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大久保忠顕
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'''大久保 忠顕'''(おおくぼ ただあき、[[1760年]][[12月5日]]([[宝暦]]10年[[10月28日 (旧暦)|10月28日]]) - [[1803年]][[9月23日]]([[享和]]3年[[8月8日 (旧暦)|8月8日]]))は、[[相模国]][[小田原藩]]の第6代藩主。小田原藩大久保家8代。 第5代藩主・[[大久保忠由]]の長男。正室は[[中川久貞]]の娘。子に[[大久保忠真]](長男)、娘([[南部信真]]正室)、娘(紀伊支流[[松平頼啓]]正室)、娘([[大久保教孝]]正室)、娘([[大久保教富]]正室)。官位は従五位下、[[加賀国|加賀]]守。 忠顕が藩主の頃、小田原では[[天明の大飢饉]]や地震による[[小田原城]]や城下町の倒壊など、その治世は天災により多難を極めた。おまけに[[城下町]]が[[東海道]]一の[[宿場町]]であったことから、商品経済の渦に巻き込まれ、財政が窮乏する。 このため、忠顕は質素倹約や華美の禁止などによる財政改革を行なったが、かえって物価高騰を招いた。おまけに幕府から海防を命じられ、さらに財政は逼迫した。このため、藩の改革は長男・忠真と[[二宮尊徳]]によって受け継がれることとなる。 {{小田原藩主|大久保氏|6代|1769年 - 1796年}} {{DEFAULTSORT:おおくほ たたあき}} [[Category:小田原藩主|大06]] [[Category:大久保氏|たたあき]] [[Category:1760年生]] [[Category:1803年没]]
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