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大宝寺義興
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'''大宝寺 義興'''(だいほうじ よしおき、[[1554年]]([[天文 (元号)|天文]]23年) - [[1587年]][[12月23日]]([[天正]]15年[[11月24日 (旧暦)|11月24日]]))は、[[安土桃山時代]]の大名。[[出羽国|出羽]]の[[大宝寺氏]]の当主。[[大宝寺義増]]の二男。[[大宝寺義氏]]の弟。別名、丸岡兵庫、大宝寺氏高。'''武藤義興'''とも呼ばれる。 ==生涯== [[1554年]]、[[大宝寺義増]]の二男として誕生する。初めは[[櫛引郡]]の[[丸岡城]]を居城としていた。 天正7年([[1579年]])、兄であり大宝寺氏当主である[[大宝寺義氏|義氏]]が[[織田信長]]と誼を通じ[[屋形]]号の称号を得ると、義興は義氏より羽黒山[[別当]]の座を譲り受ける。その後は僧として、また兄の補佐として羽黒山と大宝寺家双方を盛りたてていたが、[[1583年]]、義氏が家臣の[[東禅寺義長]]の謀反により自害した為、尾浦に入りその後を継いだ。 義興には男児が居なかったため、また越後との関係を重視するために[[本庄繁長]]の二男千勝丸(後の[[大宝寺義勝|義勝]])を養子に迎え、本庄繁長の支援を受ける。最上氏への被官の道よりも自家の独立・存続を願い、万が一の時は本庄氏、[[上杉氏]]を頼みとした、積極、且つ苦渋なる外交選択であった。 天正13年([[1585年]])、義興が最上方の清水城を攻めると、荘内の最上方の国人が一斉に蜂起する。これを好機と捉えた[[最上義光]]は軍を率いて[[六十里越街道]]を踏破し荘内に侵攻してきた。 頼みとする本庄繁長は新発田攻めで動けず、[[伊達政宗]]を頼り和議を結ぶがすぐに破れ、東禅寺義長とその弟・[[東禅寺勝正]]が決起する。義興は東禅寺城を囲み追いつめたが、最上義光の援軍が到着し、形勢は一気に逆転する 。一年の籠城による奮戦の末、居城の[[尾浦城]]は陥落し、義興は自害する(一説には助命されて山形へ連行されたとも)。 しかし、養子の[[大宝寺義勝|義勝]]は辛くも実父[[本庄繁長]]の下に逃げ帰り、大宝寺氏としての命脈、願いはかろうじて繋がれた。 == 関連項目 == *[[大宝寺氏]] {{デフォルトソート:たいほうし よしおき}} [[Category:大宝寺氏|よしおき]] [[Category:戦国大名]] [[Category:1554年生]] [[Category:1587年没]] [[Category:出羽国]] [[Category:山形県の歴史]]
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