可汗国の第13代[[可汗]][[コウソウ特勒|㕎馺特勒]]<ref>「㕎」は「厂+盍」と書く。(在位:[[839年]] - [[840年]])</ref>を殺害、回鶻は崩壊している。キルギス可汗の阿熱は、その後もウイグルの残党討伐を続け、848年にはウイグルの残部は壊滅した<ref>森安孝夫『興亡の世界史05 シルクロードと唐帝国』(講談社、2007年)</ref>。 ===その後=== 武宗は、翌年の会昌6年(846年)に33歳で崩御し、弾圧は収束する。しかし、会昌の廃仏によって、中華本土の景教は衰滅していったと考えられている。それとともに大秦寺は厳しい運命に晒されたと考えられる。 しかし、中原をとりまく周辺地域ではネストリウス派信仰が[[ケレイト]]や[[ウイグル]]などの[[モンゴル高原]]や[[中央アジア]]の人々の間で存続していた。彼らが王朝の担い手となった[[元 (王朝)|元]]の時代には中国内で再び活性化し、[[華南]]の港湾都市に景教教会が建設された。ただし、元代においてネストリウス派キリスト教は「也利果温教」(也利果温はエヴァンゲリオン([[福音]])の音写)と呼ばれており、唐代の名称とは異なる。また、今のところ唐代に見られる漢訳経典は発見されておらず、そのことから漢族への普及は見られなかったと推察されている。 その後、元の滅亡や[[イスラム教]]・[[チベット仏教]]の普及により[[東アジア]]におけるネストリウス派信仰は衰え、[[明]]代の1623年(または1625年)に至って「[[大秦景教流行中国碑]]」が発見される<ref>桑原隲蔵『大秦景教流行中國碑に就いて』</ref>まで、景教は中国人に完全に忘れ去られることとなった。 ==三夷寺のひとつとして== 唐代では景教寺院は、[[マニ教]]([[摩尼教]]・[[明教]])や[[ゾロアスター教]]([[祆教]]・[[拝火教]])の寺院と総称して、[[三夷寺]]と呼ばれていた。 ==名称== 大秦寺の名が公式文書の中で使用されることになるのは745年の改称以降だが、それ以前に伝写されたと思われる『大秦景教宣元至本経』にも大秦寺の名称が使用されており、あるいはそれ以前から、大秦寺の名称は非公式に使用されていた可能性もある。 また、景教は、ミシア(Missiah 救世主)教とも呼ばれ、彌尸訶、彌施訶、彌失訶など表記された<ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4707_9678.html 大秦景教流行中國碑に就いて(桑原隲藏)]</ref>。 ==大秦景教流行中国碑== [[ファイル:Nestorian Stele (front).JPG|thumb|150px|大秦景教流行中国碑]] [[明]]代に再発見された大秦景教流行中国碑は、現在、[[西安碑林博物館]]が保管所蔵している。 ===テキスト=== 文は『[[大正新脩大蔵経]]』外教部に納められている。『[[全唐文]]』にも収められているが、遺漏が多いとされる<ref>[http://web.archive.org/20070208044156/homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/02-sibu/10-shakushi/001-0-taishin_01.html 大秦景敎流行中國碑頌]</ref>。 ぺルシア人・[[景浄]]の撰といわれる。また、臨書した[[呂秀巌]]が清書したとされる。なお景浄は、[[西明寺]]の[[般若三蔵]](北部インド人)と親交があり、[[ソグド語]]版『[[理趣経]]』を共同で漢訳したといわれる。[[空海]]が渡唐した際、西明寺に住し、般若三蔵は空海の師の一人である。 碑文において、ヤハウェは、阿羅訶(アラハー。[[シリア語]]の音写)と表記されている。 また漢字の外に当時、伝道に用いられたエストランゲロ(Estrangelo)体の[[シリア文字]]が刻されてある。景教僧侶約七十人の名を記している<ref>桑原隲蔵</ref>。 ===成立史=== 8世紀の後半に、中央アジアの王舍城(バルク Balkh)出身の伊斯(イザドブジド Izadbuzid ?)は、唐に登庸されて、光禄大夫・朔方節度副使・試殿中監となっていたが、この伊斯が出資したといわれる<ref>桑原隲蔵。 [[ポール・ペリオ]];Les influences iraniennes en Asie centrale et en Extrême-Orient、Recherches sur les chrtiens d'Asie centrale et d'Extrme-Orient. </ref>。 ==発見・研究史== 古碑出土の状況は、セメド(Semedo)宣教師の『支那通史<ref>Semedo; The History of China. p. 157.桑原隲蔵。</ref>』に記されている。このセメドは漢名を魯徳照といい、1628年に西安に研究のため訪れた。 明末の陽瑪諾は洋名をディアズ(Emmanuel Diaz)といい、出土当時、浙江省杭州府にいた宣教師で、『唐景教碑頌正詮』を著した。その序文で1623年と記している。 発掘後は金勝寺に移されたが、放置されたままであった。 Hellerの『西安府のネストル教碑(Das Nestorianische Denkmal in Singan fu.) 』やコルヂエ(Cordier)の『支那書史(Bibliotheca Sinica. )』、清の楊榮(金+志)『景教碑文紀事攷正』、ワイリ(Wylie)の「西安府のネストル教碑<ref>The Nestorian Tablet of Se-gan Foo. pp. 289-300 (Journal of the American Oriental Society. V).</ref>」などがあり、ほか上海在住のカトリック教会イエズス会の宣教師のアヴレ(Havret)が翻訳をした。 のち[[桑原隲蔵]]と[[佐伯好郎]]によって研究された。 [[桑原隲蔵]]博士は明治43年4月の『藝文』に、「西安府の大秦景教流行中國碑」を発表、大正12年6月には「大秦景教流行中國碑に就きて」と題する講演を行う。これはのち「東洋史説苑」(1938年刊行)に「大秦景教流行中國碑に就いて」として収められた。 [[佐伯好郎]]博士は1908年(明治41年)1月、『地理歴史 百号』(主宰[[喜田貞吉]])に「太秦(禹豆麻佐)を論ず」を発表、古代日本の氏族である[[秦氏]]は景教徒のユダヤ人であるとの説をとなえた([[日ユ同祖論]]を参照)。以降、佐伯は1911年『景教碑文研究』を刊行。1931年には[[東方文化学院]]東京研究所(戦後[[東京大学東洋文化研究所]]に吸収)の研究員となり(〜40年)、同年、北京で[[シリア語]]詩編の碑石を発見。1935年『景教の研究』を刊行した。1941年1月には東京帝国大学で景教研究により文学博士号を授与され、1943年には中国キリスト教史研究の集大成『支那基督教の研究』全5巻を刊行した。 ==景教碑の模造碑== 京都大学と高野山奧院に景教碑の模造碑がある<ref>桑原隲蔵</ref>。高野山の模造碑は1911(明治44)年、アイルランドの佛教研究者ゴルドン(Gordon)夫人の出資によつて建設された<ref>桑原隲蔵。水原堯榮『高野山金石圖説』</ref>。 ==参照項目== *[[アッシリア東方教会]] ==脚注== <references /> ==参考文献== *[[佐伯好郎]] 『景教の研究』 [[東方文化学院]]東京研究所、1935年。 *[[西脇常記]] 「『大秦景教宣元至本經』殘卷について」 『禅文化研究紀要』15号、1988年。 *Ian Gillman and Hans-Joachim Klimkeit, ''Christians in Asia before 1500'', Published in the united states of America by University of Michigan Press 1999. *[[石田幹之助]]『増訂 長安の春』(平凡社・東洋文庫) *[[神田喜一郎]]「或る支那學者の景教考に就て」(大正十三年八月號『歴史と地理』所收) *朱谦之『中国景教』人民出版社 1998 *[[森安孝夫]]「景教」前嶋信次ほか共編『オリエント史講座3』学生社、1982年 *[[松枝到]]『アジアとはなにか』大修館書店、2005年 == 外部リンク == *[http://www.aozora.gr.jp/cards/000372/files/4707_9678.html 大秦景教流行中國碑に就いて(桑原隲藏)] *[http://web.archive.org/20070208044156/homepage.mac.com/two_yossy/fang-hu_island/02-sibu/10-shakushi/001-0-taishin_01.html 大秦景敎流行中國碑頌] {{DEFAULTSORT:たいしんし}} [[Category:教会堂]] [[Category:中国のキリスト教]] [[category:中国の教会堂]] [[Category:唐朝]] [[Category:西安の歴史]]
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