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大仁田厚
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{{存命人物の出典明記|date=2009年5月10日 (日) 05:02 (UTC)}} {{Infobox プロレスラー | 名前 = 大仁田 厚 | 画像 = Atsushi Onita.JPG | リングネーム = '''大仁田 厚'''<br />グレート・ニタ<br />ミスター・オーニタ | 本名 = 大仁田 厚 | ニックネーム = '''邪道'''<br />涙のカリスマ<br />デスマッチの教祖<br />インディーの帝王<br />炎の稲妻<br />炎のカリスマ<br />邪道高校生<br />ミスター・ライアー | 身長 = 181cm | 体重 = 127kg→ダイエット後79kg | 誕生日 = {{生年月日と年齢|1957|10|25}} | 死亡日 = | 出身地 = [[長崎県]][[長崎市]] | 所属 = | スポーツ歴 = [[野球]] | トレーナー = [[ジャイアント馬場]]<br />[[ザ・デストロイヤー]]<br />[[テリー・ファンク]] | デビュー = 1974年4月14日 | 引退 = }} '''大仁田 厚'''(おおにた あつし、[[1957年]][[10月25日]] - )は、[[日本]]の男性[[プロレスラー]]、[[政治家]]、[[タレント]]、[[俳優]]としても活躍。[[長崎県]][[長崎市]]出身。元[[国会議員#参議院議員|参議院議員]]。身長181cm、体重79kg(全盛時は105kg)。弟(異父弟)は[[大東文化大学]][[法学部]][[教授]]の[[松原孝明]]。2012年に現役プロレスラーとしてヘルパー2級を取得。株式会社 アルファ・ジャパンプロモーション所属。 == 人物 == 実家は[[風呂敷]]の製造・販売業。[[長崎県]][[長崎市立磨屋小学校]]、[[長崎市立桜馬場中学校]][[卒業]]、[[瓊浦高等学校|瓊浦高等学校]]に[[入学]]するも[[中退]]し、日本一周徒歩旅行を計画。長崎県庁前から出発し[[神戸市|神戸]]まで辿り着いたが、火事で家が全焼した知らせが入り断念した。ちなみに長崎県庁を出発する時に自分で地元マスコミ<!--これはスポーツニッポンの九州版ではなかったかと。大下英治・著「二五七針の十字架」に、この時の新聞記事の写真が載っていたはず。-->を呼び、その様子が新聞に載ったというエピソードがある。 41歳にして[[高等学校]]を再受験し合格、[[1999年]][[4月]]、[[駿台学園中学校・高等学校|駿台学園高等学校]]定時制課程普通科第3年次[[編入学]]、[[2000年]][[3月]]卒業。[[2000年]]4月、[[明海大学]][[経済学部]]に入学し、1年で中退。[[2001年]]4月、[[明治大学]][[政治経済学部]]経済学科(夜学)に入学。国会議員、プロレスラー、[[タレント]]として活動しながら大学に通い続け、社会人特別入試合格時には「4年というと嘘っぽくなるから、6年で卒業したい」と語っていたものの4年で卒業。 == プロレスラーとして == === 全日本プロレス時代 === [[1973年]]、日本一周徒歩旅行を断念後、[[ジャイアント馬場]]に憧れ、[[全日本プロレス]]に「新弟子第一号」として入門し、[[1974年]]4月14日の[[後楽園ホール]]大会における[[佐藤昭雄]]戦でデビュー。 [[1981年]]に海外修業に出発、[[プエルトリコ]]にてマサ・フチこと[[渕正信]]と合流後に[[アメリカ合衆国本土|アメリカ本土]]に乗り込み、'''ミスター・オーニタ'''(''Mr. Onita'')の[[リングネーム]]で[[テネシー州]][[メンフィス (テネシー州)|メンフィス]]の[[コンチネンタル・レスリング・アソシエーション|CWA]]に参戦。[[トージョー・ヤマモト]]を[[マネージャー (プロレス)|マネージャー]]に迎え、渕とのコンビで[[ジェリー・ローラー]]&[[ビル・ダンディー]]や[[ロックンロール・エクスプレス]]とAWA南部タッグ王座を争った<ref name="memphis 1981">{{cite web|url=http://www.memphiswrestlinghistory.com/1981.html|title=Memphis Wrestling History 1981|accessdate=2011-09-19|publisher=Memphis Wrestling History}}</ref><ref name="awa-s-t">{{cite web|url=http://www.wrestling-titles.com/us/tn/cwa/awa-s-t.html#77|title=AWA Southern Tag Team Title History|accessdate=2011-09-19|publisher=Wrestling-Titles.com}}</ref>。遠征中の[[1982年]]3月7日、[[ノースカロライナ州]][[シャーロット (ノースカロライナ州)|シャーロット]]にて、[[チャボ・ゲレロ・シニア|チャボ・ゲレロ]]の持つ[[NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座|NWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級選手権]]に挑戦、セコンドに付いた[[テリー・ファンク]]の目前で、敵地でのタイトル奪取を成し遂げた<!-- この試合の模様は、ジャンボ鶴田のUNヘビー級選手権などと共に、日本テレビが収録し、後日「全日本プロレス中継」でも流している。タイトル奪取後の大仁田は、日本テレビのクルーからマイクを向けられて「社長(馬場)、社長、万歳!」と言って泣きじゃくっていた。-->。王座奪取後、日本に帰国する前にメキシコ遠征を行い、[[サングレ・チカナ]]に王座を奪われるものの、すぐに奪回し帰国する。 このベルトを引っさげて凱旋帰国した大仁田は、当時ライバル団体の新日本プロレスで爆発的人気のあった[[佐山聡|タイガーマスク]]に対抗し、<!-- 全日本では当時確立されておらず、立ち遅れていた-->ジュニア戦線のチャンピオンとして活躍。佐山タイガーの4次元殺法のような華麗さ、アクロバティックさはないものの、無骨で荒々しく感情剥き出しなスタイルから'''炎の稲妻'''と呼ばれ人気を博し、馬場、[[ジャンボ鶴田]]、[[天龍源一郎]]に続く全日第4の男として注目されるが、[[1983年]]4月20日、[[東京体育館]]での[[ヘクター・ゲレロ]]との試合終了後、リングを飛び降りる<!--際にトップロープを飛び越えたが-->着地時に足を滑らせ、全体重がかかった状態で膝を床に打ち付けてしまい、左[[膝蓋骨]]粉砕[[骨折]]をしてしばらく欠場<!