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大宝寺義増
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{{基礎情報 武士 | 氏名 = 大宝寺義増 | 時代 = [[戦国時代 (日本)|戦国時代]] | 生誕 = [[大永]]2年([[1522年]]) | 死没 = [[永禄]]12年([[1569年]]) | 改名 = 新九郎(幼名)→大宝寺義増 | 別名 = 明氏(あきうじ、初名?)、晴親(はるちか)<br/>号:証江庵<br/>法号:浄昌 | 主君 = [[上杉謙信]] | 氏族 = [[大宝寺氏]]([[藤原氏|藤原姓]]) | 父母 = 父:大宝寺九郎か? 母:不明 | 子 = [[大宝寺義氏|'''義氏''']]、[[大宝寺義興|義興]] | 特記事項 = }} '''大宝寺 義増'''(だいほうじ よします)は、[[戦国時代_(日本)|戦国時代]]の大名。[[出羽国]][[庄内地方]]の武将。[[大宝寺氏]]第16代当主。出羽三山別当職。[[大宝寺義氏]]、[[大宝寺義興]]の父。'''武藤義増'''とも呼ばれる。 ==概要== 義増の周辺の系図には諸説あり、義増は大宝寺九郎の子で前当主の[[大宝寺晴時]]の従兄弟に当たる(祖父は[[大宝寺政氏]])。ちなみに義増の別名として「晴親」(はるちか)が伝わっているが、これは晴時と同じく将軍[[足利義晴]]から[[偏諱|1字]]を与えられたものとみられる。義増の「義」の字も時期的にみて義晴またはその子・[[足利義輝|義輝]]から賜ったものであろう。 晴時の死後、[[土佐林禅棟]]の援助により後を継いだが統率力が無く、領内では内紛が絶えなかった。そのため、元々結びつきのあった[[越後国]]の[[本庄繁長]]や仙北の[[小野寺景道]]の援助を得ることで命脈を保ったと言われている。 一時[[最上氏]]の家臣の[[清水氏]]と抗争し、[[永禄]]8年([[1565年]])には[[清水義高]]を合戦で討ち取り一時は村山郡に進出を果たしたものの、直ぐに上杉軍によって撤退を余儀なくされている。また、永禄11年([[1568年]])[[本庄繁長]]の謀反に荷担したが、上杉氏に本庄氏よりも先に軍を差し向けられるとすぐ降伏し、息子の[[大宝寺義氏|義氏]]を人質として謙信に差し出し陳謝し、翌年に上杉氏によって義氏に強制的に家督を継がされると隠居(死去とも)した。 また、惣領が殺され、一時期庄内に逃亡してきた[[小野寺景道]]を匿った縁で[[小野寺氏]]との交流が生まれることになった。[[永禄]]6年([[1563年]])には佐々木貞綱を打ち破り、当時幼少だった[[鮭延秀綱]]を捕虜として庄内に連行している。 {{DEFAULTSORT:たいほうし よします}} [[Category:大宝寺氏|よします]] [[Category:戦国大名]] [[Category:1522年生]] [[Category:1569年没]] [[Category:出羽国]] [[Category:山形県の歴史]]
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