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大宝寺晴時
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'''大宝寺 晴時'''(だいほうじ はるとき、[[1512年]]([[永正]]9年) - [[1541年]]([[天文 (元号)|天文]]10年))は、[[出羽国|出羽]]の戦国大名。父は[[大宝寺澄氏]]又はその弟・[[大宝寺氏説]](うじとき)。[[大宝寺義増]]の従兄弟。従五位下左京大夫。 初名は'''時氏'''(ときうじ)、のちに将軍[[足利義晴]]より[[偏諱]]の授与を受けて'''晴時'''に改名。'''武藤晴時'''とも呼ばれる。 ==概要== [[大宝寺氏]]第15代当主。出羽飽海[[郡代]]を務めていた砂越氏が亡所となり、[[永正]]15年([[1518年]])に大宝寺氏一門であった[[砂越氏維]]が砂越氏を継いだが、氏維が独立を目指すと内紛となり、また在来領主であった出羽[[安保氏]]や[[来次氏]]などの大宝寺氏の支配に反発する国人勢力の活動が活発となり、晴時はこれらの解消に動き回らねばならなくなってしまう。大宝寺氏はいわば惣領制の崩壊に見舞われ、この晴時の時代に大きく衰退した。しかも[[天文 (元号)|天文]]元年([[1533年]])、居城の[[鶴ヶ岡城#大宝寺城|大宝寺城]]を砂越氏維の攻撃によって焼失するという有様であった<ref>[[上杉氏]]の仲介によってようやく和睦が交わされるも、翌年には再び争い合っている</ref>。[[赤川]]の流域の変化で天然要害としての機能を失い、それどころか度々洪水の被害に見舞われたこともあり、居城をより堅牢な[[大山城|尾浦城]]へ移したと言われている。 砂越氏との抗争が一応の終着を見せた後の天文年間に幕府への貢物が功を奏し[[京職|左京大夫]]に任官され、上洛して将軍に謁見したが、帰国してまもなく早逝する。晴時には子がなく、家臣の[[土佐林禅棟]]が奔走し後継は一族の義増が継いだ。 == 偏諱を与えた人物 == '''晴時時代''' *[[大淵時興|大淵'''時'''興]](家臣) *[[来次時秀|来次'''時'''秀]](出羽国人衆、前述の来次氏の当主) ==脚注== {{Reflist}} {{デフォルトソート:たいほうし はるとき}} [[Category:大宝寺氏|はるとき]] [[Category:戦国大名]] [[Category:1512年生]] [[Category:1541年没]] [[Category:出羽国]] [[Category:山形県の歴史]]
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