--この怪我については、『チャボ・ゲレロとの対戦で、負けたチャボが腹いせにトロフィーで乱打したから』『チャボ・ゲレロ戦でトペに失敗して膝を強打したから』等、一部で誤解された。実際に後に大仁田の特集が組まれた際、トップロープを飛び越える直前の姿が放映されている-->。 一度は復帰するも、[[高杉正彦|ウルトラセブン]]、[[マイティ井上]]、渕正信、[[ハル薗田|マジック・ドラゴン]]らの台頭によるジュニア戦線の充実についていけず、馬場夫妻の勧告により[[1984年]]12月2日引退を賭けて[[マイティ井上]]と闘うも敗れ、翌[[1985年]]1月3日に後楽園ホールで引退式。馬場は付き人の大仁田を可愛がり、[[養子]]にしようと本気で考えており、[[馬場元子]]は引退式後に大仁田を抱きしめて涙していたため、馬場夫妻にとっては苦渋の決断だったことが伺える([[川田利明]]は1997年2月に[[週刊プロレス]]でのインタビューにおいて「大仁田さんが最初に引退した時、元子さんは号泣していた」と語り、その1997年2月に大仁田は自身の愛弟子である[[ハヤブサ (プロレスラー)|ハヤブサ]]を全日に参戦させようと馬場と交渉の場を持った。その際、馬場は大仁田を邪険に扱うことなく「欲しいものがあったら言え」と大仁田に伝え、ハヤブサの全日参戦を承諾した)。 === FMW設立 === その後、タレントに転向し、[[小松政夫]]に弟子入り<ref>『洋泉社MOOK タモリ読本』洋泉社 2014年より小松政夫談</ref>。『[[11PM]]』等にレギュラー出演するが、この時はタレント活動は長続きせずに辞めてしまう。その後、事業家として一時成功するが、すぐ没落して借金まみれになり、土木作業員や配達員をして糊口を凌いだ後に[[ジャパン女子プロレス]]でコーチに就任。[[1988年]]、同じくコーチをしていた[[グラン浜田]]との団体内での遺恨の決着をリング上でつけるために、12月3日ジャパン女子後楽園ホール大会の浜田戦で現役復帰した<ref>これは、当時経営難だったジャパン女子プロレスの経営改善策として、男子レスラーとの合同興行を画策したことによるが、所属選手の猛反発を受け(ファンの多くもそれに同調した)、1試合のみで終っている。</ref>。同時期には、旗揚げしたばかりの第2次[[UWF]]の会場へ顔パスで入場しアピールしようとしたものの、フロントに「チケット持ってますか?」と言われ一般ファン同様の扱いをされたがために会場に入れずに門前払いを受けている。 翌[[1989年]]、[[剛竜馬]]率いる[[パイオニア戦志]]のリングに上がり、剛と対戦。さらに7月2日に開催された「[[格闘技の祭典]]」にて、[[空手道|空手家]]の[[青柳政司]]と対戦した後、手元にあった全財産5万円を元手に<ref>正確には、大仁田の手元にあった5万円に、友人から借りた3万円を加えた合計8万円で「とりあえず(連絡用の)電話一本引いた」というのが、FMWの始まりという(大仁田本人談)。この時の「友人」とは[[ウォーリー山口]]で、同時に山口は、道場代わりの練習場所なども提供したという。</ref>自らの団体[[フロンティア・マーシャルアーツ・レスリング|FMW]]を旗揚げ。10月6日に名古屋市[[露橋スポーツセンター]]にて旗揚げ戦を行う(対青柳戦)。[[1990年]]8月4日に汐留で行われた[[ターザン後藤]]との[[デスマッチ#電流爆破デスマッチ|ノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチ]]で一気にブレイク。この試合は[[東京スポーツ]]主催のプロレス大賞年間最高試合賞を受賞する。その後も[[川崎球場]]や[[阪急西宮スタジアム|西宮球場]]などの大会場で大掛かりなデスマッチを開催し続け、「涙のカリスマ」、「デスマッチの教祖」と異名を取る一方、1991年には[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]の『[[天才・たけしの元気が出るテレビ!!]]』にも取り上げられ知名度を上げる。また、[[ザ・シーク]]や[[タイガー・ジェット・シン]]、テリー・ファンクら往年の名選手を招聘し、幾多の抗争を展開した。 [[1994年]]11月1日には[[グランドプリンスホテル新高輪|新高輪プリンスホテル]]で、縫合個所「1000針突破記念パーティー」を開催。 1994年5月5日の[[FMW川崎球場大会|川崎球場大会]]のメインイベントで[[天龍源一郎]]と対戦するも敗北し、一年後の引退を宣言。翌[[1995年]]5月5日に、川崎球場で弟子の[[ハヤブサ (プロレスラー)|ハヤブサ]]と戦い、2度目の引退。引退試合まで一年間をかけて「引退記念ツアー」を銘打ち、大仁田の試合が見納めになると思ったファンを集めた。 一時は俳優業に専念していたが、[[ミスター・ポーゴ]]の「引退試合で、ライバルだった大仁田とタッグを組みたい」という願いを叶えるといった[[アングル (プロレス)|アングル]]で、この一試合限定という建前で[[1996年]]12月11日のFMW駒沢体育館大会で2度目の復帰戦<ref>FMWで引退後の大仁田は、デスマッチによってできた額の傷を皮膚移植手術で整形し消すなど、プロレスとは一線を引く姿勢を見せていた。ファンの側も、体を酷使し(2度目の引退前、巡業先で過労などが原因で倒れて鹿児島の病院に緊急入院、危篤状態にまで至ったことがあった)やり尽くした末の引退という認識で、大仁田のプロレス復帰は絶対あり得ないと思われた。ところが暫く経つと、大仁田はプロレスマスコミに御意見番のような形で顔を出すようになり、しかも時が経つにつれ「何度でも言う、俺は二度と復帰はしない」という前言を反故にするかのように、「もし俺が復帰したとしたら…」などと、自分から「復帰」の二文字を口にし始めた。こうしてマスコミを巧みに誘導したうえ、プロレス会場、さらにFMWの会場にも現れた大仁田に対して「嘘つき」との声も飛んだが、ある時ついにリングに乱入してしまう。そして自身の矛盾について「俺は大嘘つきよ。だがお前らは今まで一度でも嘘をついたことはないのか!!」という論理で突破してしまった。これが一時期名乗ったニックネーム「ミスター・ライアー(嘘つき)」の所以である。なお、この2度目の復帰戦はもちろん、ポーゴの引退試合と銘打たれていたが、結果的に大仁田復帰戦の色合いが濃くなってしまい、しかも当日の観衆が7923人(超満員札止め)と、当時のインディー団体の大会としても稀な盛況となったことが、その後も大仁田が活動を続ける後押しとなってしまう。</ref>を行い(大仁田、ポーゴ、[[田中将斗|田中正人]]、[[黒田哲広]]組 対 テリー・ファンク、[[大矢剛功]]、[[ザ・ヘッドハンターズ (プロレス)|ザ・ヘッドハンターズ]]組)、そのままなし崩しにリングに上がり続けたが、[[荒井昌一]]社長、ハヤブサ、[[冬木弘道]]らとの対立が深まり、[[1998年]]11月20日の[[横浜文化体育館]]大会を最後に、FMWを追放される。この時の対戦相手は[[1997年]]に現役復帰したミスター・ポーゴであった。 ==== グレート・ニタ ==== レスラーとしての大仁田厚のもう一つの顔。[[武藤敬司|グレート・ムタ]]のパロディーでもある。元々は、FMWが旗揚げして間もない[[1990年]]に、大仁田がアメリカ遠征を行った際、現地の試合でムタばりの顔面ペイントを施し試合を行い、当時の[[週刊プロレス]]の記事に『グレート・ニタ?』と紹介されたことをきっかけとする。その時は、遠征時だけの限定だと思われており、大仁田自身もこの『グレート・ニタ』に関しては全く語ることはなかったが、1994年にミスター・ポーゴとの抗争において12月1日の[[広島県立総合体育館|広島グリーンアリーナ]]大会で、正式にグレート・ニタとしてのデビュー戦を行う(ニタ、[[ターザン後藤|ホー・チー・ウィン]]組対ポーゴ、大矢剛功組)。素顔の時と違い、奇声を発したり、奇妙な行動などを行い、対戦相手を困惑させるファイトスタイルを用いる。ポーゴの凶器攻撃を受けきった後逆襲に転じる試合展開に徹し、大仁田ではできない残虐な攻撃を仕掛けるところに持ち味があった。 大仁田2度目の引退試合に先立ち、1995年5月1日に[[大阪府立臨海スポーツセンター]]においてニタの引退試合が行われた(ニタ、田中正人、[[新山勝利]]組対ポーゴ、[[マイク・アルフォンソ|ザ・グラジエーター]]、[[保坂秀樹]]組)。試合後、ニタは大阪湾の彼方に消え、二度と現れないものと思われた。 だが、大仁田が現役復帰して[[新日本プロレス]]に参戦した際、[[武藤敬司]]がニタの存在に不快感を示したのをきっかけに、ニタと本家グレート・ムタとの一騎打ちが決定。その際『ワールドプロレスリング』内では、二タが消えたとされる大阪南港を舞台にした「ニタ復活」の映像が放送された。その寸前まで[[真鍋由]]アナウンサーに対し「お前はグレート・ニタを見たいか!」「二タは生きている! 今から呼ぶ!」と吼えていた大仁田が、ニタとして大阪湾から現れ、真鍋が驚愕の表情を浮かべる顛末は、もはや奇天烈さすら感じさせる映像となった。 [[1999年]]8月28日、[[明治神宮野球場|神宮球場]]においてムタ対ニタが行われた。しかし盛り上がらぬ試合展開のままニタは敗北し、試合後「ニタは死んだ」として葬式が行われ、いつの間にか現れた大仁田は棺桶の前で嗚咽した。 しかしその後、[[2003年]]に[[WJプロレス]]への参戦に伴い、「ニタは今魔界から帰ってきた」というアングルで再び復活させ、5月3日の[[大阪府立国際会議場|グランキューブ大阪]]大会で[[馳浩]]と対戦した(結果は「両者反則負け」)。 === フリーレスラーとして === FMW追放後は、新日本プロレスへ参戦。[[1999年]]1月4日の[[東京ドーム]]での[[佐々木健介]]戦を皮切りに、[[蝶野正洋]]、グレート・ムタ、[[長州力]]らトップレスラー相手に、メジャーの新日本マットで電流爆破マッチも実現。「大仁田劇場」と称された、真鍋由アナとのやりとりは、視聴者を楽しませた。 また、新日本参戦とほぼ並行して、一部のインディー団体やFMWのOB・OGたちの協力を得て「大仁田厚プロレス」と銘打った自主興行を開催。小規模ながらも団体並みにシリーズを組んで、地方巡業も行った。 [[2001年]]、「ジャイアント馬場三回忌追悼興行」で古巣・全日本に16年ぶりの参戦。テリー・ファンクと組み、[[アブドーラ・ザ・ブッチャー]]、[[ジャイアント・キマラ]]組と対戦した。 [[2003年]]には、[[WJプロレス]]に参加。[[越中詩郎]]と電流爆破マッチを行う。 2005年3月26日午前、[[日本武道館]]での明治大卒業式に出席し、午後には、後楽園ホールでプロレス興行「プロレス卒業試合」を行う。試合は、[[矢口壹琅]]と組んで天龍源一郎&越中詩郎と対戦する「ノーロープ有刺鉄線ストリートファイトトルネード・バリケードマット・ダブルヘル・フライパンデスマッチ」で、これで3度目の引退となったが、すぐに「[[曙太郎]]とデスマッチをやりたい」と発言するなど、誰も本当に引退したとは思っていなかった(曙とのデスマッチは後述の通り[[2012年]]に実現している)。 大方の予想を裏切らず、翌[[2006年]]には、「国のために死んでいった方々に礼を尽くす、記念すべき大会。もし良かったら参加させてほしい」と、4月1日の[[靖国神社]][[奉納プロレス]]大会への参加を[[中村祥之]]代表らに直訴し、「大仁田厚提供奉納試合」として3度目の復帰戦を行う(大仁田、田中将斗、[[澤宗紀|ランジェリー武藤]]組 対 ケルベロス、ヤヤ谷口、イチローキング矢口組)。当初はやはり「この一試合限り」ということだったが、2007年1月に正式にプロレスラー復帰を宣言。2月に行われるプロレス団体・二瓶組復活興行に参戦。それまで認める発言をしていた曙に対し「プロレスにはいらない存在、年内に葬り去る」と発言。 2007年4月29日、[[夕張市]]でチャリティー興行(自主興行)を開催。自らも出場したメインの有刺鉄線デスマッチには、[[国会議員#衆議院議員|衆議院議員]]・[[鈴木宗男]]を特別レフェリーに迎え、破天荒な試合を繰り広げた。 [[2008年]]2月5日、都内会見にて現役復帰を発表(通算5度目)。同月24日の[[LOCK UP (新日本プロレス)|LOCK UP]]後楽園大会に予告通り乱入し、長州力宛てにタッグ結成を申し出る手紙を渡す。乗り気な発言は見られなかった長州だったが、後日、[[リキプロ]]道場にて長州と対面しタッグ結成をほのめかした。4月、[[金村キンタロー]]の復帰を思わしくないとする発言に、金村本人が激怒。後に開かれた大仁田の会見に金村が乱入し一触即発となった。5月、LOCK UPの大会にて、金村・[[折原昌夫]]vs大仁田・越中がメインに組まれたが、結果は大仁田が毒霧攻撃で反則負けとなった。この2月の会見後、フリーとなった[[若林健治]]アナ(元・[[日本テレビ放送網|日テレ]])との掛け合いから、「大仁田劇場」も復活となった。 2008年12月18日、「昭和プロレス 第2弾興行」[[後楽園ホール]]でメモリアルタッグマッチ(20分1本勝負)に出場。[[栗栖正伸]]とタッグを組み、[[グラン浜田]]・[[鶴見五郎]]組に敗退した。 2009年9月26日 『大仁田興行』新木場大会。メイン終了後にターザン後藤が姿を現し,大仁田と握手した。 2010年5月5日、『大仁田興行』新木場大会で、ターザン後藤と組みザ・グレートパンク&初代ザ・シューター組と対戦し、『6度目』の引退試合を行うが、すでにカムバックを匂わす発言もしている(過去にプロレス雑誌で“生涯現役”と豪語しており、カムバックの可能性大だと予測されている。また、ターザン後藤から大仁田の引退はFMW時代から全く認められていない)。 2010年11月22日、[[Aky|ミス・モンゴル]]のデビュー15周年記念興行で、田中将斗&黒田哲広&ミス・モンゴルと組み、ミスター・ポーゴ&リッキー・フジ&ジ・ウインガー&保坂秀樹組と対戦。 2012年初頭からは、[[リアルジャパンプロレス]]での[[初代タイガーマスク|佐山聡]]、[[ZERO1]]での[[曙|曙太郎]]との抗争を立て続けに宣言したことをきっかけに、「邪道軍」としての活動を活発化。主に[[矢口壹琅]]、[[保坂秀樹]]を手下として行動を共にする機会が増加する。[[6月20日]]に初代タイガーマスクと[[デスマッチ|デンジャラス・スペシャル・ランバージャックデスマッチ]]で対戦するが敗北、曙との抗争でも、[[8月26日]]「横浜大花火」([[横浜文化体育館]])にノーロープ有刺鉄線バリケードマットダブルヘルメガトン電流爆破デスマッチで対戦し敗れている。この2件の抗争は継続することになる。なお、2012年8月より大仁田の興行は「○○大花火」(○○には開催地や開催地の名産品などが入る)となり、[[ファースト・オン・ステージ]]が協力し、ファースト・オン・ステージが運営する[[ZERO1]]が協力している。 翌2013年[[2月8日]]「なにわ大花火」([[大阪府立体育会館|大阪ボディーメーカーコロシアム第一体育館]])において、曙と再戦。そのときの試合形式は、「ノーロープ有刺鉄線電流爆破なにわ地獄デスマッチ~有刺鉄線電流爆破バット&有刺鉄線電流爆破椅子~」で、従来の電流爆破デスマッチのシチュエーションに加え、衝撃を加えることで電流爆破が発生する有刺鉄線を巻きつけたバット及びイスをリング上に設置した状態で行う前代未聞のものであった。この試合で大仁田は有刺鉄線電流爆破バットでの一撃で曙を下し、リベンジを果たす。 また、[[8月31日]]「横浜大花火」([[横浜文化体育館]])おいて、大仁田厚の化身「グレート・おおニタ」と、曙の化身「KILLER "ANY" WHERE」による「ノーロープ有刺鉄線メガトン電流爆破&史上初! 人間爆弾デスマッチ」も行われ、大仁田は[[全日本プロレス]]の[[白石伸生]]オーナーを人間爆弾に指名。この人間爆弾とは、爆破ベストを着た人間が衝撃を受けると、ベストが電流爆破されるという仕組みで、その人間爆弾を先に爆破させた者が勝利するという特別ルールが設けられる。試合では、白石オーナーが自らおおニタにタックルを浴びせ被爆、ダウンした白石オーナーにおおニタが覆いかぶさりカウント3が取られる形で幕を閉じた。 同年5月からは、葛西純による大仁田への批判コメントをきっかけとして、彼が率いる「unchain」と邪道軍による抗争が[[プロレスリングFREEDOMS]]にて勃発。この最中に同団体の所属レスラーである[[マンモス佐々木]]が邪道軍へ寝返ったことから、FREEDOMS全体との抗争へ発展した。 10月14日「越後大花火」([[朱鷺メッセ]])、12月13日「常陸国大花火」([[茨城県立スポーツセンター体育館]])、2014年3月21日「とんこつ大花火」([[博多スターレーン]])を開催した。 === 評価 === {{言葉を濁さない|section=1|date=2013年11月}} 人によって好き嫌いがはっきりと分かれるタイプのプロレスラーだが、ドラマに出演し巧みな演技を見せる等、一般的な知名度は比較的高く、またかつては“大仁田信者”と呼ばれる熱狂的な支持者も多かった。特にFMWを興して以降は、それが奇跡のカムバックと捉えられただけでなく、「大好き」とまで公言したプロレスに対して身を投げ打つかのような姿勢が強く支持された。 「[[テレビ番組]]が無ければプロレス団体運営は出来ない」と言われていた時代に、奇抜なデスマッチやパフォーマンス、様々なテレビ番組への出演により、プロレスに興味の無かった若年ファンの裾野を広げFMWの経営を軌道に乗せたことを評価すべきだという意見が存在する。また、FMWが対立概念となり、伝統ある他団体の観客動員増にもつながり、業界全体への功績は大きかったとの評価もある。 逆に否定的な評価・意見としては、FMWが成功したために、後にインディープロレス団体が乱立する遠因となったとするものがある」<ref>全日時代の大仁田は、団体のエースではなく一流のレスラーとは評価されていなかったため、「大仁田が成功したなら、自分も出来る」と錯覚させたことも理由のひとつに挙げられる。</ref>。さらに、FMWでの活動は流血やパフォーマンスが派手でデスマッチ中心であったために「'''邪道'''」と呼ばれ、キワモノとする意見も存在した。 <!--「ZEN」でのヒールを経て-->新日本参戦後はストリートファイトを強調すべく、「邪道」と背中に大きく書かれた黒の[[ジャンパー (衣服)|皮ジャン]]に、「EVIL WAYS」と記されたジーンズがトレードマークとなった。しかも入場時には、場内禁煙の会場にもかかわらず、[[紙巻きたばこ|煙草]]を燻らすパフォーマンスまで行い度肝を抜いた。これには新日本側も一度遺憾の意を示したが、大仁田は「俺は東京ドームで煙草が吸いたい<!-- ←週刊ゴング誌での発言。金沢克彦に対して。-->」と頑として譲らなかった。かくして後の東京ドーム大会の入場時には、吸殻がいつ捨てられてもいいように大きい灰皿(鉄板製)を持ったスタッフが、[[花道]]の下で大仁田の動きに合わせて歩くという光景も見られた。なお、「邪道」の黒[[皮ジャン]]は、2006年4月1日の靖国神社プロレス大会で、一回盗難に遭っている。 一方で礼儀を重んじる一面もあり、同期である[[長州力]]に対しては、(年上ということもあってか)たとえ敵対時でも名前をさん付けで呼ぶなどして基本的には敬語で接している。これには長州も「さん付けで呼んでくれるのか?」と唖然とするほど。のみならず[[蝶野正洋]]や[[橋本真也]]、[[ゴージャス松野|松野行秀]]ら後輩レスラーに対してまでも、名前をさん付けで呼ぶことすらある。 === プロレスラーとしてのエピソード === * 若手時代の[[渕正信]]とのシングル戦は前座の黄金カードと呼ばれ、当時は「全日の興行を観戦して前座に渕対大仁田のシングル戦が組まれていたら得をしたと思っていい」といわれるほど、渕と好勝負を繰り広げた。 * また、若手時代[[ミル・マスカラス]]が控え室でシャワーを浴びているときに、勝手にマスクをかぶっていたら素顔のマスカラスにみつかり、こっぴどく怒られた。 * 馬場の付き人時代、馬場の試合用[[パンツ]]を忘れてきたため、外国人レスラーのパンツを黙って借りてきて、馬場に履かせた。これが試合後に発覚し、馬場に怒られた末、[[チョップ|空手チョップ]]を受け、数日口を聞いてもらえなかった。その後、今度は馬場の衣服を忘れた時に、今度は正直に告白し土下座して謝ったら、黙って許してもらえた。それどころか馬場は、その時の巡業の間中、<!-- 東京に戻るまで -->団体のジャージでずっと過ごしたという。大仁田はこのことから「馬場さんに人として大切なことを教わった」と回顧している。 <!-- * ジャンボ鶴田試練の十番勝負最終戦フリッツ・フォン・エリック:リング下からアイアン・クローでリング内に引きこまれ、反則で鶴田の1本をアシスト。馬場が解説で「今のエリックはアイアンクローだけで大技1発で勝てる相手なのに反則勝ちとは」と散々嘆いていた --> * 大仁田はこれまで、事あるごとに馬場に対する気持ちを語ってきているが、これまでの言動は馬場の顔に泥を塗るようなものが多い。一方、膝の怪我による引退、1年間に及ぶ引退シリーズ、そして幾度かの復帰など、プロレスにおける行動は、[[NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座|NWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級選手権]]を獲得する際にサポートしていたテリー・ファンクとの共通性が強い。 * 経歴欄にある、1989年の「格闘技の祭典」での青柳との異種格闘技戦においては、大仁田側のセコンドには[[スペル・デルフィン]]、[[邪道 (プロレスラー)|邪道]]、[[外道 (プロレスラー)|外道]](いずれも若手時代)が付き、青柳側のセコンドには[[佐竹雅昭]]、[[松永光弘]]がいた。試合終了後、両セコンド陣はリング上に殺到し、入り乱れて大乱闘を繰り広げており、陰ながら「夢のカード」が実現していたともいえる。 * 全日本のジュニア戦線で売り出した頃は、[[片岡鶴太郎]]に顔が似ていると言われた。その当時のトレードマークは臀部に「ONITA」と書かれた白、黒、もしくは青いショートタイツだった。FMWでのカムバック後は、その青いショートタイツに白いタンクトップが加わった。当時、[[バラエティ番組]]で芸能人がプロレスの物真似をする際、[[ダチョウ倶楽部]]の[[上島竜兵]]は、よく大仁田に扮しており、白いランニングシャツとやはり臀部に「ONITA」と書かれた青いタイツを履き、さらに額に大きな絆創膏を貼り付けた格好で登場していた、同じく芸人の[[我が家]]の[[杉山裕之]]が大仁田に似てるとイジられるネタがあり、2011年2月6日放送の「[[クイズ☆タレント名鑑]]」のコーナー「芸能人! このオファー引き受けた? 引き受けなかった?クイズ」で「我が家に入った大仁田厚」のオファーを承諾し、杉山と入れ替わり我が家のコントをやった。それが杉山との初対面であり、大仁田自身も杉山に似てると良く言われるとの事。 * 1992年に来日し[[ユニバーサル・プロレスリング]]に出場したメキシコ人ルチャドール、[[ロッキー・サンタナ]]は大仁田に風貌が似ていると話題になり、会場で大仁田コールが発生し、本人も意識したのか、大仁田が行っていた水を口に含んで吹き出すパフォーマンスを行い、『偽大仁田』と呼ばれ親しまれた。また、大仁田が全日を退団した後、1998年に来日し、全日に出場したアメリカ人レスラーの[[ミッチー・スノー]]もジュニア王者時代の大仁田に風貌が似ていたため、『白い大仁田』と呼ばれている。 * 2003年の試合中、大仁田の秘書の[[中牧昭二]]が[[セッド・ジニアス]]に暴行し、その後大仁田がメールで恐喝を行ったとしてセッド・ジニアスから告訴される。大仁田も反訴する意思を見せていたが、2007年3月15日、[[最高裁判所 (日本)|最高裁判所]]第一小法廷(裁判長・[[泉徳治]])は、大仁田側の上告を棄却する決定をした。これにより、セッド・ジニアスを蹴った中牧昭二の不法行為と大仁田の使用者責任を認めて78万円の支払いを命じた一、二審判決が確定した。 === 得意技 === ==== 全日本プロレス時代 ==== ; [[ジャーマン・スープレックス]] : 全日ジュニアヘビー時代の大仁田のフィニッシュ・ホールドだった。今では信じられないが、ブリッジの美しさには定評があった。しかし膝の重症以降、バック・フリップ・ホールド、羽折式風車固めのような他のブリッジ技と共に永遠に封印された。 ; [[ダイビング・ヘッドバット]] : [[ハーリー・レイス]]のようにその場やコーナー二段目から放つタイプ、[[ダイナマイト・キッド]]のようにコーナーポスト最上段から放つタイプなど、色々と使い分けていた。 ; [[バック・フリップ]]・ホールド : [[バック・フリップ]]で投げた後、手を離さずそのままブリッジの態勢でフォールを奪う。ジャーマン・スープレックス同様、ジュニアヘビー時代にフィニッシュとして多用した。大仁田や[[倉持隆夫]]アナは'''ブロック・バスター・ホールド'''と呼称していたが、バック・フリップとブロック・バスターは別の技なので、バック・フリップ・ホールドが正解である。 ; サンダーファイヤー1号 : [[カナディアン・バックブリーカー]]の体勢に抱え上げ、そのまま後方に倒れ込んで相手の背中を痛打させる技。TVゲームでも「サンダーファイヤー」として登場したことがある。 ; サンダーファイヤー2号 : カナディアン・バックブリーカーの体勢に抱え上げ、前方へ走りながら倒れ込み相手を放り投げる。後のサンダーファイヤーパワーボムの原型となった技。 ; [[ダブルアーム・スープレックス#羽折式風車固め|羽折式風車固め]] : [[ダブルアーム・スープレックス]]で相手を投げた後、両手を離さずブリッジで決め、そのままギブアップを奪う。一見[[前田日明]]の[[ダブルアーム・スープレックス#風車固め|リバース・アームサルト]]に似ているが、こちらは相手の首を自分の脇に挟み低い態勢から素早く投げるヨーロッパ式ダブルアーム・スープレックスの後、3カウントを奪うものである。上記の通りジャーマン・スープレックス、バック・フリップ・ホールド同様、膝の重症以降は封印された。 ; [[トペ・スイシーダ]] : NWAインター・ジュニアヘビー王者としてメキシコに転戦した際、身に付けたもの。大仁田のトペ・スイシーダは体を捻りながら放つため、ショルダー・スイシーダのような感じで相手に見舞っていった(天龍のトペと似ているが、無論使い始めたのは大仁田の方が先である)。FMW以降の試合でも、まれに使うことがある。 ; [[体当たり#フライング・ボディ・アタック|フライング・ボディ・アタック]] : トペ・スイシーダ同様、メキシコに転戦した際、身に付けたもの。相手をロープに飛ばしてのカウンター式、コーナートップから[[ミル・マスカラス]]のように放つタイプなど様々に繰り出した。ダイビング・ヘッドバット、トペ・スイシーダ同様に、この時期何かと比較された[[初代タイガーマスク]]への対抗心が伺える技であった。 ; [[ドロップキック#ミサイルキック|ミサイルキック]] : 当時はこの技を切り札にしていた先輩の[[ジャンボ鶴田]]に影響を受けたのか、鶴田同様のスクリュー式ミサイルキックをNWAインター・ジュニアヘビー級選手権で良く用いた。タイトルを巡ってのライバルだった[[チャボ・ゲレロ・シニア|チャボ・ゲレロ]]との試合では、必ずといっていいほど繰り出していた。 ; [[エルボー・バット]] : 組み合い、接近戦でよく用いた。特に[[ザ・ファンクス]]仕込みの[[エルボー・バット#エルボー・スマッシュ|エルボー・スマッシュ]]は、大技への繋ぎ、反撃の糸口として多用した。 ; [[トラース・キック]] : 試合の流れを変えようとした際に用いた。その場で蹴るパターンと、ロープへ振ってからのカウンターで蹴るパターンがあったが、現在は膝の負傷もあり殆ど使用していない。 この他にも、チャボ・ゲレロからNWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級王座を奪取した際のフィニッシュである'''[[フォール技#メキシカン・ローリング・クラッチ・ホールド|高角度前方回転エビ固め]]'''、同王座がNWA本部預かりから名称を[[NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座]]に変更してチャボ・ゲレロと行われた新王者決定三番勝負の3戦目では'''[[フォール技#逆さ押さえ込み|逆さ押さえ込み]]'''で新王者になるなど、ジュニアヘビー選手らしいトリッキーな逆転フォール技もかなり多用していた。 ==== FMW以降 ==== ; [[パワーボム#サンダーファイヤーパワーボム|サンダーファイヤーパワーボム]] : 通称TFPB。通常のパワーボムのように相手を自らの頭上にまで持ち上げるのではなく、カナディアン・バックブリーカーの体勢に抱え上げてからパワーボムを決める。全日時代のサンダーファイヤー1号・2号をアレンジした技であるが、本来の形式で放っていたのはFMW時代初期までで、94年頃からは徐々に通常の形式のパワーボム(対戦結果にはTFPBと記載された)を放つようになっていった。 ; [[DDT (プロレス技)|DDO]](デンジャラス・ドライバー・オオニタ) : 「DDT」の大仁田式の名前。頭を抱え込んでから後方に転がるのではなく、そのまま垂直に落下させるのが特徴。 ; [[頭突き|ノータッチ・ヘッドバット]] : 相手を掴んだりせずに、目標に対して額から突っ込むかのように、至近距離から放つ。連発することも多い。連続で繰り出すのが定番だが、3発目以降に相手に透かされて有刺鉄線や電流爆破に突っ込むのもお約束となっている。 === 獲得タイトル === * [[NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座]](前身に当たる「[[NWAインターナショナル・ジュニアヘビー級王座|NWAインターナショナル世界ジュニアヘビー級選手権]]」も獲得) * [[アメリカン・レスリング・アソシエーション|AWA]]南部タッグ (パートナーは[[渕正信]]) * NWA南部タッグ (パートナーは渕正信) * [[WWA世界ブラスナックル王座]] * [[WFDA世界マーシャルアーツ王座]] * [[WFDA世界マーシャルアーツタッグ王座]](パートナーは[[ターザン後藤]]) * [[世界ブラスナックル王座]] * 旧NWA五大湖地区USヘビー * [[世界ストリートファイト6人タッグ王座]] * ボブワイヤーストリートファイト6人タッグ<!--世界ストリートファイト6人タッグ選手権のベルトを、1998年11月のFMW追放の際に、荒井社長が大仁田に譲渡。それを大仁田が自主興行に活用したもの。--><!-- http://www.geocities.co.jp/Athlete/8528/battle/00-02-03-ot/text.htm --><!-- http://www.ddtpro.com/news/0007.htm --> === 入場テーマ曲 === * [[恋はワイルド・シング|Wild Thing]]([[X (バンド)|X]]) * スーパースター(ドン・エリス) : 全日本プロレス時代に使用 == タレント活動 == 芸能活動も積極的に行い、[[日本放送協会|NHK]]の[[大河ドラマ]]『[[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]]』では[[蜂須賀正勝|蜂須賀小六]]役を演じた。現在もタレント活動は続けており、時に番組のゲストである[[松野行秀|ゴージャス松野]]に椅子を投げつけるなどの暴力的な言動をとり、他のゲストから一斉に非難を浴びるなど(その後両者は互いに握手を交わして和解)、今もその破天荒さは健在である。 しかし、その一方で[[吉田豪]]や[[杉作J太郎]]などは大仁田を「リング内よりもむしろリング外の方が[[ガチンコ]]の人物で、下手に絡むことが出来ない。天性のアドリブ能力で渡り歩いてきた人物のため、突発的にとんでもない行動を起こすことがある」と評価している。 === バラエティ === * [[志村けんのだいじょうぶだぁ]](フジテレビ) * [[大仁田厚のファイヤーランド]]([[長崎文化放送]]) * [[ぶらり途中下車の旅]]・京王帝都電鉄線・西武池袋線編([[1997年]]・[[1998年]]、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[2COOL!]](東海ラジオ) * [[すんげー!Best10]]司会(朝日放送・1995年、わずか3か月で降板) * [[大仁田厚のクルージング・ナガサキ]]([[エフエム東京]])1998年4月-1999年10月 * [[ここがヘンだよ日本人]](TBS) * [[サバドル!]]([[テレビ東京]]) * [[復活の日 (テレビ番組)|復活の日]](2008年 - 2009年、TBS) === テレビドラマ === * [[往診ドクター事件カルテ]](1992年、[[テレビ朝日]]) * [[秀吉 (NHK大河ドラマ)|秀吉]](1996年、NHK) * [[ひと夏のプロポーズ]](1996年、[[TBSテレビ|TBS]]) * [[コーチ (テレビドラマ)|コーチ]](1996年、[[フジテレビジョン|フジテレビ]]) * [[ボディーガード (1997年のテレビドラマ)|ボディーガード]](1997年、テレビ朝日) * [[LOVE&PEACE (テレビドラマ)|LOVE&PEACE]](1998年、[[日本テレビ放送網|日本テレビ]]) * [[私の青空]](2000年、NHK) * [[タイムキーパーズ]] (フジテレビ) * 金曜エンタテイメント「大家族デカ(第1作のみ)」(フジテレビ) === 映画 === * [[刑事物語#刑事物語 くろしおの詩|刑事物語 くろしおの詩]]([[1985年]]・[[東宝]]) * [[幕末青春グラフィティ Ronin 坂本竜馬]] ([[1986年]]・東宝) * [[ダンガン教師]] ([[1995年]]) * [[極道ソクラテス]](1996年・[[日活]]) * [[モスラ3 キングギドラ来襲]](1998年・[[東宝]]) * [[トリック (テレビドラマ)|トリック劇場版2]](2006年・東宝) * [[attitude (映画)|attitude]](2008年) === スポーツ番組 === * [[激生!スポーツTODAY]]([[テレビ東京]]) === ゲーム === * [[大仁田厚 FMW]]([[スーパーファミコン]])※ゲーム中にレスラーとして本人が登場 * いつでもどこでも 大仁田厚の政治クイズDS([[ニンテンドーDS]]) === CM === *[[山之内製薬]]「マキロン」(消毒薬) == 政治家として == {{政治家 |各国語表記 = おおにた あつし |国略称 = {{JPN}} |生年月日 = {{生年月日と年齢|1957|10|25}} |出生地 = [[長崎県]][[長崎市]] |没年月日 = |死没地 = |出身校 = [[明治大学]][[政治経済学部]][[夜学]] |所属政党 = ([[自由民主党 (日本)|自由民主党]]→)<br />[[無所属]] |称号・勲章 = |配偶者 = |サイン = |ウェブサイト = http://oonita.hot-boy.jp/ |サイトタイトル = 大仁田厚公式サイト |国旗 = JPN |職名 = [[国会議員#参議院議員|参議院議員]] |内閣 = |選挙区 = [[参議院比例区|比例区]] |当選回数 = 1回 |就任日 = 2001年7月29日 |退任日 = 2007年7月28日 |退任理由 = |元首職 = |元首 = }} 2001年7月29日に実施された[[第19回参議院議員通常選挙|第19回参院選]]に比例区で出馬、当選。「[[小泉チルドレン]]」の一人となった。元参議院議員[[平野貞夫]]によると、当初は自民党からではなく[[小沢自由党]]から出馬することが決定していたが、大仁田が仕事の金銭問題を理由に出馬断念を表明した(平野によると大仁田は他党から出ないことを明言していた)。しかしその直後に自民党から出馬を表明してこの約束を反故にしたという。同選挙では[[自由連合 (政党)|自由連合]]より[[佐山聡]]も出馬していたことから、かつてのライバル関係を知るファンから注目を浴びたが、双方とも互いの出馬にはほとんど触れず、大仁田のみ当選した。 2005年8月8日、参議院本会議での[[郵政民営化]]関連法案採決を棄権。理由は「[[離島]]の郵便局が守られないから」とされる。2007年6月23日、次期参議院選挙に不出馬、政界引退を表明。9月7日、自民党を[[除名]]された。 === パフォーマンス === * 2001年7月の参院選に出馬の際、「当選したら[[アントニオ猪木|猪木]]と闘う」という選挙公約を掲げていた。 * 「当選したら学生服で登院する」とも主張していたが、初登院時はスーツ姿で登場。以後1度も学生服で議員活動をすることは無かった(本人は著書の中で学生服を着て登院して良いかどうかを[[議院運営委員会]]に尋ねたが、議院運営委員会側は「学生服は[[戦闘服]]とみなし、それを着て登院してはならない」と回答して学生服を着ての登院は却下されたとのこと)。 * 2003年7月25日、参議院[[外交防衛委員会]]でイラク特措法案([[イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法]]案)の採決で、委員長の護衛役としていたが[[強行採決]]となり、自由党(当時)参院議員の[[森裕子]]に髪をつかまれ頭を殴りつけられた。これに対してはマスコミのインタビューを通して森に猛抗議を行っている。 * 2005年8月8日、参議院での郵政法案否決後、国会から『ワイドスクランブル』(テレビ朝日系)に生出演。ゲストとして出演していた[[浜田幸一]]に「議決権を行使しない者に議員の資格はない」「反対なら反対できちっと明確に意思表示をする。それが、あなたの長崎県の代表としての務めだ」などと言われ「でも、僕は小泉さんの子供ですから…僕には裏切れなかったんですよ!!」と突如怒鳴りだした。しかし、浜田から「何でお前がそこで怒鳴るんだよっ!!」と逆に激怒され、さっきまで激怒していた大仁田が突如冷静になり、逆に浜田から窘められる場面もあった。大仁田はその後「すいません」とだけ言ってカメラの前から立ち去った。 * 参議院での採決前には「衆議院が解散されたら離党する」と発言。しかし実際には離党しなかったため本人のホームページには非難の書き込みが殺到した。 * 郵政法案採決前に「[[小泉純一郎|小泉総理]]に直談判する」として面会を求めたが事前告知無しだったため断られる。法案否決直後は涙を流して小泉首相の強権的手法を批判した。しかし、[[第44回衆議院議員総選挙|第44回総選挙]]で自民党有利の情勢が伝えられると、掌を反して「民営化こそ改革です」と主張して[[片山さつき]]の応援に出向いた。この変節振りに非難が集中した。さらに、総選挙後法案採決に棄権したことに関して党紀委員会より[[戒告]]処分を受けた。 * 自民党衆院議員の[[杉村太蔵]]の軽率な言動に対し、彼の教育係を自ら買って出た。しかし杉村本人と[[自由民主党幹事長|党幹事長]]の[[武部勤]]は全く無視し、そのため武部に抗議文を提出した。 * 杉村の事務所に訪問した際、杉村本人が不在であったためマスコミに囲まれる中で不満を爆発させた。それ以外にもさまざまな行動で杉村・武部を批判する。 * マスコミから「(杉村への言動が)パフォーマンスなのでは?」という質問を受け「パフォーマンスですよ。パフォーマンスしてなんで悪い?」と発言した。 * 2005年12月22日、[[共同通信]]は2006年2月の[[長崎県]][[知事]]選に大仁田が立候補を検討していることを報道した。このことは大仁田の関係者が長崎市内で開かれた知事選の立候補予定者説明会に出席していることから明らかになったものである。 * 2006年1月10日、長崎県知事選への立候補見送りを表明。[[金子原二郎|金子知事]]が自身の掲げた政策の取り入れを検討するとしたため。 === 政界引退 === 2007年7月29日の[[第21回参議院議員通常選挙]]では初当選時に引き続き比例区での公認が内定していたにもかかわらず、6月23日に記者会見を開き突如政界からの[[引退]]を表明した<ref>{{Cite news |title=大仁田氏が会見 参院選出馬取りやめ政界引退 |url=http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070623-OHT1T00132.htm |date=2007-06-23 |publisher=[[スポーツ報知]] |accessdate=2014-03-05 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20080320074408/http://hochi.yomiuri.co.jp/topics/news/20070623-OHT1T00132.htm |archivedate=2008-03-20}}</ref>。 [[通常国会]]の国会会期延長により当初は7月22日に予定されていた投票日が1週間ずれ込んだことなどを理由に[[第1次安倍内閣|安倍内閣]]への不信感が強まったとしているが、スキャンダルが6月25日に週刊ポストに掲載予定で、当選の見込みがなくなったための身引きであることは明らかであり、この行動は批判を浴びた。なお、会見の中で「自分は若者の代表だ。夏休みでは若者の投票が減る」といった発言をしているが、'''当の本人が当選した2001年の参議院選挙の投票日も7月29日'''である。このことを大仁田本人が自覚しているのかは不明である。 6月25日発売の『[[週刊ポスト]]』に、大仁田が[[国土交通省]]のキャリア官僚と[[キャバクラ嬢]]や[[AV女優]]を自宅の高級マンションに招き乱痴気騒ぎを起こしたことを報じられた<ref>{{cite news|url=http://www.j-cast.com/2007/06/25008698.html |title=大仁田議員「乱痴気パーティー」 スキャンダル記事で政界引退?|publisher=[[J-CASTニュース]]|date=2007-06-25|accessdate=2012-07-31}}</ref>。 7月17日には党本部に離党届を提出した。その後は野党候補の応援演説([[民主党 (日本 1998-)|民主党]]公認の森裕子。大江康弘や同党、[[新党大地]]、[[国民新党]]推薦の[[多原香里]]など)をしていた。9月7日に、前述の野党候補の応援を理由に、党紀委員会全会一致で自民党を[[除名]]された。なお、提出され党本部預かりとなっていた離党届は不受理。 === 長崎県知事選出馬 === 政界引退後、故郷である長崎県でテレビやラジオの出演、地元紙への登場など精力的に活動を行う。景気低迷で中小企業等が厳しい状況に苦しむ姿を目撃し、長崎の再生を決意したとされる<ref>{{cite news|url=http://www.nikkansports.com/general/news/p-gn-tp3-20091020-557399.html|title=大仁田厚氏が長崎県知事選に出馬|work=nikkansports.com|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2009-10-20|accessdate=2010-02-22}}</ref>。 [[2009年]][[10月20日]]、翌[[2010年]]2月の[[2010年長崎県知事選挙|長崎県知事選挙]]に出馬する意向を固めたことが明らかになり、2010年[[2月4日]]に正式に立候補を届け出。[[2月21日]]に執行された選挙では9万8200票を獲得したが6人中3位となり落選した<ref>{{cite news |title=大仁田氏、長崎知事選で落選 6人中3番目 |url=http://www.sanspo.com/shakai/news/100221/sha1002212236012-n1.htm |date=2010-02-21 |newspaper=SANSPO.COM |publisher=[[サンケイスポーツ]] |accessdate=2014-03-05 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20100608082131/http://www.sanspo.com/shakai/news/100221/sha1002212236012-n1.htm |archivedate=2010-06-08}}</ref>。 === 政治家としてのメディアへの登場 === * 月刊誌「[[サイゾー]]」内の「ニュースのミカタ」 ** 2006年12月号:[[中川昭一]][[政策部会#各党の政策部会|政調会長]]の[[核武装論#核武装を巡る検討と発言の歴史|核武装論]]問題についてコメント ** 2007年1月号:[[教育基本法#旧法の改正論に対する賛否|教育基本法改正問題]]についてコメント ** 2007年2月号:[[安倍政権]]100日目の総括についてコメント == その他のエピソード == * 大仁田がプロレスラーになろうと決心したのは、「子供の頃[[1967年]]4月に放送された[[ウルトラマン]]の最終回で初代ウルトラマンが[[ゼットン]]に敗れたシーンを見て衝撃を受け、そのためウルトラマンの仇を討つために打倒ゼットンを志した」としている。最終回を見たその日から[[バケツ]]に[[セメント]]を入れた自作の[[バーベル]]を使ってトレーニングを始めたというほどである<ref>『[[FLASH (写真週刊誌)|FLASH]]([[光文社]])2014年4月29日号 102ページより</ref>。同じプロレスラーの[[前田日明]]にも同様のエピソードがある。 * テレビ番組収録時にケガをして大きな切り傷から出血してしまったが、近くに病院がないため、その場にあった瞬間接着剤で傷口を塞いでその場をしのいだ。その後、病院に行ったところ医者から「その処置は正しい」と言われた(その時使用した瞬間接着剤が、医療用の物かどうかは<!--、現在のところ。-->不明)。なお、試合中のケガの応急手当としても瞬間接着剤を多用していることは本人も公言している。 == 脚注 == {{Reflist}} == 関連項目 == * [[自由民主党国会議員一覧]] * [[臨死体験]] == 外部リンク == * [http://ameblo.jp/atsushi-onita/ 大仁田厚 オフィシャルブログ 「FIREブログ」 Powered by Ameba](2008年7月10日 - ) * [http://www.alpha-japan.com/ 大仁田厚 オフィシャルサイト]](公式サイト) * {{Facebook|atsushi.onitafire}} * [http://ch.players.tv/movie/page/=/kixxandcry/index プレイヤーズTVのKIxxANDCRY(キスアンドクライ)公式チャンネル](更新停止) {{プロレス大賞MVP歴代受賞者}} {{デフォルトソート:おおにた あつし}} [[Category:大仁田厚|*]] [[Category:日本のプロレスラー]] [[Category:全日本プロレスに所属したプロレスラー]] [[Category:FMWに所属したプロレスラー]] [[Category:NWAに参戦したプロレスラー]] [[Category:ECWに参戦したプロレスラー]] [[Category:WJプロレス]] [[Category:DRAGON GATEに参戦したプロレスラー]] [[Category:ZERO1]] [[Category:ジャパン女子プロレス]] [[Category:プロレス・エグゼクティブ]] [[Category:プロレスのプロモーター]] [[Category:日本のタレント]] [[Category:日本の俳優]] [[Category:GyaOジョッキー]] [[Category:自由民主党の参議院議員]] [[Category:比例区選出の参議院議員]] [[Category:日本の都道府県知事選挙の立候補経験者]] [[Category:ジャイアント馬場]] [[Category:明治大学出身の人物]] [[Category:長崎県出身の人物]] [[Category:1957年生]] [[Category:存命人物]]
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